第2話〖壁の奥の人へ〗
急に走ったせいか、脇腹が痛む。荒い呼吸を整えるために深呼吸をひとつして、古びた扉をノックした。
「ガラ爺、こんにちは。パンをお届けに来たよ」
私の挨拶を聞いたらしい家の主が入っておいで、と許可をくれたのでドアノブを掴んで引く。キィと音を立ててゆっくり開いた。
「おぉ、ジュリーか。よく来たな」
ベッドに腰をかけていた一見厳しそうな老爺──通称ガラ爺は優しく微笑んで手招きをする。とてとて近寄って、ハグをした。骨ばった大きな背中は硬いけれど暖かい。
「腰、大丈夫? お母さんが心配してた」
「いや、そんなに気にする程でもない。元軍人を舐めるなよ」
ニカッと笑う。ガラ爺は私のおじいちゃんの友人で、亡命を助けてくれた恩人だ。だからたまに、私はガラ爺にうちのパンを届けにくる。その時はちょっとしたお茶をしながら世間話をするのだ。私があっちの国と繋がりがあると知っている唯一の人でもあるので、何も気にすることなくおしゃべりできるのがとても楽しい。
「ね、ガラ爺は〝ユーフォルビアの丘の上で〟って歌知ってる?」
「ああ、それならよく知ってる。お前のおじいさんがよく歌っていたよ。歌詞は覚えてないが、別れの曲だったか?」
「んー、そうかも? 私ね、あれをたまに歌ってるの」
「なんだと?」
瞬間、ガラ爺の目つきが変わった。いつもの優しい目じゃない。少しつり上がってて、おっかない。
「ジュリー、向こうの国の歌を歌ってるのか?」
「え、う、うん。だって、おじいちゃんが残してくれた唯一の歌で……」
「すぐにやめろ。どうしても歌いたいなら、心の中で歌うんだ」
「でも……」
「非国民だと言われてしまえば、お前たちの居場所は無くなる。お母さんを路頭に迷わせたいのか」
ガシッと、強く腕を掴まれる。怒ってるわけじゃない、心配してくれているんだ。実際、ガラ爺の言う通り、私はやってはいけないことをやってる。なんだか実感させられてしまった。
「いいか、俺は昔、それなりの地位にいた軍人だった。でも今はこの辺境の、壁の近くにある貧困層が住む地域に暮らしている。なぜだかわかるか? スパイ行為が疑われたからだ。今のこの国で非国民の烙印を押されてしまえば、どんな目に遭うかわからないぞ」
真剣に、真っ直ぐ真っ直ぐ私の瞳の奥を見つめて、説得される。分かってた。でも甘かった。
「……ごめんなさい」
大人しく謝る。だって私が悪い。分かればいいんだ、とガラ爺はお茶を啜った。
「さて、新作のパンはどんな感じなんだ? 村のみんなも楽しみにしてたんだぞ」
空気が変わって、一気に穏やかになった。ガラ爺はニヤニヤしながらバスケットを漁り始める。私はいまいち切り替えられずに、口角を無理やりちょっと上げた。
もし怒られなかったら、壁の向こうの人と一緒に歌った話をしたかったんだけどな。
* * *
吐く息が白い。軽くなったバスケットを持ちながら、私は壁をなぞりながら暗くなった道を歩いていた。森の道を通って帰ろうと思ったけど、やっぱりこっちに足を向けてしまった。これで最後。これで最後にするから。
「〝空は青く、花は咲く……〟」
いつもの癖で、口遊んでしまった。心の中で、歌えるかな。心の中に、閉じ込めておけるのかな。
カリっと指先が薄い何かに触れた感触を伝えた。手先を見ると、土壁の隙間に紙が挟まっていた。思わず抜き取る。2つ折りになっていて、文字が書かれているようだった。
これは、手紙? 密告のメモとかだったらどうしよう。でももう抜き取ってしまった。戻す?
でも、ちょっとくらい見てもいいよね……?
おずおずと両手で開いてみると、そこに書かれてあったのは。
『拝啓、〝ユーフォルビアの丘の上〟を歌う、壁の奥の人へ』
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