ユーフォルビアの丘の上で
瑠栄
第1話〖あっちの国の少年〗
おじいちゃんの、低くて少ししゃがれた歌声が大好きだった。どれだけ疲れてても、どれだけ怖くてもあの歌を口遊んで歩けば楽しくなれた。
「〝空は青く、花が咲く。ユーフォルビアの丘の上で踊ろう〟」
今日も私は、井戸で水を汲みながら、誰にも聞かれないように小さく小さく歌う。ふいに、誰かが近づく気配がした。そしたら私は急いで口を閉じる。もう慣れたことだった。
だってこの歌を歌ったのがバレたら、どうなるか分からない。お母さんにならまだいいけど、村の人に見つかったら迫害されるかもしれない。だってみんな、壁の向こうには化け物がいるって信じてる。
それでも私は口にすることを辞めることができない。この歌を歌ってる時だけ、おじいちゃんが傍にいるような気がするから。
「っ、冷たっ……。またあかぎれしちゃうよ……」
洗濯板を擦る度に、手がじんじん痛む。水が随分冷たくなった。もうすぐ雪が降るのかもしれない。家に入ったら、冬支度を始めようかな。
一通り洗濯が終わったので立ち上がる。青い空を見上げて背伸びをしていると、お母さんがを後ろから声をかけてきた。
「ジュリー、お疲れ様。今度は隣の村にパンを売りに行ってくれる? そうそう、ガラ爺の家には配達に行ってちょうだい。あの人最近腰が悪いそうだから」
「分かった。じゃあ晩御飯までには戻ってくるね」
お願いね、と微笑むお母さんと、私が持つ洗濯物とホカホカのパンが詰まったバスケットを交換する。
「ありがとう。壁の側を通って行ったらダメよ。危険だから、森の方から行きなさいね」
はーい、とお母さんの忠告に空返事して、私は村を出た。
* * *
いつも私は、壁の側を通るなというお母さんの忠告は無視をする。若干後ろめたい気持ちはあるけれど、こっちの方が近道だし、何より
「〝空は青く、花が咲く。ユーフォルビアの丘の上で踊ろう〟」
茶色の土壁の凸凹した感触を確かめながら、サクサク歩いて、歌を歌う。壁──こっちの国とあっちの国を挟んだ頼りなく薄い国境の側には、人はほとんど近寄らない。だから思いっきり歌える。あっちの国で親しまれている童謡を。
「〝空は赤く、花は散る。ユーフォルビアの丘の上で歌おう〟」
あぁ、楽しい。あっちの国の人だったおじいちゃんが教えてくれた、唯一の歌。こっちで歌ったら非国民だなんだ言われちゃうから大っぴらに歌えない歌。お母さんはもう歌わないから、私だけの歌。
こうして歌いながら歩いていると、小さかった頃の亡命の日々を思い出す。あっちの国での生活が成り立たなくなって、おじいちゃんとお母さんと私で命からがら脱出してきたっけ。今となっては、あっちの国にルーツがあるって、村人たちにバレないようにビクビク暮らす日々だ。お父さんとお兄ちゃんもいる、あの頃に戻りたいな。また、みんなでワイワイ食卓を囲みたい。
なんだか目頭が熱くなって、少し目を擦った。その時だった。
──壁の向こうから、凛とした、少年の真っ直ぐな歌声聴こえる。
「〝冬になって、ユーフォルビアの丘の上でさようならか〟」
知ってる、この歌。これの続きは
「〝泣かないで前を見て。僕たちは再会する〟」
声が、重なった。あっちの国の少年と、歌声が重なった。思わず立ち止まる。でも、ここでじっとしていてはいけない。パンの配達はともかく、ここにずっといたらスパイ行為を疑われてしまうし、万一攻撃を受けて壁が崩れたら危ない目に遭ってしまう。
好きな歌を一緒に歌いたい気持ちをぎゅっと堪えて、私は向こうの村まで一気に駆け抜けた。
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ユーフォルビアの丘の上で 瑠栄 @kafecocoa
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