菊青抄 番外編1 シイネの思い出
@aburadeagetaimo
シイネの思い出
専属医が巫女様の脈をとり、沈痛な面持ちでその崩御を告げたとき、部屋中に慟哭が満ちました。その嘆きの声を聴きながら、ついにこの日が来てしまったのだと、わたしは絶望に満ちてそっと目を閉じました。
八歳で「巫女様付き侍女見習い」として塔に入ったわたしは、最初に塔の中ほどにある部屋の者たちの世話を言いつけられました。その部屋にいるのは老人や病人ばかりで、共通しているのは、どの人も青の目を持っているということでした。わたしにはそれがひどく気味悪く思われて、初めの頃はその部屋に行くのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。それでも、他に行くところもなければ、明日の食い扶持を稼ぐ力もない少女は、割り当てられた仕事をするよりほかはありませんでした。
ある日のこと、青の目の人たちの身体を拭くために、湯を入れた桶を持って部屋に入ったわたしは、中に見慣れない女性がいるのに気がつきました。身なりは神殿の神官長たちのそれに雰囲気は近いのですが、房飾りなどがついて、また生地も明らかに数段上の豪奢なものでした。年は老境にさしかかろうかという頃で、よく見ればその女性も青の目を持っていましたが、その部屋にいる他の人たちとは違って、歩き回り、他の人たちの話を聞いてやっているようでした。
「あの女性は誰ですか?」
先輩に当たる巫女様付き侍女見習いのスーラに訊ねると、スーラはひどく呆れたような顔をしてわたしを見ました。
「シイネ、あなた巫女様のお顔も存じ上げないでここにいたの?」
言われてわたしは、恥ずかしさに顔を赤くしました。
「すみません。わたしはこのお部屋の人たちしか見たことがなかったので……あれが巫女様ですか?」
「ええ、そうよ。ああやって、ご体調の良いときにはここにいらして、あの方たちとお話になるの。そういえば、ここしばらくはお風邪を召して、下に降りていらっしゃらなかったわね」
「ここにいるのは巫女様の親戚だと聞きましたが、なんで病人や年寄りばかりなんですか?」
「神官大臣のオズマ様が巫女様をお迎えに上がったとき、他の人たちは怖がって他所に逃げてしまったらしいわ。巫女様を置いて行くだなんて、ほんと薄情だし愚かよね。おかげで巫女様はいつもおさびしそうにしてらっしゃるの、お気の毒だわ」
そんな話を聞きながらわたしは、病人や老人の間を縫って移動される巫女様を、遠くから眺めていました。
それから巫女様はちょくちょく部屋にいらっしゃり、血縁の方たちとお話しされたりしていましたので、わたしもそのお姿をお目にかけることがありましたが、言葉を交わすことはありませんでした。巫女様が血縁の方たちと話す言葉はわたしの耳なじみのないもので、巫女様は異国から来たのだろうとわたしは思っていました。
仕事にだいぶ慣れてきた頃、部屋の中の老人の一人が亡くなりました。いつもよくわからない言葉でわたしたちにしつこく話しかけてくる人で、何を言っているのかほとんどよくわからなかったので、わたしはその老人の担当になる日が本当に憂鬱でした。だから亡くなったと聞いて、心の中で少しほっとしました。
報せを受けて、巫女様もすぐにやって来ました。巫女様はその青の目からぼろぼろと涙をこぼされ、ひどく悲しまれた様子でした。どれくらいそうされていたでしょうか、しばらく経ってからオズマ様がいらっしゃって、巫女様を部屋に戻すようにわたしたちに命じられました。
「巫女様、そろそろお部屋に戻りましょう」
言葉がわからないかもしれないと思いながらわたしが声をかけると、巫女様ははっきりした声で「もう少しだけ、ここにいさせてちょうだい」と仰ったので、わたしはびっくりしました。
(巫女様は、わたしたちの言葉がわかるんだ……)
そのことをスーラに話すと、スーラは鼻で笑って言いました。
「今さら何を言ってるの。巫女様はちゃんとわたしたちとお話ができるわ」
「でもあの部屋の人たちは、わたしたちの言葉を話せないですよね?」
「そりゃ、巫女様だもの。あんな人たちとは違うのよ」
そんなものだろうか、とわたしは思いましたが、どこか釈然としないものも感じていました。
それからしばらくして、わたしはオズマ様から配置換えを命じられました。
「上の階で人が足りなくなっているから、お前は明日からは巫女様付きの侍女として上に上がれ。こっちは前よりも人数が減ったから、残りだけで充分やれるだろう」
オズマ様の仰るとおり、ここ数カ月で何人もの青の目の人たちが亡くなりました。その度に巫女様は嘆き悲しまれ、そしておやつれになっていきました。それはわたしのような、あまり関わることのない立場からでも、はっきりとわかるほどのものでした。
「本日よりこちらに配属になりましたシイネと申します。よろしくお願い致します」
翌日、巫女様にそうご挨拶を申し上げますと、巫女様はわたしをご覧になって、やさしく微笑まれました。
「ええ、よろしくね」
窓際の揺り椅子におかけになった巫女様は、最初に拝見した頃よりも少し小さくおなりになったような気がしました。初めてちゃんと真正面から拝見する青の目はとても深い色で、わたしはそれを夜明け前の空の色だと思いました。もう、青い目を気味悪く思うことはありませんでした。
巫女様付き侍女の一日は、巫女様に朝、薬湯をお出しするところから始まります。
薬湯の淹れ方を習いながら、巫女様はお身体がどこか悪いのかと、先輩侍女であるヴィンに尋ねますと、ヴィンもよくわからないとのことでした。どうやら、ヴィンが配属される前から続いている習慣のようです。
専属医が用意した薬草を全部集めて煮出し、最後に白い粉を少しだけ混ぜます。集められた薬草も、白い粉の正体もよくわかりませんが、わたしはともかく指示通りに作りました。巫女様にその薬湯をお出しすると、巫女様は軽く眉を顰められましたが、何も仰られずに飲み干されました。
杯を受け取るときに、わたしは思い切ってお訊ねしてみました。
「あの、今日の分はわたしがはじめて作ったのですが、お口に合わなかったでしょうか……?」
すると、巫女様は少し驚かれたご様子でしたが、すぐに軽く首を振られました。
「そういうわけじゃないんだ。ただ……この薬湯自体どうも苦手でね」
「そうでしたか……申し訳ございません」
「謝ることはない。そうしろって言われてるんだろう?」
「ええ、まぁ……」
「なら気にすることはない。シイネはシイネの仕事をすればいい」
そう微笑まれた巫女様は、どうしてでしょう、どこか少しだけ悲しそうな顔をなさっているとわたしは思いました。
巫女様付き侍女の仕事はゆったりとしたもので、始終誰かの食事の世話や下の世話を言いつけられ、通じない言葉での要望を聞き、ときには八つ当たりの対象にすらなる下の階の仕事とは大きく異なっていました。時間は穏やかに過ぎ、走り回ることもなく、落ち着いた暮らしでした。そのこと自体に不満はありませんでしたが、外部との接触は禁じられ、寝食の一切は塔の中で行うように言われていました。外へ出られるのも、巫女様の儀式での付き添いで神殿へ行くときだけでした。
巫女様もまた塔から出ることは儀式を除いてなく、ほぼ終日、塔の最上階の部屋で縫い物や編み物をされたり、本を読まれたりしてお過ごしになられていました。
巫女様はわたしたちと普段話をされることには不自由がないようでしたが、読み書きは不慣れでいらっしゃるようで、子ども向けの読み本や、絵の多い図説を好んで読まれているようでした。
あるとき巫女様はわたしに、本の中のわからない言葉についてお訊ねになりました。残念ながらわたしはその文字が読めず、そのことを巫女様に正直にお伝えしますと、巫女様はその青の目を瞬かれました。
「たしか侍女は、ここに来る前に神殿で一通り教育を受けると聞いた気がするが……」
巫女様のお言葉に、わたしは真っ赤になりました。
「もしかして、シイネはそういった教育は受けていないのかい?」
わたしは素直に頷いて答えました。
「手が足りないとのことで、わたしは早々にこちらの塔に送られてしまったので……言葉遣いと行儀作法しか教えてもらっていません。読み書きはあまり教えてもらえず……わたしは限られた字しか読めないのです」
神殿は身寄りのない若い女性たちの集まるところで、ここで勤めている間に嫁ぎ先が決まったり、次の勤め先が決まったりします。時機によってはまとめて人が抜けてしまうこともあり、わたしが入ったのはちょうどそんな時期だったようです。
巫女様はわたしの顔をじっとお見つめになりました。恥ずかしくて消え入りたい気持ちになったわたしに、巫女様はこう仰いました。
「シイネ、なら私と一緒に勉強するかい?」
「ええっ!?」
思ってもみなかった申し出に、わたしはつい素っ頓狂な声を上げてしまい、ヴィンに思い切りにらまれてしまいました。
「それは……巫女様……」
「私もまだこちらの読み書きは上手くないからね。それに、ひとりで勉強するより、誰かとやる方が覚えもいいんだよ」
「でもそんな……わたしなんかが巫女様と一緒にだなんて畏れ多い……」
わたしがそう言うと、巫女様は悲しそうな顔をされました。わたしは胸が締めつけられ、気づいたらおずおずとこう申し出ておりました、
「あの、本当によろしいのでしょうか。もし本当によろしいのでしたら、ぜひご一緒に……」
「シイネ、分が過ぎますよ」
ヴィンにぴしゃりと咎められて、わたしはやはり出過ぎた真似だったと思ったとき、巫女様がすっとヴィンの前をお手で制されました。
「私から申し出たことだよ、ヴィン。これは私のためでもあるんだ。シイネ、私のために一緒に勉強してくれるかい?」
わたしは巫女様のそのお優しい言葉に感激して、謹んでお申し出をお受けすることにいたしました。
お勉強は、巫女様が朝の食事を終えた後の、午前中にすることになりました。巫女様がわたしに基本文字を教えてくださる様子を他の侍女が見守り、お間違えになったところや、わからないところがあれば横から訂正してもらう、そんな風にして進めました。
わたしが半分ほどの基本文字を覚えたところで、オズマ様が様子をご覧なりにいらっしゃいました。
「巫女様が少し変わったことをされていると聞きまして。侍女にわざわざ文字を教えてやるだなんて、さすが慈悲深いですね」
微笑んでらっしゃるオズマ様に、巫女様は冷ややかな目をお向けになると「別に大したことではないですよ」と、そっけなく仰いました。
「おかげさまで時間だけはあり余るほどありますからね」
わたしはどきりとしました。巫女様の仰ることはその通りですが、どこか引っ掛かりがあります。
巫女様がこのように皮肉を仰ることは、わたしたちに向けてはまるでございません。前より薄々と感じてはおりましたが、巫女様はどうもオズマ様のことをあまり好ましくは思っていらっしゃらないようです。
ですが、オズマ様は何も気にされないという風に微笑んでおられました。
「よろしければ、良い教師をお付けしましょうか?」
折角のご提案でしたが、巫女様は冷淡な目でオズマ様をご覧になると、素っ気ない口調で「結構」と仰いました。
「そんなのはいりません。このミーヨに教わるので十分です。ミーヨは教えるのが上手ですからね」
そう巫女様は仰って、傍に立っていたミーヨに手のひらをお向けになりました。巫女様に褒められたミーヨはほんのりと頬を染めて、口元もこころなしか少し緩んでいました。
ミーヨは、今いる巫女様付き侍女の中でいちばんの古株です。昔の病の後遺症で左足を引きずっており、そのために嫁の貰い手がなく、一生神殿にいるだろうと噂されています。
巫女様付きの侍女は五名おり、その誰もがこの気さくで優しい巫女様が好きでした。もちろんわたしも同様で、巫女様とお勉強をする時間は、生まれてきた中で数少ない穏やかで楽しい時間でした。
元々わたしが神殿に入ったのは、両親が亡くなったためでした。三つのときに父親が酒の飲みすぎで、八つのときに母親が病で亡くなりました。家はずっと貧しく、わたしは物心ついたときから近所の店で小間使いとして働かされていました。だから、他の子どもたちが学校に行っているのが、ずっとうらやましくて仕方がありませんでした。母親が亡くなり、唯一の身寄りである叔母がわたしの引き取りを拒否したので、わたしは神殿に行くよりほかありませんでした。神殿に入り、配属が決まったとき、わたしは学ぶことを諦めました。そんな機会など、もう訪れようはずがないと思ったのです。
それがまさか、こうやって文字を学べることになろうとは……。
ひとつ文字を知るたびに、世界が広がる気がします。わたしはこのような好機をお与えくださった巫女様に、心の底から感謝しました。
あるとき、部屋で二人きりになったときにその気持ちを伝えますと、巫女様はとても喜んでくださいました。
「そう言ってくれて嬉しいよ……でも、シイネにはわたしも感謝しているんだよ」
「わたしに感謝……ですか?」
思いもよらない言葉に、わたしは意味が分からず首を傾げました。
「シイネは、多分わたしの孫と同じくらいの年なんだ。シイネに教えていると、孫に教えている気分になってね、シイネができるようになるだけで嬉しいんだよ」
「お孫さん……!?」
わたしは驚きました。確かに孫がいてもさほどおかしくはないお年ですが、目の前の巫女様は、そういった俗世の事物とは切り離された存在だと思っていたのです。
「ではお子さんもいらっしゃる……?」
「娘はしばらく前に亡くなったんだ。その子の忘れ形見を育てていたんだけどね……もう会うこともないだろうよ。今は、あの子が元気でいるだけで十分だ」
巫女様はそう仰って遠くを眺める目つきをされましたが、その目はこの世ではないはるか遠くをご覧になっているようにわたしには思えました。
「どうしてお孫さんは一緒に来なかったのですか?」
すると、巫女様は真顔でじっとわたしの顔を見つめられたので、何かお怒りをかったのではないかと、わたしは狼狽えました。
「えっと……?」
「シイネには、わたしが進んでここに来たように見えるかい?」
「え……?違うのですか?」
巫女様は皮肉そうな笑みを口元に軽く浮かべられましたが、その目はどこか泣きそうにも見えました。
「わたしたちはね、ここへは連れてこられたんだよ。無理矢理にね」
わたしはその言葉に強い衝撃を受けました。
この国で尊いお方である巫女様。オウラントの国の民を再びお助けになるために、かつての伝説にあった巫女様の末裔が、霊力を蓄えて長い山籠もりからその一族とともに戻られた――少なくともわたしはそう聞かされてきました。
そのことを申し上げますと、巫女様は心底嫌そうな表情をされました。
「オズマもまたでっち上げたもんだよ……なにが伝説だか。わたしらはただのそこいらにいる人間だよ。言うなら、この国の政治の道具として、いいように使われ続けている一族さ」
「そんな……でも巫女様にはたしかに力がおありで……」
この部屋に王やその側近が現れて、巫女様に先のことを教えてほしいと懇願し、巫女様がそれにお応えされるのを、わたしは何度も見たことがあります。わたしが知る限り、巫女様の仰るとおりになったことは一度や二度ではありません。何度も奇跡を目の当たりにするうちに、巫女様は只人ではないというのは本当だと思っていました。
「たしかに、わたしらには少し変わった力があるよ。でも、それ以外はただの人間だ。苦しみもすれば、悲しみもする。時が経てば死ぬ。他の人間と何も変わりはしない。別に崇められるような存在でもない。しいて言うなら、こんなところに閉じ込められて、自由を奪われて、孤独を強いられる……そんなみじめな人間さ。たった一人の家族とひっそり暮らすことすら叶わないなら、こんな力なんてなくてもよかったんだ」
巫女様はそうお嘆きになりましたが、わたしにはわかりませんでした。
どうして、それだけの特別な力をいらないだなんて仰るのか。どうして、国に守られて、尊敬される立場であるのに、それを疎んでらっしゃるのか。家族はたしかに大事だし、母が死んだときは悲しかったですが、今の巫女様はそれ以上のものを手にしていらっしゃるはず――と。
巫女様の本当のお心を理解するには、そのときのわたしには知識も経験も足りなかったですし、何より生きてきた環境が違い過ぎたのです。
お互いを理解しあうことは難しかったですが、それでも二人で過ごす時間は穏やかで、かけがえのないものでした。わたしは基本文字を習得し、幼い子どもが読む本を読み、そのうち巫女様と同じくらいの物語の本を読めるようになりました。我々はミーヨたちを先生にして、用意される本を次々に読破していきました。
ある日、わたしは神殿から呼び出しがありました。向かってみると、そこには侍女たちをまとめあげる、内神官長のフィギ様が待っておられました。机に向かってらっしゃったフィギ様は、わたしが部屋に入ると顔を上げて、書き物を置かれました。
「やあ、シイネ。巫女様付きの侍女はうまくやっているようだね」
「はい」
フィギ様は満足そうに頷かれると、両手を組まれ、その上に顎を乗せられました。
「あー、我々としては残念だが、君にとってはいい話が来ている」
「いい話、ですか……?」
何となく嫌な予感がしました。そもそもこうやって呼び出されること自体、常ではないことです。
「そうだ。君に嫁入りの話が来ている」
「え……嫁入りって……」
わたしは動揺しました。嫁入りとは神殿を出ることであり、神殿を出るということはつまり……
「わたしは巫女様のお側を離れなければならないということですか?」
フィギ様は両の眉を上げられると、だいぶ髪が後退した額に三本の筋を刻まれましだ。
「なんだね?嫌なのかね?」
「えっと、その……」
「今回のは悪くない話だ。アゴラの商人の家だが、相手の年も君とそれほど離れていない。最近ここに来る中では、かなりまともな話とすら言えるな」
神殿にいる巫女様付きの女性を嫁にもらおうとするのは、多くが後妻としてであり、相手の男が親ほど年が離れているのも珍しくはないと言います。他には農村における働き手としてというのもあれば、まれに好色の愛人というのもあるのだと、他の侍女たちが話しているのをわたしも聞いたことがあります。
そう考えれば、たしかにフィギ様が仰るとおり、悪くない話かもしれません。ですがわたしは喜べませんでした。塔から自由に出られないというのは辛いですが、今はそれ以上に巫女様と過ごす時間が大切で、手放したくないものになっていました。
「……少し考えさせてもらうことはできますか?」
フィギ様の額に刻まれた皺が濃くなりました。
「なんだね?何が不満なんだね?」
わたしはいやいやをするように首を振ると、震える小さな声で打ち明けました。
「不満なんかありません。ただ……もう少し巫女様にお仕えしたいのです」
わたしの告白をお聞きになったフィギ様は、あまり大きくはない目を精一杯見開かれると、大きな口をお開けになって、呵々とお笑いになりました。
「ここの仕事がそんなに気に入るとはな。別にこちらは構わんよ。君が行かなければ、他の者が行くだけだ。向こうさんの条件にさえ合えばいいのだからな」
その言葉を聞いて、わたしはほうっと安堵の息を吐きました。そんなわたしの様子を、フィギ様は興味深げにご覧になっていました。
「たいていの者はここを出られることが決まると喜ぶものだが……君は珍しいな。そんなにここの仕事が好きかね?」
「えっと……その、仕事が好きというより、巫女様にまだお仕えしていたくて……」
「ふぅん、君はずいぶんと信心深いんだな」
「え?」
「我々にハクバ神のお言葉を伝えてくださる巫女様のお側にいられるのは、たしかに非常に名誉なことだ。そこのところをよくわかっていない者たちが多いが、君はよくわかっているのだな。まったく感心だ」
「え?あ、はい……」
「まぁ、巫女付きや見習いの多くはまともな教育を受けてきていないからな。わかっていないのも仕方がないのだが、今後はもう少しその辺りも考えていかなければならないな……」
フィギ様は一人でうんうんと納得されると、この話は終わりました。
内神官長室を出たわたしは、自分でも少し戸惑っていました。
(わたしはどうして、こんなにも巫女様の傍にいたいのだろう……?)
先だって、巫女様と話したときの巫女様の表情が脳裏に思い浮かびます。それは「巫女様」としての表情ではなく、一人の人間としての表情で、そのときの表情がわたしの脳裏に焼きついて離れませんでした。
するとある考えに思い至り、回廊を歩いていたわたしの足がぴたりと止まりました。
(わたしが巫女様の側にいたいのは、巫女様が巫女様だからじゃなくて、巫女様があの方だからだ)
そのことにわたしは気づくと、顔には自然と笑みが浮かび、足早に塔に戻って行きました。
数日後、仕事の途中で姿が見えなくなったヴィンが、戻ってきたあとでこっそりわたしに耳打ちしました。
「シイネ、わたし嫁入りが決まったわ。ようやくここを出られるの」
ヴィンは頬を紅潮させて、うれしそうでした。姿が見えなかったのは、内神官長室に呼ばれていたのでしょう。
「そうですか……おめでとうございます」
「相手はね、わたしと同い年なんですって。どんな方かしら。場所はアゴラっていう大きな港町よ。知ってる?」
「いえ……。あの、ヴィンさんはここを離れるのは嫌じゃないのですか?」
わたしの質問に、ヴィンはぱちぱちとまばたきをした。
「なぁに、シイネはどこかよそに行くのが怖いの?そりゃあね、見も知らないところに連れて行かれて、見も知らない男と結婚するんですもの、全然怖くないって言ったらうそになるわ。でも、ここにずっといるよりいいじゃない?」
「え……?」
「ここは衣食住は保証されるけど、毎日朝から晩まで働かされるし、外には出られないし、自分の自由になるお金も稼げないし、いい男もいないし……何も好きなことができなくて、退屈でうんざり。出られるもんなら早く出たいじゃない?」
「でも、巫女様のお世話をできるのは光栄なことでは……?」
「へえ!シイネって意外と信心深かったのね。なんか偉いわ。そりゃ、ここに配属されたのはうれしかったけどね。選ばれた場所だし、仕事も楽だし……。それでも毎日毎日同じようなことばかりで、たいして楽しいことはないし、外に行けるなら行きたいってわたしはずっと思ってたわ」
「そう、ですよね……」
わたしは曖昧に笑って、曖昧にうなずきました。
「シイネもいつか外に出られたら、わたしのところに遊びに来てね」
そう言ってヴィンは去っていきました。残されたわたしは、巫女様とお勉強をしながら、身の回りのお世話を続けました。
そんなふうにして、わたしの前にいた先輩侍女たちは一人、二人と去っていき、いつの間にかわたしは巫女様付きの侍女の中で、いちばんの古株になっていました。ミーヨは神殿の教育係として異動になっていました。
巫女様との勉強は続いていました。それは勉強というよりは、お互い本を読んで、その感想を話し合うというものに変化していました。わたしたちの読む本は、もうずいぶん前から子ども向けの物語ではなく、大人の読むいろいろな話題の本に代わっていました。
ある日、あたたかな日差しの入る部屋に二人きりでいるとき、巫女様はわたしをまじまじとご覧になると、こう仰いました。
「シイネもずいぶんと大きくなったね。ここに来た頃はやせっぽちで小さかったのに、今じゃ立派なお嬢さんだ」
「巫女様、いきなりどうなさったのですか?」
わたしがくすくすと笑いながら応えると、巫女様はゆったりと微笑まれました。巫女様の方はといえば、ここ一年でお身体は随分と小さく細くなられました。もともと細かった食もだいぶ細くなり、ご心配申し上げていたところです。
「……ひさしぶりにね、孫の姿を見たんだよ」
わたしははっと目を見開きました。この部屋でわたしだけが、巫女様が時の先だけではなく、今ある遠くのものを視られることを存じ上げていました。
「わたしも力がだいぶ弱ってきていてね、前ほどは視られなくなっていたけど、ようやく視ることができたんだ。ここではない国の、大きな通りで一人で商いをしているようだったよ。もう独り立ちできるくらいの年になってたんだねぇ」
「たしか、わたしと同じくらいのお年でしたよね?」
「そうだね。シイネの一つか二つ下になるはずだよ。もし会うことがあったら、意外と気が合うかもしれないね」
「それは楽しそうですね」
わたしは巫女様と同じ青の目を持つ少女を思い描きました。一体どんな少女でしょう。わたしとは仲良くなれるでしょうか。
そんなわたしをご覧になって、巫女様は目を細められました。
「シイネももう独り立ちしてもいい頃だけどねぇ。いい話はないのかい?」
「それが、なかなかなくって」
そうわたしは笑いましたが、巫女様はきっとご存じだったはずです。巫女様はそっとわたしの手を取られました。巫女様の手にはすっかり皺が寄られ、皺は手のみならずお顔や腕など、お身体に余すところなく刻まれておられました。
「わたしにとっちゃ、シイネももう孫のようなものだよ。幸せになってほしいんだ。いい話が来たら、迷わずに受けなさい」
「巫女様……でも、わたし……」
「わかっているよ。ここが気に入っているんだろう?でもね、シイネ、わたしは遠からず死ぬんだよ」
その仰られたお言葉に、わたしは瞬時息が止まりました。
「巫女様、何を仰る……」
「シイネ、わたしが死んだあとですぐに縁組の話が来るだろうから、それを受けなさい。悪くない話だ。相手の男は少し年上だが、誠実な人だ。きっとお前を大事にしてくれる」
「巫女様、そんなこと仰らないでください……わたし、もっと……」
「シイネ、わたしもお前との時間が好きだったよ。この孤独で退屈な塔の中で正気を保っていられたのはお前のおかげだよ。ありがとう」
その話をされて二日後、巫女様は吐血されました。それからは日に日にお身体が衰弱され、次第に起きられている時間よりも、眠られている時間の方が長くなりました。医師もいろいろと手を尽くしましたが、巫女様のお身体が急速に衰えられるのはどうにもなりませんでした。
そして巫女様が何日もお眠りになったままになり、このまま亡くなられてしまうのではないかと周囲が気を揉んでいたある日のこと、青の目を持つ少女がやって来ました。わたしは一目見て、彼女が巫女様の孫であると確信しました。同じ青の目だけではありません。彼女は巫女様のように凛とした空気を纏い、似た面差しの中に、強くまっすぐな眼差しを持っていました。それはいつか巫女様にお話を伺って、わたしが思い描いたような少女でした。
お孫さんの到着をお待ちになっていたかのように目をお開けになった巫女様は、少しお話なさると、まもなく息を引き取られました。泣き叫ぶお孫さんの姿をぼんやりと眺めながら、わたしはすべての感覚が麻痺したようになっていました。巫女様がお亡くなりになったことに、現実感がありませんでした。
巫女様のご遺体は、お孫さんが引き取って行かれました。オズマ様はだいぶ抵抗なさっておられましたが、わたしにはそれが「正しいこと」であるように思えました。それはきっと、巫女様の遠くへのまなざしを、いつもいちばん近くで拝見していたからかもしれません。
空っぽになった寝台をしばらくぼんやり眺めたあと、わたしは一人そっと部屋を出ました。そして下の階に降りると、以前に青の目を持つ巫女様の縁者たちが寝かされていた部屋に入りました。部屋はだいぶ前から空いており、何も物がない空間となっていました。その部屋にいた巫女様の縁者である病人や老人たちは皆、巫女様を置いて先に旅立っていました。
広い部屋の中に立ったわたしは、いつか誰かが亡くなったときの巫女様の慟哭を思い出しました。そうするうちに、わたしの両の目からあたたかな涙がつぎつぎと溢れ出てきて頬を伝い、冷たい雫になって床に落ちました。わたしは顔を覆ってうずくまると、声を上げて泣きました。いつかの巫女様のように、誰かの胸を抉り取るような悲痛な叫び声を上げて泣いていました。
その声は、上階までは届きませんでした。
巫女様が仰ったとおり、巫女様が亡くなられてすぐに、わたしのもとに縁組の話が来ました。わたしはそのお話を受け入れ、嫁に行きました。巫女様の予言どおり、相手の男性は十歳年上で、あたたかく誠実な人柄でした。わたしは彼の商売を助け、店を広くし、彼と五人の子どもをもうけました。
子どもたちに字を教えるとき、わたしは決まって巫女様と一緒に過ごした、あの塔での時を思い出します。そして、あのあたたかなお人柄を、心より懐かしく思うのです。
菊青抄 番外編1 シイネの思い出 @aburadeagetaimo
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