第3話 「その知には及ぶべし。その愚には及ぶべからず。」
明治大学による「蛮カラ」の復活
蛮カラ(《ハイカラをもじって対応させた語》風采・言動の粗野なこと。夏目漱石、彼岸過迄「上はハイカラでも下は蛮殻(ばんから)なんだから」。「―な校風」広辞苑)といって、単に粗野である・荒々しいということではありません。
弊衣破帽(ぼろの衣服に破れた帽子。特に、旧制高等学校生徒の間に流行した蛮カラな風)姿で、ゲーテの詩やデカルト・カント・ショーペンハウアーといった哲学者の言葉を大きな声で唱えながら、天下の大道を闊歩した高校生たち。
彼ら東大・東北大・京大等の前身である旧制高校の生徒たちによる、権力や権威によるお仕着せのスタイル・権威に素直に従うという家畜のような生き方への反抗がベースになった、心意気です(決して革命とかいう破壊の精神ではありません。)。
カントの「純粋理性批判」に代表される、物事を批判的哲学で追求しようという真理探究心・科学的精神のことです。
研究室で学術書を読み、試験管を振って真理を見出すのも良いが、頭だけでなく、強力な理性と豊かな感性が伴わなければ、本当の真理は発見できないだろう、という考え方。
それを示すために、わざと汚い格好をし大声で歌を歌ったりといった、バカげた行為によって真実を訴えたのが「蛮カラ学生たち」でした。ブラックユーモア(物事の裏面・背理を突くことで真実を訴えようとする、ひとつのレトリック《修辞法》)でもあります。
→ 「どくとるマンボウ青春期」北杜夫(1927~2011)
殴り合いが強いのは誰にでもできる次元のこと。しかし、とうの昔に廃れた蛮カラ学生たちの「精神・理念」を再興するという「バカげた行為」とは、そうそう誰にもできることではない。
賢く「バカになれる人間」とは、
真の徳(そのものに備わっている能力・はたらき。道をさとった立派な行為。善い行いをする性格。身についた品性。)と、
仁(いつくしみ。思いやり。特に、孔子が提唱した道徳観念。以来、儒家の道徳思想の核心に据えられ、孟子では仁の徳にもとづく。宋学では仁を天道の発現とみなし、一切の諸徳を統(す)べる主徳とした。近代中国では、万人の平等を実現する相互的な倫理ともみなされるようになった。)を備えている者。
見かけ倒しの偽善者には、決してできない「賢者が真実を追究する行為」のこと。
そして、真にバカになれる人間であるからこそ、その具有する理性・知性・感性を正しく発揮することができる。これこそ、かつて旧制高校の生徒たちが目指した真の教養・徳・品性というものであり、今の日本人に欠けている最大の(ほんらい具有すべき)資質というものなのです。
○ 「セリフなんて要らないわ。私たちには顔があったのよ。」
無声映画の女王と謳われた名女優グロリア・スワンソンは、トーキー(映像と音声とを一致させて映写する現在の映画方式)時代の幕開けに際し、誇りを持ってこう言いました(米映画「サンセット大通り」)。
「目は口ほどにものを言う」。百万言のセリフよりも、顔の表情や、さり気ない仕草によって人の心の機微をじんわりと(観客に)伝えるのが、無声映画における俳優たちのパフォーマンスであり、誇りだったのです。
今回優勝された明治大学の校歌斉唱で、私たちは拳法でも優勝でもない「校歌斉唱」という今大会最高のパフォーマンスを見せてもらいました。
「優勝など誰でもできる。」
しかし、「オレたちはオレたちなんだ」という強烈な自我の精神によって、自分たちの栄誉を自分たち自身で自主的・積極的に演出する強い意志というものは、そうそう見れるものではありません。
技術やパワーという次元以前、より根源的な(明治大学日本拳法部の)生き方(perspective)を、しかし、私たちは見ることができたのです。誰が勝った・負けたというよりも、彼らは確かに「存在した」という事実の方が、はるかに重要なことだと私は思います。
試合で身体を張ってフィジカルな存在感を示し、更には、応援団、広告会社・マスメディアなど使わず、自分たち自身の身体(とスピリット)を張って、形而上的な存在感まで示した今回の明治大学は、まさに「他の追随を許さない存在であった」。
その意味では、明治の監督さんこそが、最も強烈な「コギト・エルゴ・スム(真の自我)の覚醒者」と言えるでしょう。
日本の政府や警察は、国民に覚醒されると困る。自分たちの詐欺行為がバレるから。そこで「覚醒」の意味を曲解(わざと曲げて解釈する)し、麻薬の事を覚醒剤なんて呼んでいますが、これは酷いプロパガンダ、曲学(真理をまげた不正の学問)ともいえる話です。
ほんらいは「苦しい修行ののち、釈迦は覚醒した(悟りを開いた。迷いからさめること。目がさめること。目をさますこと。)」という(良い)意味で使われるべき言葉なのです。
○ 今大会の最高殊勲(選手)は明治の監督さん ?
監督さんの号令一下、コーチ・選手が自然体の姿勢になり、右手を振り上げて校歌をがなる(どなる)という姿を見て私は、50年前の全寮制高校時代、わたし自身が同じように寮歌をがなった思い出がフラッシュバック(過去の強烈な体験が突然脳裏によみがえること)しました。
あんな前時代的な、まるで歌舞伎の「白浪五人男 稲瀬川勢揃」を彷彿とさせる「バカげた行為」を、信念を持って堂々と披瀝し、最後は全員のきちっとした礼で締める。「彼は解き、また結ぶ。(「ドイツ怪談集・蟋蟀遊び」)」
まさに「いよッ、日本一 !」でした。
OB会長だの拳法協会会長といった地位や肩書きばかり追い求める、俗物を見ることの少なくない今の世の中、80歳(?)のご高齢になられてなお、現場の学生たちと一緒に汗をかき「バカをやる(真実を追求する)」ことのできる明治人気質が存在するとは、まさにこちらの大学の名にふさわしいといえるでしょう。
そして、確かに「霊魂を育孕(そだ)てて源流出で 心性を修持して大道生ず」「真実の力により宇宙を征服」されたのです。
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アカデミー賞には「最優秀監督賞」がありますが、大学日本拳法にも、もっと色々なパフォーマンス(実行・実績・成果・演技・プレー)を讃える、賞というか場というか観点があれば、単なる殴り合いを、それこそperspective(多面的・全体像を見る観点 → 人生・哲学)にまでその範疇を拡げることができるかもしれません。
今のままで行けば、かつて日本全国に数百とあった柔術(人間の生き方の多様性)が、警視庁によって駆逐され、現在の規格化・ゲーム化された武道というよりもただのスポーツとなり、柔道連盟は警察幹部や各省庁官僚の天下り先という悲劇が、やがて大学日本拳法にも起こるでしょう。
近年の高校野球も、文部科学省や韓国系大手広告代理店によって、かつての地方色豊かな高校野球ではなくなり、高野連は官僚や警察・企業幹部の天下り場となり、野球自体も「休憩時間」なんてもので、すっかり弱体化・画一化された「養鶏場」スタイルになってしまいました。
いまの高校球児たちは「金の卵を産む」ためケージに入れられた雌鶏でしかないのではないか。(2023年夏の甲子園大会の優勝校である慶應義塾高校の監督さんだけが、「優勝なんて人生のホンの一コマに過ぎない。優勝するための努力や工夫、そして犠牲となったものをこそよく覚え、これからの人生に生かすべきだ。」というようなことを仰っていました。)
2024年12月2日
V.1.1
2024年12月3日
V.2.1
2024年12月4日
V.2.2
平栗雅人
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