第19話◆わたくしと招かざる客

 それはほんの数秒のはず。


 時が異常なまでにゆっくりと過ぎていくような感覚。

 土手の上の道を通り過ぎていくシャングリエ公爵家の紋章入り馬車が、やたらゆっくりと動いているように見えた。


 その窓から外を見る白金髪に碧目の男――アグリオスと目が合い、馬車が通り過ぎて強制的に視線が外れるまでのほんの数秒が、その時のわたくしには数分にも数十分にも感じられた。


 そしてその間、わたくしの視線はアグリオスの碧い目に吸い込まれ、アグリオスの視線はわたくしのアメジストの目に吸い込まれるように、お互いの視線がぶつかりあったまま逸らすことができなかった。


 それはお互いの存在の認識。


 存在を認識されたのは確かだが、正体まで認識されたとは限らない。


 ただわたくしは周囲の音が聞こえなく鳴るほどに思考が停止し、表情を作ることも忘れ――いや、放置嫁生活が始まって以来、伸び伸びと過ごしすぎ自分の感情と表情をコントロールするという行為を忘れていた。

 故にごく自然に目が見開き驚きの表情になってしまった。


 それをアグリオスに認識されたかまではわからない。

 ただ馬車の中からボーッと外を見ていた、アグリオスの表情が僅かに動いた気がした。


 異様なまでに長い数秒後、馬車が通り過ぎアグリオスとの視線が切れると、ガラガラとうるさい馬車の音を再び耳が認識するようになり、極限的に低速だった時が突如動き出したような感覚と共に我に返った。

 咄嗟に表情を繕うがその表情で迎え撃つべき相手の乗る馬車はすでに遠く離れていた。


 その馬車が完全に視界から消える頃、ハッとして採取作業を止め冒険者ギルドへと走った。

 引き受けた依頼分の薬草の採取は終わっていて、自分で使う分を採取している時だったのが幸いだった。

 いや、依頼分の採取が終わってすぐ戻っていたら、アグリオスの乗った馬車と遭遇することはなかったかもしれない。


 完全に油断していた。

 ここはシャングリエ公爵領。その領地の運営を任されているアグリオスが、領地内を馬車で移動しているなんて珍しくもなんとないことだ。


 しかも土手の上に走る道は領都の中心部と耕作地帯を結ぶ道。

 領地の見回りに行くなら、高い確率で使用する道だろう。

 夫人としてのしての仕事はしなくていいと言われたのといいことに、シャングリエ公爵領のこと、ドゥリエ周辺ことは大雑把にしか調べていなかったわたくしの失敗である。


 大急ぎで冒険者ギルドに駆け込み、引き受けていた採取依頼の対象の薬草を納品し、公爵邸へと走った。


 あの一瞬で気付かれるわけがない。

 変装も完璧だ。


 眩しくてやたら目立つ銀髪は左右に分け野暮ったい三つ編みにしてあるし、学園生活や社交界で見せていたドレス姿ではなくただのメイド姿。

 しかも背中には魔法を背負っていて、どっからどう見てもメイド姿の冒険者。


 ばっちり目があったが、目元は変装用の眼鏡で印象が変わっているはずだ。

 そもそもわたくしがメイドの格好をして出歩いているなんて思わないはずだ。


 しかし何故か急いで帰った方がいいという予感がした。

 薬草採りが一段落したら土手で川を眺めながら持ってきたサンドイッチを食べようと思っていたが、そんな呑気なことをしている暇はないという極めて確信に近い予感。


 公爵邸に通いで勤める者のために市街地中心部から乗合馬車も出ているのだが、朝夕の通勤者の多い時間のみのため、この時間は乗合馬車は走っていない。

 それに変装しているといっても何の切っ掛けで気付かれるかわからないので、公爵家に関わる者達には極力見られたくない。


 というわけで走った。

 今は太陽が天頂を通り過ぎるくらいの時間、薬草採りをしているだけでも汗ばむ気温。

 汗をかきながら髪の毛を振り乱して走る姿など絶対に人様に見られたくないのだが、そんなことを気にしている暇なんかおそらくない。


 国政に関わる者は体力も必要だと、王太子妃教育では体力を付けるために体を動かすことは多かったですが、そのおかげで付いた体力を振り絞って走ることになった。

 重いドレスよりずっとマシな軽いメイド服だったが、やはり距離が長くてゼェゼェヒィヒィ言いながら裏門から別邸の敷地に滑り込み、いつもの厨房側の裏口へと走った。



 のだが――。



「ふぇ!?」


「いた! って、何ですかその一狩りいってましたみたいな格好は!?」


 勝手口前でウロウロしている人物――休暇だとかでしばらく見かけなかった眼鏡君を目視して、ついうっかり変な声を出して隠れる間もなく見つかってしまった。


「ひ、一狩りじゃなくて、一刈りですわ! ちょちょちょちょちょっと薬草を刈りにいっておりましたの」

「なるほど薬草刈りですか……なるほど。いやいやいやいや、そうじゃないでしょ! 魔砲を担いで薬草採り? っていうか、勤務中にどこにいってたんですか!? 裏口を叩いても誰も出てこないから、僕が休み中に何かあったのかと思いましたよ。あ、お久しぶりです。今日より復帰しましたので、またよろしくお願いします。こちらが休暇中に実家の方へ帰ったお土産です、お納め下さい」


 スススッとお高そうなお菓子の箱を差し出す眼鏡君。

 あら、これは東の隣国ベルマネンテ帝国の大商会マークですわね。確かエレジーア王国にも支店がありましたわね。

 眼鏡君ことクロード・レックの実家レック男爵家の寄親エーベン公爵家は、前公爵夫人がベルマネンテ帝国から嫁いで来られた方でしたか。

 その関係でエーベン公爵領にはこの商会が出店しておりましたわねぇ。なるほど休暇中はそちらに行かれていたということですか。

 高級チョコレートのようですし、頂けるものは頂いておきましょう。


 というか相変わらず騒がしくて落ち着きのないお方ですわね。

 そしてツッコミが無駄に鋭くて困るのも相変わらずですわ。


「ほほほ、わたくし今日はお休みを頂いておりまして、ちょっとお散歩をして薬草を一刈りして戻ってきたところですわ。ええ、住み込みですのでちょうど戻ってきたところですわ~。この魔砲は競技用なので人畜無害な威嚇用ですわ~」


 メイドのマルガリータさんは、別邸に住み込みのメイドで今日はお休みなのである。

 アドリブで誤魔化すくらい簡単でしてよ。


「あ、はい。薬草採りで何を威嚇するのかはわかりませんが、まぁこの辺りは敷地の隅っこですので変な野生動物が紛れ込んでる可能性も無きにしも非ずですからね。あ、それより大変です!! アグリオス様が別邸に来られるそうです! 領地の視察から戻ってきたと思ったらいきなりそう言い出されまして、僕がその先触れに来たのですが表の呼び鈴を押しても誰も反応がないし、裏口をノックしても返事も気配もないしで……って、身支度もありことでしょうから急いで! 可及的速やかに! 準備をするように――お伝え下さい」


 あああ~~~、嫌な予感が的中しましたわ~~~~!!


 きっとバレていないと思いますが、何で? どうして? このタイミングで~~!!


「かしこまりました、すぐにお伝えしてきますわ。わ、わたくしは今日はお休みなのでお伝えしたらそのままお暇を頂きますわぁ~。というわけで、アグリオス様がすでにこちらに向かわれているようなら少々時間を稼いでいただきたく……」


 町から形振り構わず必死で走って帰ってきたせいで汗だくで髪の毛もバサバサなので、アグリオスを迎え撃つにしても一度湯浴みをして身なりを整えてからですわ。

 それまで眼鏡君に時間稼ぎをしてもらいましょう。


 別邸に押し込んでおいて突然来るのが悪いのですから。

 女の身支度には時間がかかるのです。先触れは余裕を持って出して欲しいものですわ。


 と眼鏡君に時間稼ぎを任せて急いで身支度に向かおうとした矢先、正面玄関の方から何やら男達が騒ぐ野太い声が聞こえてきた。


 まさかもう来たの!? 先触れとほぼ同時に来るなんて馬っ鹿じゃないの!?

 河原で見かけてあちらは馬車、わたくしは女の足で走って戻って来たので到着時間に大きな差はありますが早すぎですわ!


 それより、すっかり忘れていましたわ。


 表玄関はしっかり封印して、無理矢理あけようとすると、雷魔法がビリッと発動する仕組みになっておりましたわ。


 そう、ビリッと。

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