第5話

「類のご飯、食べたいな」


 呟いた言葉は狭い浴室の中でむなしく響く。このまま別れることになったら、もうあの喫茶店にも気まずくて行けそうにないし、二度と類の作るご飯は食べられなくなるんだな。ああ、わたしだって、ご飯のことばっかりだ。類のこと言えないや。


「それにしたって魚のキスと間違えるか?」


 的外れなことばかり言っていた類の顔を思い出すと、少しいらっとして、ばしゃばしゃと水面を叩いた。水飛沫が顔にかかる。でも、食事中に『キス』と言ったらそう考えてもおかしくないのかも。あんな風に突然泣いて、怒って、家を飛び出して。類、困ってるかな。怒ってるかな。ちょっとくらいわたしのことでいっぱいになってくれたらいいな。そう考えるのはずるいのかな。


 風呂を出て鞄から取り出したスマートフォンは、類からの着信とメッセージでいっぱいだった。


【美結、どこにいますか?】

【見たら連絡ください。無事かどうかだけでもいいので教えてください】


 類は怒ってなんかいなくて、ただただ心配してくれていた。時計を確認するともうすぐ零時になろうとしているところで、電話するか悩んでメッセージを送った。


【ごめんなさい。今見ました。今日は自分の家に帰っています】


 送ったメッセージはすぐに既読がついて、類から電話がかかってきた。躊躇いながら通話ボタンを押す。


「無事でよかったです。美結の顔が見たいです。今から会えないですか?」

「心配かけてごめんなさい。でも、今日はもうお風呂も入っちゃったし。明日はちゃんとそっちに帰るから、それじゃあダメかな?」

「それなら僕が美結の家に行きます。どうしても今会いたいです」

「うん……それなら。待ってる」


 電話を切ってすぐに『美結の家ってどこですか?』というメッセージが届いて、思わず吹き出した。そういえば連れてきたこともないし、教えてもいなかった。住所を送ると『すぐ行きます』と返事があった。類の家からここまではきっと十分もかからない。慌てて濡れたままの髪を乾かす。さっき部屋の掃除しておいてよかったな、と思いながらソファーにもたれて待っていると、チャイムが鳴った。


 ドアを開くと、走ってきたのかいつもより髪が乱れた類がそこにいた。そのわりには息も切れていないし、汗ひとつかいていない。意外と体力があるんだなあ、なんてぼんやりと考えていると、抱きしめられた。類の指先がわたしの頬をそっと撫でる。やっぱり類の手は冷たい。


「とりあえず、入って」


 閉まりきっていないドアが気になって、胸に顔を埋めたままそう言うと、わたしを抱きしめたまま類は一歩、二歩と進んでドアを閉めた。


「類、ごめん」

「どうして美結が謝るのですか。悪いのは僕です」

「……わたしが怒った理由、わかったの?」

「自分なりに考えてみてひとつの結論が出ました。答え合わせしてもいいですか?」

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