帝都祓い屋異聞~キツネお嬢様とウサギ執事~

津月あおい

帝都祓い屋異聞~キツネお嬢様とウサギ執事~


貴子たかこ、仕事だ」


「はい、お父様」



 わたしはメモを一枚受け取ると、父の書斎を後にした。

 時刻は夕方。

 黄昏時から夜にかけてがわたしの「仕事」の時間だ。


 廊下に出ると、女中が二人いた。お美代とお菊だ。わたしを見るとあわててお辞儀をしてくる。すれ違って間もなく、背後からひそひそと話し声がした。



「貴子様、また今夜も行かれるのね」


「ええ。それよりあのご容姿、やっぱりお狐様の化身のようだわ……」



 わたしはわずかに顔をしかめた。

 わかっている。わたしが普通の見た目をしていないということは。

 大階段の下の、長い姿見の前に来て思う。


 この、一般的な日本人からはかけ離れた、亜麻色の髪。

 そして、はしばみ色の瞳。


 どちらも窓から差し込む光の加減で、金色に輝いて見える。

 これはわたしが木津根きつね家の祀る「お狐様」の霊力を持って産まれたせいだ。


 我が家は代々、霊験あらたかな白狐を祀っている。


 はるか昔、先祖は白狐とこう契約を交わした。

 曰く、「霊力を持って産まれた子に悪霊退治をさせよ、さすれば家に巨万の富を与えん」と。

 なぜそうしなくてはならないのか、今となっては誰も知る者がいない。

 けれども悪霊退治をしつづけなければ、家業は傾く。それは過去何度もあったことで、確かなことだった。


 玄関に到着すると、母がいた。

 母もわたしと同じような容姿をしている。

 違うのは、わたしは黒いセーラー服を着ているのに対し、母は黒地に牡丹柄の着物を着ていることだ。



「では向かいましょうか、貴子」


「はい、お母様」



 ふと視線を感じて振り返ると、応接室のドアの隙間から、兄がこちらを見ていた。

 兄は霊力を持たない。財閥の後継者として、日々、父の下で働いている。

 わたしとは違う道を行く、兄。


 わたしは靴を履くと玄関を出た。

 外にはすでに黒塗りの乗用車が停めてあり、わたしと母はそれに乗った。




 ※ ※ ※




 日が落ち、薄暗くなった路地に車が到着する。

 母専属の運転手が外に出て、わたしがいる側の後部座席のドアを開ける。


 父からもらったメモには、悪霊の特徴の他に、ここの住所が書かれていた。


 運転手にはすでに母が行き先を伝えていたようだ。住所がたしかなことを確認して、席を立つ。



「貴子、気をつけて」


「はい、お母様」



 母には毎回、わたしの見守り役ということでついてきてもらっている。

 父は婿養子だが、母はもともと木津根家の者だ。

 幼い頃からわたしと同じように悪霊退治をしてきたけれど、わたしを産んだ際にほとんどの霊力を失ってしまったという。


 様々な悪霊への対処法を教わってきた。

 窮地に陥ったときには助けてもらったりもした。

 しかし今ではわたしも成長し、力を借りることはほとんどない。



(今日もなにごともなく終わればいいけれど)



 車から出ると、なんともいえぬ生暖かい風が吹いてきた。

 周囲には人っ子一人いない。

 いくつかの街灯の他には、東の空に浮かぶ月だけが、あたりを静かに照らし出していた。



「さて。悪霊はどこにいるのかしら」



 メモによると悪霊は女の霊で、道行く人に危害を加えているらしい。

 最初は軽く転ばせるところからはじまった。

 それから人に取り憑いて、別の通行人と殴り合いのケンカをさせたり、今ではかまいたちのようにスパッと腕や足に謎の切り傷を負わせているという。


 現場はロープや立て看板で規制線が張られていた。


 こういう案件は警察がどうにかできるものではない。人づてにひっそりと木津根家に持ち込まれる。

 わたしはロープの先に進み出た。



(いる……)



 それは入ってすぐに現れた。

 闇色のもやもやした人型が、のっそりとわたしの方へ近づいてくる。

 わたしは太ももに装着していたベルトから、柄に狐の家紋が入った短刀を抜いた。



「来なさい、悪霊」



 相手に向かって短刀を構える。

 すると悪霊はもやもやした腕を四方八方に伸ばしながら近づいてきた。



「はあっ!」



 わたしはそれに向かって切りかかる。

 短刀に霊力を注ぎながら一刀両断する。

 しかし、闇色の影はさっと分散し、わたしの攻撃を避けた。



「意外にすばやいわね……。あっ!」



 悪霊を目で追っていると、路地のはるか向こうにふらふらと歩く人を見つけた。

 母ではない。それは足取りのおぼつかない、浮浪者のような男だった。



「危ない! 来ちゃ駄目!」



 声をかけるが、男は構わずこちらにやってくる。

 よく見ると、汚れてはいるがなにやら軍服のようなものを着ていた。



(軍人……?)



 いまだに大陸では戦争が行われている。

 だからなぜこんなところに軍人がいるのか、わからなかった。

 とにかく、一般人を悪霊との戦いに巻き込むわけにはいかない。わたしは悪霊から守ろうと、男の元へ駆け寄った。



「あなた、今すぐここから離れて!」


「……なぜです?」


「え?」



 男はずり落ちていた眼鏡を片手で直し、わたしを見上げた。

 その目は深い藍色に染まっている。

 わたしがどう説明したらいいか迷っていると、男はぽつりとつぶやいた。



「ああ、悪いモノがいるからですか」


「え?」



 視線はわたしの背後に向けられていた。

 そのたしかな様子に、わたしは目を見開く。



「あなた……まさか、アレが視えるの?」


「ええ。だいぶ嫌なモノですね」



 なんということだろう。母の他に霊力を持った人をはじめて見た。

 世の中にはわたしが知らないだけで似たような能力を持つ人がいるのだ。

 普通の人には絶対に見えない。

 でも、この人にはアレが視える。わたしは言いようのない喜びを感じた。



「あ、危ない!」



 男が急にそう言って、わたしを抱えて横に跳びすさる。

 何が起きたのだと見回すと、今までわたしたちがいたところに無数の黒い腕が生えていた。



「悪霊め……!」



 わたしが短刀を構え直すと、黒い腕は速度を増して伸びてきた。

 男をかばっている余裕はない。

 わたしは捨て身で飛び込んだ。



「はあっ! やっ!」



 何度も切りつけながら進む。

 黒い腕は、男の元へいくらかたどり着いてしまうかもしれない。でも確認する暇がなかった。

 わたしは振り返らずに進む。



「やあっ、はっ!」



 近づいているが、どうしても腕の数が多い。

 対応している間に、地面から本体がぐぐぐ、とせりあがってくる。

 そして女の大きな口が開けられ――。



(まずい!)



「邪魔ですね」



 またも男の声がしたかと思うと、ズンと軽い地響きがした。

 瞬間、ありえない光景が目の前に広がる。


 男が後ろから、目にも止まらぬ速さで駆け抜けていった。黒い腕を一本残らず踏みつぶし、高く跳躍。本体の真上に躍り出ると、くるりと体を一回転し、強烈なかかと落としを本体に叩きつけた。


 闇色のもやもやがバッと晴れて、一瞬、元の姿と思われる女の霊体だけとなる。


 わたしはすぐさまその女の霊に近づき、木津根家の守り刀「稲光」を胸に突き刺した。



「ぎゃあああああっ!!!」



 苦痛に満ちた声があがる。

 わたしは刀をスカートの中の鞘に納めると、霊力を込めた手で霊に触れた。



「あなたは多くの人を傷つけすぎた。だからもう成仏はできない。消えなさい」



 瞬間、ふっと霊のかたちが崩れて、跡形もなくなる。

 わたしは手を下ろすと、大きく息を吐いた。



「はあ……なんとか終わったわね」



 ちら、と見ると男がまだいる。

 わたしは通りがかりとはいえ、一応助けてくれたことに礼を言った。



「ええと、悪霊の退治を手伝ってくださって、どうもありがとう。なぜあなたにも霊の姿が見えるのか、それからなぜあんな風に戦えたのかはわからないけど……とにかく助かったわ」



 男はパンパンと服のほこりを払うと、また眼鏡のずれを片手で直す。



「別に、礼には及びません。困ってらっしゃるようでしたので、つい手を貸したまでです」


「あ、そう」



 なんというか淡泊な人だ。

 もっと「今の化け物はなんだったんだ」とか「君はなんであんなことをしているんだ」とか、聞かれるかと思ったのに。

 それか、「自分はこういう者です」と自分のことを名乗るかと思った。


 しかし男はそれ以上何も言わない。


 わたしも特にこの男に興味はなかった。

 どっちにしろ、今日の仕事はもう終わったのだし。あとは帰るだけだ。

 しかし、直後男がつぶやいた言葉に、わたしは足を止めざるを得なくなってしまった。



「それにしても、なぜこんなか弱いご令嬢が戦っているのでしょう。世も末ですね」


「え?」



 わたしは思わず聞き返した。

 男の言い方には、どこか棘があった。



「どういう意味かしら?」


「そのままの意味ですよ。私は、戦争に駆り出され、お国のために戦ってきました。けれども腕を負傷して、今はこんな有り様です。無様に役を降りなければならなかった。一方あなたは婦女子。本来私どもに守られるべき存在です。私はそんなあなたがた、無辜の民のために戦ってきた。それが理由で死んでもいいと思っていた。それなのに……。こんなことのために、私は戦地に行ったのではない!」



 なにか、八つ当たりされてる?

 わたしは深いため息をついた。



「なにか勘違いをされているようだけれど。わたしがやっているのはお国のためではなくて、あくまで家のためよ。悪霊退治をしないと、家が傾くの。だからこんなことをしているのはわたしくらいのものなのよ。この状況に勝手に憤慨して、妙な主義主張を押し付けないで。助けていただいたから、あまり強く言いたくはないけれど」



 男はしかめ面をしながら右腕を押さえた。


 

「こんな……ことになるなんて、ぐっ……本来だったら今頃私は……」



 さっきは走っているだけだからよくわからなかった。

 よく見ると、腕の周囲が血まみれだった。どうやら負傷していた傷が開いてしまったらしい。



「あ、あなた大丈夫? よく見たら脂汗をかいているじゃないの。もしかして相当ひどい怪我なんじゃなくて?」


「私にはもう、どうでもいいことです。あなたも……生きている者と戦うならまだしも、死んだ者と戦いつづけることなんてない!」



 男はそう言うと、ひざから崩れ落ちてその場に倒れ伏してしまった。



「ちょっと! あなた!?」



 あわてて駆け寄る。

 抱き起こすと、体が火のように熱かった。



「大変。このままじゃ死んでしまうわ」


「いいんです。どうせ、私は……このまま帰る家もない。生きていても、誰にも何にも貢献できることはないのですから。もう、このまま終わらせて……放っておいてください」


「そんなことできないわ! あなた名は?」



 息を荒くしている相手に、わたしは強く呼びかける。

 きつく閉じられていた目が開き、男は言った。



「う……うさぎ」


「兎?」


「宇佐木と言います。宇宙の宇に、佐助の佐、樹木の木で、宇佐木」


「わたしは、木津根貴子と言うわ。あなたをこのままにはしておけない。ちょっと待ってて」



 母の車まで戻って、運転手を呼んでこようと思った。

 しかし、男の声がまたもわたしを引き止める。



「狐?」


「木津根財閥の、木津根よ。うさぎときつねなんて、なんだか奇妙な縁ね」


「ああ、あの財閥の……」



 街灯の下で寝転がっていた男がよろよろと体を起こす。

 そして藍色の瞳でわたしを見つめた。



「まさか、あの財閥の家がこんなことをしていたとは。だからあんなに力があるのですか。とはいえ、不憫なことです」


「なんですって?」



 聞き捨てならなかった。

 どうしてこんな薄汚い満身創痍の男に、哀れまれなくてはいけないのだろう。



「もう一度言ってごらんなさい。不憫だなどと侮辱するなんて、さすがに我慢がならないわ」


「何度でも言いましょう。あなたはそれでいいのですか? 家のためにこんなことを続けていくことに疑問はないのですか?」



 わたしは男の胸倉をつかむと、鼻先を突き付けて言った。



「わたしは、産まれたときからこれが宿命だと受け入れている。あなたに何があったかは知らないけれど、変な八つ当たりはやめて頂戴」


「ははっ、八つ当たり……。その通りですね。失礼しました。けれども同情するのは変わりません」


「八つ当たりも、同情も結構だわ。そんなに憐れむならあなた、わたしに協力なさいよ」


「え?」



 ぐいと痛くない方の腕を引き、立ち上がらせる。

 そして肩を貸しながら歩かせた。



「見たとこ、行く当てがないんでしょう? あなたの戦う能力を見込んで、助けてあげるわ。だからあなたもこれからはわたしを助けなさい」


「それは……」


「あなたに拒否権なんてないわ。わたしを侮辱した罪、償わせるまでは死なせるもんですか」



 そう言うと、男は抵抗するのを止めた。

 車まで戻ると母からは大いに驚かれた。しかし、男に助けてもらったと説明すると何も言わず病院に向かってくれた。




 ※ ※ ※




 あれから数日が経ち、驚異の回復力で男は元気になった。


 今日は木津根家が差し向けた車に乗って、男が戻ってくる日。

 わたしは朝からそわそわとして落ち着かなかった。



「貴子、そんなにあわてふためくんじゃありません。淑女らしくないですよ」


「ご、ごめんなさいお母様」



 そう諭されたのに、車が到着するという段になって、わたしはいてもたってもいられず玄関の外に出てしまった。


 あのぼろぼろだった男はいったいどんな顔をして帰ってくるだろう。

 そう思うと胸がざわついてしかたがなかった。

 なにかひとこと言ってやらねば気が済まない。


 きっと、それはあの男も同じだろう。


 どうして助けたのか。

 了承したわけではないのに、なぜこんな目に遭わせるのかと、またわたしに強く意見してくるはずだ。



「あっ、来ましたね」



 遅れて出てきた母が、家の車を見つけて声を出す。

 門をくぐってきた黒塗りの車は、間もなく家の前に停まった。

 後部座席のドアが開き、中から男が出てくる。



「あ……」



 前に見たときとはまるで姿が違っていた。

 何日も風呂に入っていなかったような薄汚い身なりは、きれいに磨かれ、髪まで整えている様はどこぞの物語の貴公子のようだった。


 服装も、軍服ではなく木津根家の執事服に変わっている。



「ん? 執事服……?」



 首をかしげていると、わたしの存在に気付いた男が近寄ってきた。

 開口一番何を言われるんだろうと身構えていると、思わぬことを口走る。



「貴子お嬢様。この度は助けていただき、ありがとうございました。今後はあなた様の下で執事として働かせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」


「えっ? ど、どういうことお母様!?」



 振り返って母を見ると、仏のような笑顔を浮かべていた。



「お父様と相談した結果よ。祓い屋は、本来誰の手も借りてはならないのだけれど……貴子を助けてもらった上、いろいろと我が家の事情を知られてしまったのでね。こうするのが一番だと思ったの」


「お母様。わたしはただ、この男の身体能力が高かったので、悪霊退治の補佐をやらせられればと思っていただけです。わたしの身の回りのことまでさせるのは……」


「貴子、いいですね?」



 有無を言わせない空気。

 わたしはいつものようにうなづくことしかできなかった。




 ※ ※ ※




 以後は、常に身近に宇佐木がいることとなった。

 まずは朝、起こされるところから。



「おはようございます、貴子お嬢様。そろそろ起きる時間ですよ」


「ひゃっ。う、宇佐木……お、おはよう」



 毎食の補佐に、女学園への車の送迎。

 ひいてはちょっとした買い物や、習い事のつきそいまで。

 わたしはほぼ毎日、宇佐木と行動を共にすることになった。



「はあ。今までわたし、専属の侍女すらいなかったのに。突然こんなことになって戸惑っているわ。あなたも本当にこんな待遇でいいの? あの時わたしを助けなさいとは言ったけど、思っていた生活とは違っていたんじゃなくて?」



 今夜も無事に悪霊退治が終わり、車で帰宅するところだった。

 ハンドルを握っている宇佐木に後部座席から話しかける。



「そうですね。私も少し驚いてはいますが……もともとあのまま死ぬ予定でしたし、今の待遇に不満はありませんよ」


「死ぬ予定って……。戦争で腕をやられたから何だっていうの? 今だってちゃんと運転できるほどに回復しているじゃない。このまま良くなれば、いずれなんだってできるように――」


「いいえ、負傷自体は大した理由ではないのです。私は……そもそもあの戦争で生を終えたかった。そうでなくとも、あの場で死ぬはずだったんです。でも、あなたに助けられてしまった。家のことも、自分の役割も悩まなくてよくなるなら、こんないいことはありません……」


「あなたの、家って」



 不思議なことを言う宇佐木に、わたしはそれ以上何と言っていいかわからなくなった。

 もともと戦場で死ぬはずだった?

 そんなに思いつめるほど、悩むことがあったのだろうか。家のこと、自分の役割。一体それは……。



「私の話はいいです。さあ、帰りましょう」



 家に戻るとわたしはすぐに風呂場で汗を流した。

 出ると脱衣所に寝巻と下着が置かれている。



「こういうのも、宇佐木にされるというのは……どうなのかしら。困ってしまうわ」



 いったい両親は何を考えているのだろう。

 宇佐木はあれで三十手前だということだった。傷痍軍人だとしても、あれだけ身体能力があるのなら、うちじゃなくても働くところは多数あるだろう。

 妙な希望を抱きたくなかった。



「希望?」



 今わたしは、何を考えていたのだろうか。

 希望とは。

 それではまるで、今絶望にさらされているみたいではないか。


 この家の跡取りは兄だ。

 わたしは長子ではない。あくまでも木津根家のために霊力を使うだけの存在だ。

 それも、兄が結婚して産まれた子に霊力が引き継がれるまでの存在。


 母の代は、たまたま兄弟に男がおらず、母が長子であったために婿養子をとったに過ぎなかった。


 わたしは……確実にお払い箱となる未来が待っている。


 そうすれば、わたしは自由の身に?

 でも、その先は? あまりその後の未来が描けない。


 ずっと産まれたときから母と共に悪霊退治をしてきた。

 そうでない自分は自分じゃないみたいだった。

 母はまだうっすらと悪霊が視えるという。でも視えるだけで戦えるほどの力は残っていない。

 そんな中、わたしは? わたしがこの先ひとりになったら、どれだけ心細い思いをするのだろう。


 今は戦える。

 でもいずれ戦えなくなる。


 それはとても恐ろしいことだった。



 自室に戻ると、宇佐木がわたしのベッドまわりを整えていた。

 枕元に喉が渇いたとき用の水瓶が置かれている。

 わたしはさっそく、そこからガラスのコップに水を移して飲んだ。

 ごくごくと勢いよく飲み干すと、あの藍色の瞳が眼鏡にレンズ越しにわたしを見ている。



「ん、何? どうしたの?」


「いえ……」


「宇佐木。今日もありがとう。もう休んでいいわよ。あなたも汗を流してきたら?」


「はい、そうさせてもらいます」



 一礼して去っていく宇佐木に、わたしはふと声をかけた。



「あ、待って。宇佐木」


「はい」



 振り返った宇佐木は部屋の灯りのせいか、いつもと違った印象だった。

 気のせいだ、そう思いながらもわたしは言葉を続ける。



「ええと、やっぱりあのこと、聞いておきたいの」


「何を、でございましょうか」


「あの時、わたしに八つ当たりしたこと。それと同情をした理由よ。それは……あなたの家のことと関係があるの?」



 藍色の瞳が揺れる。

 どうやら図星だったようだ。しばらく言葉を紡げないでいる宇佐木に、わたしはさらにつづけた。



「わたしね、八つ当たりとか同情って、まったく自分と関係ない人にはできないと思うのよ。それはどこか自分と同じだったり、同じなはずなのに違った環境にいる人に向けるものだと思うわ。だから、わかってしまったの。もしかしてあなたは……ううん。あなたも、なのね?」


「……」



 宇佐木が一歩こちらに近づいてくる。

 それは迷子になった幼子が、親をようやく見つけた時のような歩き方だった。



「我が家は……宇佐木家は、貴子お嬢様の御家柄ほど良くはありませんでしたが、同じように祓い屋をしておりました」


「そう」



 やはり、という思いと、まさかという驚きが同時に来る。

 祓い屋。

 それはなにがしかの恩恵を得て、霊力を持った一族だけに行える稼業。


 突然変異で身につく以外は、家でそれなりの神を祀っていなくては実現しえない。



「我が家は、名前からして兎の神を祀っておりました。もう由来は定かではありませんが、聞いたところによると因幡の白兎だったということです」


「だった?」



 過去形。

 嫌な予感がする。



「はい。両親は私に霊力が宿ったころ、上手く祓い屋を続けていけなくなり、本業の商いを傾かせてしまいました。私がそれなりに悪霊退治ができるころには、二人とも過労が重なり……」


「そんな。では、あなたは今までどんな生活をしていたの」


「私は、両親亡きあともひとりで祓い屋を続けていました。栄えさせる家も無く、ただひたすら慈善事業として。でも、それにもやがて心の限界が来ました。そんな時に戦争で徴兵されたのです。私はお国のために頑張りました。戦場で散るつもりでした。でも、何も成さないうちに帰されてしまって……」



 そんな。家のためじゃなく、単純に慈善事業でやるなんて。

 そんなことができ得るの?



「今は不満はないと言っていたわね。それは本当?」


「はい。私のこの力が、まだ役に立つと分かったので。私が助力することで、貴子お嬢様の家が栄えるのなら、こんなにいいことはありません」



 珍しく笑みを浮かべている。

 でも、その笑みは嘘だとわかる。



「あなたは……わたしの未来の姿だわ。だから、今のあなたが満足しているとは到底思えない。だってあなた、言っていたじゃない。わたしを不憫だって。生きている者と戦うならまだしも、死んだ者と戦いつづけることなんてない、って」


「貴子お嬢様」


「本当は、こんなこと全部なくしてしまいたいんじゃないの? あなたは、一人で終わらせることができた。でもわたしに出会って、わたしはまだ終わらせられてなくて、だから……不憫だって思ったんでしょう? それで、それで……」



 わたしは駆け出し、宇佐木の執事服に強くしがみついた。



「わたしだって、終わらせたいわ。こんな辛い気持ちを知る者が、これ以降も続いてほしくない。でも、でも今はできないのよ!」


「貴子お嬢様……」


「わたしにはまだ霊力がある。霊力を継ぐ者が次に現れない限り……家が続いている限り……祓い屋を続ける。それがわたしの宿命。だから、あなたみたいになれないの……」



 涙が、じわりとこみあげてきて、それ以上顔を上げられなくなってしまった。

 宇佐木はどう思っているだろう。

 やはり同情しているのだろうか。

 未だ家の因習に従う哀れな娘として。



「私は、自身に未だに霊力があるのが不思議でなりません。もう兎神の社もなく、祭祀もしていないのに。とっくのとうに兎神には見放されているはずなのに。それなのに、未だ悪霊を視る力がある。触れて退治する力がある。さらには、加護がまだあるかのようになぜか生き残ってしまった。それは、どうしてなのだろうとずっと考えていました」



 宇佐木が語りながら、わたしの肩に触れる。

 なにか視線を感じる。

 見上げると、あの藍色の瞳と視線が合った。



「ようやくわかりました」


「え……」


「あなたと会うため、だったのだと思います」


「宇佐木?」


「私は、あなたがあなた自身で終わらせることができるまで、見守る役目を負ったのだと思います。ですからどうか、希望をなくさないでください」



 希望。

 今、希望と言った?



「なん、で……なんであなたがそんなこと……」


「貴子お嬢様のご両親に言われました。あの子の下につくならば、最後までつけと」


「え?」



 お父様と、お母様が?

 わたしは家のための、ただの駒じゃなかったの?

 家が栄えれば、兄が家業を継げれば、わたしはもう「いらない存在」になるんじゃなかったの?


 そうだと思っていたのに。宇佐木にそんなことを頼んでいたなんて。



「嘘。嘘……。だって、あなたは……そこまでわたしにする必要なんか、ないじゃない。体は治ってきたんだから、いつでもこの家を出たって――」


「いいえ。ですから特に不満はないと申し上げました。それに、あなたを侮辱した罪をまだ償いきったとは思えませんが?」


「そ、それは……」


「貴子お嬢様から見て、私の罪はもうなくなったのでしょうか」


「だ、だからそれは……」



 じっと見つめられて、なんだかわたしは顔が熱くなってくる。

 どうして。十以上も歳が離れているのに。



「貴子お嬢様。希望をなくさないでください」



 再度そう言って、宇佐木がわたしの前にひざまずく。



「あなたが霊力を失うまで、また霊力を失った後も、どうか私に見守らせてください。私の命は、役目は、そのためにあるのですから」



 彼はわたしがいる限り生きていられるのだと思った。

 わたしも彼がいる限り、強く生きていられると思った。

 わたしは宇佐木の頭を抱いて、「よろしくおねがいします」と言った。





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