十八 ジャストフォーユー
「この際だから、今さら記憶喪失が嘘が本当かを語るつもりはないよ。ただ、いったんそれが事実だったという体で、話を聞いてほしい」
「話すことなんかない。どっか行って」
「あるはずだ。たくさん」
「ないから……! ほんと、あんたってなんでそんなに勝手なの? 私が振り回されて、苦しんでるのを見るの、そんなに面白い⁉︎」
「………」
「もういい。私は踏ん切りついたし、あんたもまた忘れればいいじゃん。記憶喪失でさ」
立ち上がって僕の脇を通り抜ける紫を、僕の手が掴んで止める。
「……茶番だ」
「は?」
「僕が止めるって、わかってて立った」
「……何言ってんの? 意味わかんないし……」
「じゃあ、なんでここなんだよ」
「………」
僕の手を振り払おうとする紫の力が、一瞬、かすかに弱まった気がした。
「ここ来るって、わかってたんだろ。僕が君に謝るとしたら、まず君を待たせた場所に行ってみる。まだそこで君が待ってくれてるかもって、期待するから」
「ただの気分だよ。意味なんかないし、全部あんたの自意識過剰」
「なら、僕の手を振り払うといい。片手で僕を拘束できる力があるんだ。いつでも簡単にできるはずだ」
「………」
風が吹き抜けて、ひぐらしの声が会話の隙間を縫うように鳴り響く。紫は笑っているような、泣いているような、不思議な表情をしていた。
「知らない……私は、何もわかってない。あんたが何をしたいのかも、自分が何をしたいのかも」
「………」
「もう顔も見たくないのに、足音が聞こえるたびに、私の一部が勝手に「犬助かも」って期待してた。どうせ傷つくってわかってるのに、鳥居の下で犬助の姿を見た時に、勝手に喜ぶ自分がいた。
まるで呪いにでもかけられたみたいに、私はずっと、望まずにらしくないことやってる」
紫はうんざりしたような顔で、また自分の感情をありのままに吐き出す。彼女はそうやって、自分の心に整理をつけるのだろう。心の病を自分で認めて、それを克服の第一歩にするかのように。
「君に謝りたいんだ、紫」
「謝ってどうするの? また裏切って、私を傷つける?」
「もう全部思い出した。記憶を失くすこともない」
「それが何? 私はもうあんたを信じたくないし、こんな……残り物の感情に振り回されるのも限界なの。あんたに少しでも私を思う感情があるなら、謝るんじゃなくて、ちゃんと私を振ってほしい」
「………」
また、ひぐらしが鳴いた。今の言葉は、かなりの破壊力があった。少なくとも、紫の手を思わず離してしまうくらいには。
「……早く」
「………」
「もう、限界だから……」
紫の震える声を聞くたびに、僕の胸に突き刺さる何かと、その一方で確信を帯びていく何かがあった。それはもうアキレス腱が切れそうなぐらいに走り出す準備をしていて、あとは僕がスタートの合図を鳴らすだけだった。
「好きだ、紫」
「っ……!」
僕の口から飛び出た言葉に、紫は銃撃を受けたみたいに後ずさった。「なんで」「やめて」「最低」、そんな言葉を口の動きで放った後、手にしたカバンを僕に投げつける。
「もうやめてって言ってんじゃん!」
「わかってるよ! だからこれが、最後……」
「私が何度、あんたに最後をあげたと思ってんの⁉︎ もうとっくに、終わってる……!」
「そんなチグハグな心のまま、説明も聞かずに終わって、君は満足なのか?」
「………」
「もしそうなら、そこの階段から飛び降りて、君もろとも全部忘れてやるよ。そしたら僕もスッキリ終われる」
紫の顔に、嫌悪と困惑の色が浮かぶ。自分が正しいことを言ったのかはわからなかった。でも、とにかく本気なのは事実だった。
「あんたって……最低だよ。ほんっと最低!」
「じゃあ、もう迷わないよな。話を聞いたとしても」
「……わかった。もういい。
なんか珍しく強情だし、私もいい加減ヒステリックになりたくない。聞くだけ聞くから、今度こそ、約束は必ず守って」
紫はカバンを拾い上げると、涙を拭きながらベンチへと戻っていく。彼女の言う約束を僕が結んだ覚えはなかったが、話を聞いてくれるなら何だっていい。確かに、今の僕はらしくないほどに強情だった。
最後の謎の答えを頭に浮かべ、僕は彼女の隣に座った。
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