十 胸穿つ

「どうして、来てくれなかったの?」


 紫がもう一度、僕に尋ねる。



「私、待ってたんだよ。何分も、何時間も、ずっと待ってた。

 犬助に浴衣姿を見せたいからって、お母さんに着付け手伝ってもらって……それから神社のベンチに座って、あの時のお礼の言葉を、何度も、何度も考えてた」


 紫の癖のかかった長髪が、顔の周りだけ濡れていた。

 僕はその奥にある彼女の表情を、うまく見ることができなかった。代わりに、彼女の足元にある楽器のケースを、興味もないのに見つめていた。


「犬助好きかなって、たこ焼きなんか買っちゃってさ。あーでも浴衣汚れちゃうかなーとか、猫舌だったらどうしようとか、考えて……気づけば二時間半。

 それでも待った。たこ焼きは冷めたけど、伝え切れないお礼を手紙に書きながら、ずっと……」

「……」


「バカみたいじゃん。私」


 紫の顔が、見られない。それを目にするのが、僕は怖くてたまらなかった。

 胸を走る、ずきりとした痛みが、もう紫によるものか自分のものかもわからなかった。



「あの時言わなかったけど……私、犬助が青香と一緒にいるの、見たんだ」

「………」


 記憶を失った僕は、なぜか青香と付き合うことになっていた。おそらく彼女に呼び出されて、そこで告白されて、紫のことを忘れていた僕は、それを受け入れてしまった。


 その、現場を。彼女は見てしまった。


 

「その時の私がどんな気持ちだったか、わかる?」


 紫の指先に力がこもる。


「……痛かった」

「うん。たこ焼きはゴミ箱に捨てたし、浴衣も暑いから脱いじゃった」

「……」

「帰りが早いのを不思議がる親への言い訳を考えるのって、すごく惨めな気持ちになるんだよ。本気で死んでやろうかと思った。要は、それぐらいの痛みだったの」


 紫は最後に、「長々話したけどね」と言うと、息を吐いて椅子に体を落とした。自分自身の抱える感情を持て余してしまって、それを冷静に分析するような、そんな口ぶりだった。


「紫、僕は……」

「聞いて、犬助。

 私はまだ、あんたの答えをずっと待ってる。あの時の痛みを抱えたまま、「ちゃんと説明する」って言ったあんたの言葉を、今も信じて待ってるの。

 人間って不器用なもんでさ、あんな裏切られ方しても、やっぱりまだ好きなのは好きみたい。バカだよね。私は自分のことずっと頭いいと思ってたけど」

「………」

「ねえ、私は……いつまで待てばいいの?」


「……記憶喪失なんだ、紫」

「また、それ……!」

「違う。本当だ」

「もういいって。ほんと、あんたってマジで最低……」

「残りの汁を全部僕に浴びせてもいいし、心臓に届くまで爪を突き立てたって構わない。

 それでも僕の答えは変わらない。僕は本当に、記憶喪失だったんだ」

「無理だよ。信じられない」

「車に撥ねられた後、そこで記憶を失ったんだ。

 僕の様子がおかしいって言ったよね? それは記憶がなくなったからだよ。君に告白された記憶を失くして、それで約束も忘れてしまったんだ。だから僕は、青香から告白された時に、受け入れてしまって……」


「もういいよ」


 紫が僕の肩を押し除けて立ち上がる。


「もういい。嘘ばっかり」

「嘘じゃない」

「いいってば。しつこいから」

「なんでだよ。僕の話は何も矛盾してな…」


「犬助が私と約束したのは、じゃんか!」



 食堂がまた、静まり返る。

 もはや僕らの注目度はとんでもないことになっていたが、そんなことはこの際どうでもよかった。


「は……?」


「辻褄、あってないじゃん……」

「そ、そんなわけ……」



 僕は、車に跳ねられて記憶を失った。「祭りで会う」という彼女との約束は、てっきりその前の、彼女に告白された時の話だと思ってた。


 ということは、僕は祭りの時には紫との約束だけは覚えていた……?

 じゃあ、どうして僕は祭りの時、紫に会いに行かなかったんだ?


「ごめん。もうほっといて」

「………」


 食堂の中央で、一人残され愕然とする僕と、冷え切ったうどんの汁だけが残されていた。

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