九 痛み

「紫? 何、その変な呼び方。まるで私が加害者みたいじゃん? 本当はそっちが加害者なのに」

「す、スミマセン……」


 紫は隣の椅子に座ると、ヤクザが脅しをかけるみたいに僕の肩に肘を乗せる。片手に持っているパンが、でっかい葉巻に見えた。



「私さ、思ってたんだよね」

「………」


 紫の雰囲気は、青香がいた時とは明らかに別物だった。嵐はいつの間にか逃げたらしい。ちゃっかりしている。


「ほら、やっぱ青香がいると話しづらい事もあるかもだしさ。それに最近様子も変だったし、こうしてジックリ、二人で、話をするべきなんじゃないかなって」


 紫の殺気がみるみる強くなっていく。

 あの時の殺気の凄まじさは二人ともから来るものと思っていたが、どうやらその根源は紫一人だったらしい。本人が飄々としているので、全く気づかなかった。


「様子が変って、どう変だったの?」

「へえ、そっちが聞くんだ」


 ドス黒いオーラが濃さを一層増した。


「まあいいよ、説明してあげる。紫さんは優しいからね。

 たしか……半月ぐらい前かな。私と犬助が撥ねられたやつ。覚えてるでしょ?」

「……うん」


 紫まで跳ねられていたのは初耳だった。話すならちゃんとそこも話してくれよ、嵐。


「あの後からだよ。言ってることがチグハグで、わけがわからなくなった。今もおかしくなってる」


 紫が僕に顔を近づける。彼女の透き通った黒い瞳から手が伸びてきて、それが僕の心臓を握り潰すかのようだった。


 

「話しても、君は信じてくれない」

「ふーん、そんな言い方するんだ」

「でも、事実だ。君が僕だったら「ふざけるな」って怒って、うどんの汁を頭からかけてる」

「へえ、いいこと聞いた」


 紫の左手が僕の前にあるうどんの椀を掴む。余計なこと言わなけりゃよかった。


「ほら、全部話しな?」


 僕の胸の上で、うどんの椀が傾き始める。彼女の力は見かけによらず強く、肩を掴まれてるだけなのに僕は身動ぎ一つできなかった。


「ちょっ、ちょっとストップ! 待って!」

「わー、私の大好きな犬助くんが火傷しちゃう〜」


 密着する男女が食堂のど真ん中で騒ぐのは聴衆の注意を大いに引いたが、紫はそんなことなどお構いなしのようだった。ポタポタと熱い汁が僕のカッターシャツの上に落ちて、椀はいよいよ中身全てを放出しつつある。


 紫は、本気だ。


 

「わかった! 話すからやめて!」

「んー。じゃあ話してみて?」


 そう言いつつ、紫の手はちっとも止まってない。


「記憶喪失なんだ」

「はいはい」

「本当なんだよ。何も覚えてない」

「………」


 ようやく、椀の傾きがとまった。

 もうスープの半分以上は僕の胸元にかかっていて、火傷とまではいかないながらも、そこそこの痛みを残していた。


「ふざけてんの?」

「そう言うと思ったよ。だから……」

「ねえ、犬助」


 紫は椀を僕の前に置くと、茶色いシミが広がった、僕のカッターシャツの胸元に指先を押し付ける。熱を持った痛みが、僕の胸にじわりと広がった。


「痛い?」

「……うん」

「そう。私もそれぐらい痛かった」

「……」

「私って、恥ずかしいのも割と平気だから、はっきり言うけど……正直、本気であんたのこと好きだったんだ。

 もうホント、壊されちゃいそうなぐらい」


「……なんで?」

「ん?」

「なんで、僕のこと好きになったの?」

「だって助けてくれたじゃん。私のこと」

「……?」

「あんたに告白した後の話ね。実を言うと、その時はただのイタズラだったんだ。それは今謝るよ、ごめん。

 でもあの後に、犬助が私を車から助けてくれて……」


 ああ、その時か。僕の脳内で、点と点がやっと線になる。


 半月前、僕と紫は一緒に帰っていた。そこで紫は僕にイタズラで告白して、多分僕はそれにオッケーしたんだろう。しかし彼女がネタばらしする前に車が来て、僕は彼女を庇い、記憶を失ったんだ。告白されたことを、そこで忘れてしまった。



「すごい、嬉しかったんだ……」


 紫の声が、震えていた。

 それは初めて彼女が見せた、感情らしい感情だった。


「結局私もひかれちゃったけど、それでもすごく嬉しかった。

 あんたの顔が急に真剣になって、迷いもせず私の盾になって……「なんで私なんか」って言う私に、笑って「無事でよかった」って言う、あんたが……」

「………」


「もう、好きで好きで、おかしくなりそうだった」


 紫の指が、僕のカッターシャツを絡め取って、胸を掴んだ。

 千切れそうなぐらいに、痛い。


「ねえ、犬助」

「………」


「なんで、

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