三 エスケープフロム…

「な、なに今の……雷?」

「すぐ近くに落ちたね。あんな距離で見たの初めてだよ。いつのまにかすごい曇ってるし」

「今日風強かったから……って、あれ? 犬助くん?」

「………」

「……死んでる?」

「う、うそ。もしかして、当たっちゃった?」

「雷が? いやいや、そんなワケ……」

「犬助くん……犬助くん!」

 青香が僕を揺さぶるが、特に返事はない。


 我ながら、素晴らしい機転だった。

 すぐ真横で雷が落ちた時、びっくりして尻餅をついてしまった僕は、「このまま気絶したフリをしたらいいんじゃないか」と名案を思いついたのだ。

 嘘をついて逃げることにはなってしまうし、あまりに情けない姿をさらす羽目にはなるが、記憶を失った以上、まともな答えが出せないのだから仕方がない。もうこれ以外に方法がなかった。


「青香、そこで見てて。私は保健の先生と担架もってくる」

「う、うん。また落ちてきたら危ないし、中に運んどくね」

 二人は先ほどまでの喧嘩などすっかり忘れて、実に連携の取れた動きで僕を保健室まで運んでいった。


 一応はうまくいった。しかし、これは根本的な解決にはならない。ただの一時しのぎだ。

 初夏特有の雨の匂いが、気絶したフリを続ける僕の不安を増幅させた。



「呼吸も、心拍も安定してる……うん。別に大したことないね。びっくりして気絶しただけじゃないかな」

「よかった……」

「なんというか散々だね、犬助。別に同情はしないけど」

「人のこともてあそんだ罰だよ」

「ははは……戦場いくさばくんと何かあったの?」

「いや、別に」

「なんでもないです、先生」

 保健室のベッドの隣で、二人の声と保健の先生のものであろう、穏やかな男性の声が聞こえる。

 ここまで気絶したフリでやり過ごしていた僕は、そろそろ目覚めるタイミングを探していた。二人がここから離れてからがベストだろう。今起きてもまた詰められるだけだ。


「二人とも、今日はもう授業ないの?」

「はい。夏休み前なので」

「先生。犬助が起きるまで、向こうの部屋で待っててもいい?」

「もちろん。先生はここでもう少し様子を見てるから、好きにくつろいでいいよ」

 保健の先生がそう言った後、青香が「ありがとうございます」と礼を言う声が聞こえて、続けて二つの靴音が去っていく。

 ……どうやら、行ったようだ。


「さて、もう起きていいよ」

「……気づいてたんですか?」

「顔がちょいちょい引き攣ってたからね」

 先生は口角のあたりを指で突き、妙に可愛らしいポーズでにっこり笑う。乙女ゲームにでも出てきそうな、長髪でイケメンの先生だった。さぞや女子生徒から人気があるのだろう。

「どうやら、弄んだようだね。戦場くん」

「……みたいです」

「で、で、何やったの?」

 先生は横の椅子に腰掛けると、目をキラキラさせながら僕に詰め寄る。ゴシップ好きの女子か。

「よくわからないんですよ、それが」

「え〜、はぐらかさないでよ。先生気になる」

「本当なんですよ……先生、ちょっと相談が」

 そこで、僕はさっきまでの事の顛末てんまつと、記憶喪失であることを先生に伝えた。


「と、いうことなんですけど……」

「……なんか、最低だね。戦場くん」

「否定したいところですけど、僕もそう思います」

「まあ確かに、記憶を失った君にしてみれば他人事な気分だよね。どうせ」

「なんでちょっと辛辣なんですか」

「先生、甘酸っぱい純愛が好きだからさ」

「知りませんよ。めちゃくちゃ個人的な感情だし。

 記憶喪失って薬とかで治せたりしないんですか? 二人の我慢が限界になる前に、早くなんとかしないと……」

「う〜ん。ちゃんとした治療を受けるなら脳外科とかに行くべきだと思うけど、先生は治せるなんて話聞いたことないなあ。

 ちなみに、どこまで覚えてるの?」

「覚えてるっていうか、聞いたからわかったんですけど……僕の名前は戦場犬助で、髪の短い子が青香、長い子が紫って名前なのは知ってます。

 あとは中学とか小学校の記憶とか……」

「今日の日付はわかる?」

「七月十四日の、月曜日です」

「二人のことは、それ以外だと何も?」

「はい。苗字も知りません」

四季島青香しきしまあおかさんと、反紫かえりむらさきさんだね。

 二人とも君と同じ、二年一組の生徒だよ」

「二年生なんですね。何か、他に情報とかは……」


「犬助~?」

「声が聞こえたけど、起きたの?」

 背後から突然声が聞こえて、僕と先生は思わず飛び上がりそうになる。

 扉の方に目を向けると、まるで子ネズミを見つけた蛇のような顔をした二人が、舌を舐めずり立っていた。

 

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