第2話 助けたい誰か

 五月のある日のこと、俺は空を眺めていた。無心でただただ眺めていた。二階にある教室の窓の外に広がる青空を眺めながら、『あの雲、猫みたいな形をしてるな』などと考えていた。


 ・・・あれ、これだと無心ではないな。まぁイイ、とにかく俺はこの場にいたくないので、現実逃避をしているワケだ。教師は黒板にいくつもの数式を書き殴り、クラスメイトたちはそれを熱心にノートに書き写している。


 そう、今は授業中。数学の授業の真っ最中である。だから俺は現実逃避をしているのだ。勉強なんてしたくはないから、現実逃避をせずにいられないのだ。別に数学の授業だから逃げ出したいのではない。どの授業であっても逃げ出したい。俺はまぁ、勉強がキライなのである。






 どうして勉強をしなければならないのだろうか。いつだったか、そんな疑問に答えた者がいる。


「それは、誰かを助けるためだなぁー」


 そう、ダマシヤである。ダマシヤが答えたのである。彼が言うには、誰かを助けるためにはチカラが必要とのことだった。そのチカラとは、知識であり、知恵であり、腕力であり、技術であり、金銭であり、地位であり、権力である───とのことだった。


 いや、多くね? そんなに必要なの?


 そう思った俺だったが、しかしながら必要らしい。誰かを助けるにしても、その都度、必要となるモノは違うからだそうだ。


 知識によって助けられる場合、知恵によって助けられる場合、腕力によって助けられる場合、技術によって助けられる場合などなど・・・。なにが必要になるかはまだ分からないから、そのときのためにあらゆるモノを身に付けておかないといけないらしい。


 な、なるほど・・・。


 しかしながら、『誰かを助けるため』とは、どういうことだろうか。勉強は、自分のためにするのではないのだろうか。


「違うなぁー。自分のことなんて、欲を捨てればイイだけだなぁー」


 贅沢な生活、大衆からの人気、長い寿命などなど・・・。そういうモノは諦めればイイだけらしい。要は、高望みをしないなら勉強なんてしなくてイイとのことだった。


「毎日を安いメシで凌ぎ、他人と関わらず、いつ死んでもイイと思うなら、勉強なんてしなくてイイんだなぁー」


 でも、『助けたい誰か』がいない場合はどうなるんだ?


「誰だって、『助けたい誰か』っていうのは、一人くらいはいるモンだなぁー」


 親、兄弟、姉妹といった非常に身近な存在から、友達、恋人、恩師などなど。果ては、応援しているアイドルやアスリートなども含めると、大抵の人間は『助けたい誰か』というのが、一人くらいはいるらしい。それはまぁ、そうか。


 だったら、誰かを助けたいと思わなければイイんじゃないのか? 自分に関する欲と同じように、そんな気持ちも捨ててしまえばイイんじゃないのか?


 しかしながら、そうではないらしい。


「それは、多分ムリなんだなぁー。助けたい誰かのことは、自分のことよりも大切だったりするモンなんだなぁー。だから助けたいって気持ちは、そう簡単には捨てられないんだなぁー」


 なるほど、なるほど。たしかに、そうかもしれないな。


「そんで結局、誰かを助けることが自分のためにもなるんだなぁー」


 それは分かる。助けたい誰かを助けることができたなら、それは自分にとっても幸せなことだろう。そして助けられなかった場合は、大きな悔いを残すことなるだろう。俺にもそんな大きな悔いが残っているから、分かるのだ。


「だからまぁー、勉強はしといた方がイイんだなぁー」






 そんなやり取りを思い出し、俺は教科書に目を向けた。


 しかし書いてある内容についてはチンプンカンプンなので、すぐにまた窓の外を見た。そうしているうちに数学の授業は終わった。


 授業間にある短い休み時間に入り、トイレへと向かう。用を済ませて教室へと戻る途中、ふと廊下の窓に目をやる。すると窓のすぐ外には、一本の木。その枝には一匹の猫が乗っていて、こちらを見ている。


「なぁー」


 特徴的な鳴き声と、真っ黒な体。そしてターコイズブルーの瞳。間違いない、ダマシヤだ。俺は窓を開け、囁くようにして喋り掛ける。


「な、なにやってんだよ、こんなトコで!?」


「パトロールだなぁー」


 いやいや、ここら辺もオマエの縄張りなのか!? 自宅から二キロメートル近くも離れてるんだぞ!?


 まさか俺のことを見張りに来たのだろうか。それともパトロールの最中に、偶々たまたま遭遇しただけなのだろうか。仮にそうだったとしても、とにかく俺の学校生活を覗き見されるのは、御免ごめんこうむりたい。


「とりあえず帰れよ」


「イヤだなぁー」


 あぁ、クソッ! 言うことを聞きやがらねぇ!


 これ以上の会話は危険だ。もしも誰かに聞かれたら、俺は『猫に話し掛ける変人』だと思われてしまうだろう。いやいや、それよりも『喋る猫』の方が遥かにヤバい。ということで、ダマシヤを説得することは諦めて、窓を閉める。しかし・・・。


「わぁ! 可愛いネコちゃん!」


 一人の女子が俺の横にやって来ていた。彼女は俺とは違うクラスの女子である。しかしその女子のことを、俺は知っている。


 なぜなら彼女は、俺にとっての『助けたい誰か』の一人だからだ。そんな彼女の名前は、佐々木ささき 風花ふうかという。


「ねぇ。窓、開けてもイイ?」


「え、あ、うん・・・」


 佐々木からの問い掛けに対し、なんとも、たどたどしく答えた俺。しかし、そんなことを気にする様子は全く見せなかった佐々木は、ゆっくりと窓を開ける。おそらくは、ダマシヤを驚かせないように配慮しているのだろう。


「ニャニャッ、ニャーニャ」


 窓を開け終えた佐々木はつい先程の俺と同様に、囁くように言葉を発した。しかしその理由は、俺とは異なるようだ。俺は他の生徒に聞かれまいと思ったが、佐々木はまたしてもダマシヤに配慮したのだろう。大きな声で驚かせないようにしたのだろう。なぜなら囁くように喋ったところで、彼女の声は他人に聞こえてしまったのだから。そう、俺には聞こえてしまったのだから。


 それにしても佐々木が発した言葉はあろうことか、いわゆる猫語だった。彼女はダマシヤと───いや、猫と会話をしたいのだろうか。そんな彼女はどう見ても、『猫に話し掛ける変人』には見えない。ただひたすらに可愛い女子にしか見えない。しかしそれは、俺だけかもしれない。いやいや、そうでもないか。猫語を駆使する女子というのは、一般的にも可愛らしく思えるのかもしれない。


 俺は学校がキライである。学校に来ることがキライである。なぜなら勉強がキライだからである。勉強をすることがキライだからである。しかしながら今現在は、学校に来て良かったと思っている。今日に限っては、学校に来て良かったと思っている。それは、佐々木と会えたから。こうして彼女と会話ができたから。


 今までは、こんなことは起こらなかった。去年も今年も、俺と佐々木は別々のクラス。だから会話をするどころか、彼女の姿を見かけることすら、そうそうなかった。もし仮に佐々木と同じクラスだったなら、毎日彼女の姿を拝めたなら、俺は学校に来ることをキライになったりはしなかっただろう。たとえ勉強をすることは、キライなままであったとしても。


 もしも佐々木と仲良くなれたなら、俺は学校に来ることを好きになるだろう。是が非でも、毎日来たいと思うだろう。しかし、それは難しそうだ。今こうして隣に佐々木がいる状況でも、俺はどうしたらイイのかと戸惑うばかりなのだから。なんとかして彼女と仲良くなりたいが、一体どうすればイイのだろう。


「なぁー」


「あ、喋った! 喋ったよ!」


 ・・・いや、本来のダマシヤはもっと喋るよ。今は無口な方だよ。


 一瞬、そう思った。少し呆れ気味だった。意中の相手なのにもかかわらず・・・。そんな俺とは対照的に、ダマシヤの言葉を受けた佐々木は、輝くような笑顔を見せた。そんな表情を見せられた───いや、そんな表情に魅せられた俺は、思わず余計なことを口走ってしまう。


「あ、あの猫・・・。ウチの、飼い猫なんだ・・・」


「そうなの!?」


 大きく驚いた佐々木。しかしこの直後、俺もまた、大きく驚くことになる。



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