34 解剖する悪魔の瞳
白河の、黄金色の瞳。
皮膚が粟立つが理由が分からない。この感覚を知らない。ただ神を前にした信徒のように、愛は白河の瞳から視線を外すことができなかった。
いや――悪魔の瞳、だろうか。
禍禍しい美しさを持った瞳が楽しげに愛を見下ろしている。頭の端で赤い警鐘が明滅する。
これ以上、この眼を見ていてはいけない。
けれど身体が全く別人のものになったように言うことを聞かなかった。
ど、ど、ど、ど、ど、と心臓が飛び出してしまいそうなほど激しく早く鼓動している。嫌な汗がじわりと滲んだ。白河が幼子にするようにしゃがみこみ、その白い両手が愛の頬を包んだ。その触れ方の優しさが却って――「恐ろしい」。
そうだ、今、自分は恐怖しているのだ。
自覚した途端、愛は逃げ出さねばと思った。それだけで頭がいっぱいになって叫び出したくなったが、それさえも叶わなかった。
目の前の、黄金の瞳から眼が逸らせない。
白河の口端が残忍に歪み、笑みを形作る。
「北村愛。キミはぼくをサイコパスと言ったが、それは大正解かもしれない」
けれど、と白河は続ける。
「ぼくはぼく自身のことを、人間の皮を被った『何か』だと自負している。聡明なキミのことだ。分かるだろう? この眼は、人ならざるモノだ。そしてキミは今、おそらく産まれて初めてと言っていい、『恐怖』を感じている。だがそれでいい。それがサイコパスであっても人間らしい反応といえる。全く未知のものに出くわした時、人間はそうやって恐怖という警報を頭の中で鳴らして、身体に命令しなければならない。例えば今だったら、危険だ、ここから逃げ出せ、とね。残念ながらもうキミにはそれが出来ないわけだが」
どうして、なぜ、と思った。そんな存在、在ってはならない筈だ。この、「私の物語」には、いてはならない、そうノックスの十戒のような、そんな――。
「さて……キミは常々不思議だっただろう。小林茜や林原圭佑といったぼくの依頼人たちが『犯人を知りたい』と依頼してきたことが。犯人を知るというのならば、もう今の時点でとっくにぼくは依頼内容を達成しているといえよう。だが、よく考えてみてくれたまえ。『犯人を知る』というのは、犯人が誰かということだけでは些か表面的過ぎないか?」
白河はキスでもするかのような距離で、穏やかな口調で語る。
「詰まる所こうだ。北村愛。ぼくはキミという人間そのものを知ることを目標としており、それを知り、依頼人たちに報せることが依頼の到達点と考えている。では、人間そのものを知るということはどういうことだろうか。ぼくは人を知る上では外在的な部分と内在的な部分があると思っている。外在的な部分というのは外から見える部分だ。名前、性別、身長体重、容姿、社会的立場……目に見える部分だ。可視化できる部分といっても良いのかもしれない。その外在的部分については既に山崎さんたちが調査済みだ。だが内在的な部分――つまり『心』にはどういったアプローチをかけるべきか?」
そんなものは不可能だ。
心は人には見えないのだから。
そんな愛の心を読んだかのように白河も頷く。
「そうだね、普通なら不可能だ。人の心を知ることなんてできない。だが、ぼくはできる。大方の外殻が分からないと使えないがぼくのこの眼は、そう──心を【解剖】できるんだ」
心の、解剖?
理解が追いつけない。
そんなものは非現実的だ。
けれど視線が合ったままの、白河の黄金色の悪魔的な双眸は、言葉なくして雄弁に物語っている。決して離せないその視線が、言っている。
決して、逃さないと。
その目は獲物を狩る側の瞳だった。
初めて愛の喉から、ひっ、と短い悲鳴が漏れた。冷水を頭から浴びたように、震えが起こり、止まらなくなっていく。指先から血の気が引いていって、全身の血が凍り付くのを感じる。知らない。こんな感覚は知らない!
白河の黄金色の瞳には、恐怖した羊が映り込んでいた。
「それでは、開かせて頂きます――」
刹那、カチリ、と何かが噛み合ってしまった音が脳の奥から聞こえた。
白河は決して目を逸らさせぬよう愛の頬を両手で包んだまま、その黄金色の瞳を輝かせ、愛の瞳の、瞳孔の、視神経の、水晶体の、すべてを伝って神経を逆なでしていく。その得体の知れない激痛に叫び出したくなるが、喉を出たのは短い空気だけだった。虫が鋭い脚をざわつかせて内部を這い回るような痛みが眼から脳へと駆け抜けて、やがてそれは食い散らかすように頭蓋の中を暴れ回る。
白河の黄金色の瞳孔が急激にその瞬間、収縮した。
「――北村愛。年齢二十六歳女性独身。母親は専業主婦、父親は会社員。父親母親共に容姿端麗、性格も温厚で七歳まで何不自由ない暮らしを送っていた。しかし父親のリストラにより家庭が崩壊。父親は暴力をふるうようになり母親を強姦するようになり、その強姦現場を幾度となく見せつけられてきた。やがて父親は酒に溺れギャンブルに走った。その父親との性交で母親は妊娠、DVによって流産している。その時腹に宿った命が流れ出したことに対し母親が『赤ちゃんは蝶になって消えちゃった』のだと言う。その言葉が魔法の言葉のように今も残っている。九歳の時に母親が父親を滅多刺しにして腹を切り開く。母親はざまあみろと言ったが憎悪を知らぬ北村愛には理解はできなかった。その後母親と新潟県N市××山の山中に父親の遺体を遺棄。北村愛は父親の暴力についても母親の暴力についても常に傍観者の視点でいたが、九歳の年齢でその暴行や殺害に対し性的興奮を初めて抱く。母親と二人暮らしを初めてから暫くはその性的衝動をしまいこむことができたが小学校六年の時に交通事故で事故死したクラスメイトの遺体を目の当たりにして二度目の性的興奮を覚える。中学に入学後、クラスメイトと一緒にアダルトビデオを鑑賞するが興奮は低く、スプラッタ映画の殺人シーンで初めてエクスタシーを経験する。以来、自分の性的嗜好が他人とものとは大幅にずれていることを知る。初めてのセックスは十六歳のとき。四つ年上の大学生と寝てみたが、期待するような興奮や快楽は得られなかった。その後別の男性と交際してみるがうまくいかず二ヶ月弱で破綻。セックスでは到底満足が得られなかったこの頃から小動物を殺すようになる。はじめはハムスター、次に野良猫。ステップアップするにつれ求めていた快楽に似たものを感じるようになっていった。理想は父親を殺した母親だった。初めての人殺しのは社会人二年目の時だった。精神を病んだ母親を絞殺後、腹を切裂いた。その切裂いた腹をめくって何度も内臓に触れてキスをした後、そこで自慰をした。十数回以上の自慰の後、母親の遺体を見て蝶々のようだという妄想が膨らみ『工作』をした。ネイルガンで釘打ちして蝶の形を模すと標本を手に入れたような気持になった。スマートフォンで記念写真を何枚も撮影をした後、クラウドに保存し端末からは泣く泣く消去した。母親の遺体は父親の遺体を埋めた山中に埋めた。母親が戸籍上はまだ生きていることになっているのは、母親の周囲に誰も母親を気にかける存在がいなかったからだ。それを見越して最初の殺人を行なった。身内に殺されると思っていなかった母親は勿論抵抗される間もなく殺害することができた。そこでもう欲望との折り合いがつけることができると思ったが、内に秘めた獣はそうはいかなかった。保険営業は天職だった。自分が言葉巧みに相手を操ることに長けていると気付き、保険営業を続ける内にこの手を使ってまた人を殺せないかと考えるようになった。まず被害者を選ぶべくSNSを駆使し、選び出し、慎重に行動した。第一の被害者である杉本花菜はインスタグラムに掲載されていた写真を見て気に入った。母親と同じ黒髪の美しい少女だった。申し分ないと思った。杉本花菜のツイッターを探し出すことは簡単だった。そこから日常生活を調べ上げ、住所を特定することに成功した。日中の自由な時間。共働きの両親がいない時間帯を狙って杉本家の自宅へと訪問する。予想通り自宅には杉本花菜一人しかいなかった。母親との保険契約の約束があると嘘を吐き、杉本花菜の自宅に入ることに成功し、背後から携帯していたナイフで突き刺す。仰向けに倒れた杉本花菜を引きずりリビンで仰向けにすると、裸にし、持ってきた結束バンドで手足を固定した。その後杉本花菜の腹を引き裂きネイルガンで釘打ちした。杉本花菜は釘打ちの途中で死亡していた。この事を残念に思いながらも興奮のあまりその場で自慰を二回し遺体写真を撮影して、その場から凶器を持って立ち去った。この快感に取り憑かれてからは仕事が手につかず、退職し次のターゲットを探し始めた。勤めていた保険会社からバッチとネームプレート返却の催促はされていたが無視し続けていた。そのバッチとネームプレートを手に次なるターゲットである小林茜を見つけた。彼女の生活リズムを調べ上げた上で何度もイメージトレーニングをしその度に自慰をした。決行日はよく晴れていた。スーツを着てバッチとネームプレートをつけ、小林茜の自宅を訪れると予想外の人物が現われた。それが小林悠だった。この段階で白河希という人間を殺すことを最終目的に置いていたので、背丈や体格の似ている小林悠を殺すことに決めた。けれどそれほど最初に殺した杉本花菜ほどの快楽は得られなかった。そこでやはり黒髪でないと駄目なのだと再確認した。それからは黒髪の美しい人間を狙い、また探偵事務所に入所したことで『遺族』という新しい『記念品』を得ることに酔い痴れた。第三の被害者である清水ゆかり、第四の被害者である加原亮一郎、第五の被害者である榊原麻衣子。回数を重ねるにつれ、どんな体格の人間であっても自分ならば殺せると確信に至った。あとは最終目標である白河希の殺害だった。ここで思いつきで水橋祐子を殺して『作品』を見せてみたいと思った。白河希が動転し恐怖に青ざめる姿を期待していた。しかし白河希は思うような反応をしなかった。当然激しい怒りに見舞われたが、一層白河希という人間を殺す瞬間が気持ちよくなるだろうと考えた。なにせ白河希は【初恋の人】だ。一目惚れ、運命、宝物。どのような言葉でも白河希を例えることができた。計画は杜撰ではあったが、もうこれ以上の戦利品は得られないと思い今夜決行することにした。今夜のためにわざと二人になるよう仕事を溜めておき、事務所で二人きりになる瞬間を狙った。だがここで予想外のことが起きた」
パチリ、とそこで瞬きが入る。
絡み合って脳の細胞一つ一つを蹂躙していた痛みが更に強くなる。
けれど愛は声も出せなければ指一つ動かせない。
黄金色に輝く白河希の瞳は、身動きの取れない愛を楽しげに見ていた。
「そう、それが今この瞬間だ。北村愛。キミの心を切り開いて、のぞかせてもらったよ。過剰な性欲、サディスティックな妄想、幼い頃受けたショックから芽生えた歪んだ性癖、そして他人の中で柔軟に、無害そうに生きる狡猾さ。キミは常に他者だけでなく、自分とも乖離しているかのように感じている。だが、人を殺す時だけその乖離がなくなり、完璧になるように思える。だが言っていたように、この世に完璧なものなどない。事実、キミは今、ぼくに為されるがまま心を曝け出している。切り開かれて一方的に中身を見られる感覚はどうだい? ああ、どうやら恐怖を初めて体感しているようだ。これは僥倖。ああ、震えているね、さっきからずうっと。そう、それが恐怖だ。キミに殺されてきた被害者たちが感じた恐怖というものだ。キミは今まで随分と鈍感だったみたいだから、特別に敏感にしてあげよう。キミの恐怖のスイッチをぼくが入れてやる」
ぞわりと全身の毛が総毛立ち、愛は真っ青に青ざめて唇を震わせた。
「や、やめ……て……」
どうにか声が出たが自分でも聞いたことのない声だった。
怖い。恐怖している。
恐怖とは、こんなにも「痛い」ものなのか。「冷たい」ものなのか。
黄金色の視線を伝って、視神経から脳へ、そして全身へと剃刀を流されているかのような激痛が走っていく。がくがくと身体が震え失禁する。白河は汚いなぁと笑いながらじいっと愛を見詰めた。
「でも止めないよ」
白河の瞳が更に輝く。愛は、旋律した。
これは悪魔だ。
悪魔の瞳だ!
ああ! 自分はモンスターなどではなかった。
本物の「モンスター」は────此処にいたのだ!
聴覚に、視覚に、凍えたノイズが走る。カチリ、と何かが頭の中で鳴った。
途端に、記憶の中の死者が鮮明に蘇る。ナイフを持っている。脳内にいる自分は裸のまま、蝶の標本のように磔になっている。現実と幻がぴったりと癒着して、自分が今どこにいるのかさえ分からなくなる。被害者たちが、殺した奴らが近づいてくる。ナイフを持っている。やめて、やめて、やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ――――
「――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
白河の手が離れ、愛は絶叫しながらその場に崩れ落ちた。
痛い。涎が垂れる。
痛い。痛い。痛い。痛い! 痛い! 痛い! 痛い!
脳味噌を包む膜が弾けて中で血潮を拭き零しているような錯覚に襲われる。眼前が激痛にチカチカと明滅する。肉体にはどこにも傷がないのに、頭の中で、殺してきた人間たちに切り開かれている。頭蓋が切り取られ、べろりと皮膜を剥ぎ取られ、ぱっくりと割れた脳をちくちくとナイフで悪戯に刺されるような恐怖。怖い。怖い。怖い。
逃げたい。
けれど、どうしたらいい。どうしたらいい。責めるように頭の中の自分を拷問する亡霊たちが言う。罪を告白しろと言う。愛は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で何度も頷き、やめて、だからやめて、とめて、と繰り返した。
けれど恐怖は消えなかった。
恐怖は肥大化し、それは愛をすっぽりと胃の中に収めてしまっていた。
意識を失いそうになる度に脳内の寄生虫のような被害者たちが愛をたたき起こした。外から聞こえてきたパトカーの音が、今の愛には救いのベルのようにも聞こえた。
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