33 「おすわり」

「――え?」


 思わず間抜けな声が、愛の喉を抜けて出てしまった。

 それは、すぐに渇いた笑いに変わった。


「白河さん。何を言っているんですか。私はただ、被害者像があてはまらないって言っただけで……前に、教えてくれたじゃないですか。この犯人は秩序型で、そういう人って被害者の好みがあるんでしょう? それで私は、この犯人は黒髪の人ばかり殺すから、だから黒髪じゃないカオルさんが殺される訳がないって言っているだけで」

「そこがおかしいんだ」


 白河は愛の目の前に立ちはだかり、そして形のよい唇で問う。


「どうしてキミが、第二の被害者である小林悠以降の被害者たちが、黒髪だったと知っている?」

「それは、だって、白河さんが言って――」


 そこで喉奥が詰まった。

 ぶわりと汗が噴き出す。白河が笑う気配がした。外では雨が降り始めたのか。窓ガラスをささやかに叩き始める。


「そう。そうだよ、北村愛。ぼくは一度だって善男以外、。キミだけじゃない。この事務所にいる全員が知らない事実だ。それをなぜ、キミは知っている?」


 雨が降る。抑えていた箍が外れそうになる。カタカタ、カタカタ、と。心の中の標本箱に磔にされた蝶々たちが、翅をばたつかせている。愛はどうしてか震える声で答えた。


「それ、は……祐子が、黒髪だったから」

「はは、酷い言い訳だね。言い訳も酷いが、やり口も酷いもんだ。キミはキミの為に、友人を理想の被害者に仕立て上げたのだから。……ああいや、正しく言えば、キミはキミとぼくの為に罪なき水橋祐子を被害者にしたんだ」


 カッと頭に血が上り、叫ぶように愛は言う。


「巫山戯ないでください、私と祐子は友だちだったんですよ……ッ!」

「ふうん。でもその友だちが死んだ時、キミは悲しいと思ったかい? 恐怖を覚えたかい? そうじゃないだろう? キミの内側に湧き上がったのは、そう――怒りだ」


 白河の琥珀色の瞳が、闇夜の中なのにはっきりと見える。まるで猛禽類のように、狙った獲物を決して逃さないように愛を見据えていた。


「キミはぼくに水橋祐子の遺体を、いやキミの作品を見せる為に、ぼくを招いたんだ。だがぼくはキミが期待したような反応を一切しなかった。だからキミはぼくに無視されているような気がして、怒りを覚えた筈だ。違うかい? キミが黒髪に染めるよう勧めたのは、水橋祐子のストーカー対策の為じゃない。自分の嗜好に合わせるためだ。水橋祐子の不幸はキミという存在だった。キミは善き友人の皮を被った殺人鬼であり、ストーカーだった。ストーカーがいるのだと、水橋祐子に思い込ませてぼくの事務所につれてきた。そしてぼくと水橋祐子を引き合わせて、依頼人にしようとしたんだ。ぼくが依頼と依頼人だけは大事にすると知っていたからね。だが、キミの目論見通りにはいかなかった。それでも一度会って依頼を断った相手が死ねば、ぼくが絶望する姿でも見られると期待したんだろう。期待して、キミはドキドキした筈だ。それこそ子どもが展覧会で親に自分の作品を見せる時のようにね。けれど残念ながらぼくはキミの作品を作品と見なかった」


 そう言うと白河はコートを脱いでカオルの遺体に被せた。まるで寒くないよう、優しさをかけているみたいに。林原はナイフを持ったまま、静かに白河の話を聞いていた。愛はそんな林原に目を向けた。

 洞のような、真っ黒な瞳。静かに揺らぐ蒼い炎が灯った、瞳。

 どこかで見たことのある瞳。

 あれは、どこだったか。どこだっただろうか――……。


「北村さんが犯人だってことは、オレ、知っていました」


 静かに、そう林原が告白した。

 愛は、


「うそ」


 と咄嗟に口にしていた。だが林原の表情は真剣そのものだった。黒い瞳の奥に揺れている、青い炎。――ああ、分かった。分かってしまった。

 あれは、小林悠の遺族である小林茜の瞳と、同じなのだ。

 愛には理解できない「感情」を持って林原は言葉を継ぐ。


「厳密に言うと、もしかしたら北村さんがそうかもしれない、と白河さんに教えられてから、白河さんに頼み込んでこの事務所に入ったんです。オレの目でオレの従妹を……最初の犠牲者である杉本花菜を殺した人間が、どういった人間か見てみたかったんです」


 杉本花菜。その名前を告げられ、愛の頭の中に過る。可憐な少女だ。その少女と林原が従兄弟だった? 信じがたくて、愛はただただ呆然とするしかなかった。

 林原はそんな愛を初めて憎しみを込めて見据えた。そんな目もできるのかと思った。少し、感心さえした。林原は口を開く。


「驚くほどアンタは普通の人間でした。普通の、可愛らしい女性でした。とても人を殺すようには見えなかった。白河さんに言われてもこの瞬間が訪れるまでは、信じ切れなかったくらいに、アンタは完璧な『普通の人』だった。……花菜を殺したとは思えないほど」


 ぐっと、林原がナイフを握ったのが分かった。けれど愛には理解できない。

 自分がこの探偵事務所に入所したのは、二人目である小林悠が死んでからだ。すべてを白河が予測していたというのなら、なぜ、殺人鬼と思わしき自分を入所させたのか?


「どうして、って顔をしているね」


 まるで心の中を見透かすように白河が言う。どこまでも、楽しげに。


「簡単な話さ。ぼくは、最初の被害者である杉本花菜の従兄にあたる、林原君から既に依頼を受けていたんだ。花菜さんを殺した犯人を知りたい、とね」


 だから、と白河は続ける。


「カオルに黒髪に染めさせて、ぼくとカオルが餌になって街を泳いでいたんだ。ぼくもカオルも容姿は申し分ないからね。地理的プロファイリングやSNS、動画サイト、求人広告も使って殺人デパートに自ら陳列されてにいったのさ。七緒が言っていただろう? ぼくの写真をネットにアップロードしたって。キミもそのアップロードされた、ぼくの動画を見たと言っていた。勿論、釣れるかどうかは賭けだったが、運良くキミは釣れてくれた。必ずキミは最終目標にはとびきり善い獲物を選ぶ筈だと思ったが、その通りだったようだ。正直キミという犯人が釣れるまでもっと時間がかかるかと思ったけれど、これは僥倖だった。ぼくはキミの尾行に気付かないふりをして求人募集の張り紙を貼り、キミがくるのを待っていた。案の定、キミはのこのこやってきてくれた。正直この段階ではまだ、確信なんて微塵にもなかったけれど、他の面接者と違う点がキミにはあった」

「違う点って」


 愛は面接時を思い返す。完璧だったはずだった。けれど白河はその完璧なる「普通」を見過ごさなかった。


「まず一つ目が、前職が保険営業だった。そして二つ目が、ぼくの『この仕事には危険が伴うこともあるが大丈夫か』という質問に対するレスポンスの速さと反応だった。普通の人間だったら今時の探偵事務所で危険なんて伴うと思わないだろう。高層ビルの窓の清掃じゃあるまいしね。けれどキミだけはすぐさま構わないと答えた。そんなことはどうだっていいというようにね。そりゃあそうだ。キミは、キミこそがサイコパスなんだから。不安や恐怖に鈍い人間。そのスイッチが無いといっても過言では無い人間。それがキミだ」


 サイコパス。

 その言葉に、愛は表情を消した。その代わりにぐっと拳に力を込める。

 怖い目だ、と白河が笑った。白河の弁舌はとまらない。


「保険営業だった、ということはぼくの犯人像に当てはまる職業だったからだ。実を言うとぼくの知り合いで元保険営業の人がいたんだ。その人曰く、保険会社のバッチとネームプレートを返し忘れても催促は二、三度程度で後は諦めたらしい。つまり、キミは保険営業を辞める時にバッチもネームプレートも返却しなかった。大手企業だ。保険営業なんて常に人員不足で、辞める人間なんてしょっちゅうでいちいち一人に構っている暇はない。まあここまでも、ここからもぼくの単なる妄想に過ぎないんだが、キミは日中も夕方もスーツにバッチ、ネームプレートをつけて『営業』という行動をした。ターゲットは予め決めておいて、どうにか家の中、まぁ玄関まで上がらせてもらえればあとはどうとでもなるだろう。杉本花菜の場合はSNSでリサーチした。今時の若者は本当にネットに対する警戒心が薄い。簡単に個人情報が割れる写真をアップロードして、世界中に拡散している。それが殺人鬼にとって良いリスト……小洒落た言い方をしてみれば『殺人デパートト』の標本になっていることにも気付かずに。そしてキミはそのSNSを利用して、親がいない時間帯を狙って杉本花菜の自宅に訪問した。高校生の年頃で、しっかりとスーツを着た、しかも有名保険会社のネームプレートを胸につけた女性が訪問すれば十中八九、キミの言葉を信じただろう。それに加えキミはサイコパスだ。人を操ることに長けていて、その話は全てでっち上げの嘘塗れだが、専門家でない限り初見で見抜くことはほぼ不可能に近い。事実、ぼくもキミが犯人だと思うまで、ここまで時間を要することになった。それくらいにキミは『人間』に溶け込んでいた」


 だが、と白河が続ける。


「想定外だったのは、二番目の被害者。小林悠だ。キミは小林茜を本当は殺害するつもりだった。だが、出会ったのは丁度ぼくと同じ背丈の若い男性。キミは躊躇しなかった。どのみち偽りの顔を見られたのだから、小林悠を殺すことは決定していた。だがキミは偏執的に黒髪に拘る殺人鬼だ。それなのに何故、今までの様式に倣って金髪の小林悠を同様の手口で殺したのか? 答えは簡単だ。キミは予行練習にしようと思った」


 そこで一拍の間を置いて、白河が告げた。


「キミは、同じ背丈、体格のぼくを殺す時の予行練習のために小林悠を同じ手口で殺害したんだ。違うかい? キミの一番の狙いは──このぼくだった」


 外の雨が強くなる。オーケストラのように、潸然と雨は降りしきる。古い、幼い記憶の中の匂いが、光景が濃密に蘇っていく。死んだ父親、美しい母親。蝶々。父と作った蝶の標本。母にプレゼントして喜んだ顔。うつくしい、わたしのりょうしん。


「沈黙は肯定と受け取るよ、北村愛」


 目の前の美しい男の瞳が、琥珀色から満月のような黄金色に変わっているように見えた。

 気付けば愛は、口を開き言葉を紡いでいた。


「つまり最初から気付いていたんですか? ――私が、殺人鬼であることに」


 雨で外界から区切られた事務所内は、静かだった。

 白河はその美しい顔に微笑を湛えていた。不釣り合いな微笑だった。


「結果的に言えば、そうだね。ぼくはキミを採用した時から、キミを疑っていた。だが、確信をしたのはキミの友人である水橋祐子が殺された時だ。キミはあの時、黒髪に染めるようアドバイスした自分の所為で、水橋祐子は殺されたんじゃないかと言った。あの発言がキミのミスだった。ストーカーと連続殺人鬼を黒髪という誰も知らない筈の情報で紐付けしてしまったのだから」

「そうですか……あの時、私はミスを犯してしまったんですね」


 でも、と愛は笑う。

 抑えていた箍が壊れた。心を黒泥が蝕んでいく。笑いが止まらない。

 なんて人と出会ってしまったのだろう!

 これを喜びと言わずに何と言うのか!


「それはつまり貴方は今までの殺人を、看過してきたということですよね? 私のことを疑っていたというのに、確信なんてものを得るまで警察にも突き出さなかった」


 そうだ。自分が他人との共感性も恐怖への減弱も含んでいるサイコパスだというのなら、目の前にいる男だってそうだ。

 それは素晴らしい、運命的な出会いだ。


「先程、サイコパスって言いましたよね? ええ、私は確かにサイコパスかもしれない。けれど白河希。貴方には言われたくない。貴方こそサイコパスじゃない。殺人鬼がすぐ近くにいるというのに、罪なき人々が殺されていくのを止めなかった。今だってそう。そこにいる林原圭佑がカオルを殺したというのに、少しも哀しみもせずに平然としている。貴方は私をサイコパスと言うけど、貴方は私と――同類よ」


 愛は口端をつり上げる。そうだ、同類だ。同じいきもの。

 知っていたというのなら尚更、残忍だと言えよう。自分が残酷な殺人鬼なら、白河希は残酷な傍観者だ。一番きれいに殺そうと思っていた相手が、自分と同種と知った喜びは、尋常ではなかった。


 けれど白河は、少しもやっぱり表情を崩してくれなかった。狼狽することも傷つくこともなく、むしろこの舞台を楽しんでいるかのように言う。


「勘違いしないで欲しいな」

「勘違い?」

「まず第一に、カオルは死んでいないし林原くんは誰も殺しちゃいない。カオル、そろそろ起き上がっていいぞ。ああ、林原くんは自衛の為にナイフは持っていてくれたまえ」


そう告げた途端、コートをかけられていたカオルの「遺体」だったはずの身体が、がばりと起き上がった。その顔は青白く見えたが、カオルは眠りから今覚めたかのようにくわっと欠伸をして白河をじろりと睨み上げた。


「おい希、ネタばらしが遅いんだよ。真冬に近い中で素っ裸で床に横たわってるの、結構キツいんだぞ。特別手当出してくれよな」


 そう言うとカオルは鬱陶しげに、自分の腹の皮を――いや、腹にひっついていた内蔵やら傷口やらをすべて剥ぎ取った。べろりとめくれたその下にあった腹は、傷一つなく綺麗だった。その光景に唖然とする愛に、白河が声を弾ませて言う。


「凄いだろう? 以前も言ったように、今の特殊メイクの技術は非常に高い。いやぁ、七緒に腕利きの特殊メイク師を探させた甲斐があったよ。勿論あんまり明るい場所だと分かってしまうが、こうも暗いと分からないものだね。ぼくもあんまりにもリアルで、一瞬本当に林原くんが犯人かと思ってしまうほどだった!」


 ははは、と悪魔的に笑う白河に、愛は困惑を隠しきれなかった。だが目の前にいるカオルは確かに無傷で、起き上がってそこにいた。


「特殊メイク? うそ、でも、この血臭は……」


 嗅ぎ慣れた匂いだ。血の匂い。間違えるはずがない。わたしの好きなにおい。何度も嗅いできた。この血の濃さは嘘ではない。

 そんな愛の困惑を見透かしたように、白河が言う。


「ああ。これはぼくが毎週欠かさず献血……のようなものをしていてね。その蓄えてきた血をぶちまけたわけだ。すべてこの舞台を作り出す為に用意したことさ。遺体役のカオルも、殺人鬼役の林原くんもね。林原くんは別にいなくても良かったんだけど、どうしてもって言うから登場してもらったわけさ。いや、なかなかに名演技だった。本当にカオルのことを殺してしまったのかと思ったくらいだ。でも、その殺意は偽物じゃないから、そりゃあ演技だって真に迫ったものになるか」


 白河はちらりと林原へと視線を送る。林原はじっと、愛を見詰めていた。愛は信じられない気持ちだった。なぜ、この男はここにいる? いや、ずっとここにいた?


「林原……林原圭佑……あなたは、何故、どうして」


 頭が追いついていかない。それでも愛は言葉を継ぐ。


「私を殺したいからこの事務所に来たの? ずっと私を殺す機会をうかがっていたの? でも何故? 何故、殺さなかったの? 大切な人を殺した殺人鬼と呑気に会話なんかして、いくらでもチャンスなんてあったはずなのに……どうして?」


 分からない。どうして人を殺すチャンスがあるのに、それを逃してきたのか。

 愛の内側に多くの疑問が湧いてくる。

 林原のナイフは外光を受け、きらりと光っていた。


「……分からない」


林原はその洞のような黒い眼で言った。


「ただ、オレはこれからお前のことを『知る』ことになる。だから、少しは自分のことも語らないとフェアじゃないと思った。それだけだ」

「私を『知る』? ただ、それだけのために? ……だとしたらあんたも異常者じゃない。平然と、殺人鬼と会話をして食事をして」


 そう。狂っている。狂っているのは自分や白河では無い。愛は林原をきっと睨み付けた。この男こそ平凡の皮を被ったモンスターだ。愛はコートのポケットに手を突っ込む。その中にある折りたたみナイフをぐっと握り込んだ。けれど標的は林原ではない。愛は視線を林原から白河へと移した。


「白河さん……あなたは違う。あなたは異常者じゃなくて、私と同じただのサイコパス。でも本当に酷いことをしますね。あなたが私を何処かで止めていれば、犠牲者はこんなにも出なかった。違う? 違わないでしょう?」


 一歩、白河と距離を詰める。林原とカオルが動く気配がしたが、それを白河が無言で制した。視線を合わせたまま愛は言葉を紡ぐ。


「本当はあなたも楽しんでいたんじゃないですか? 私が殺していくのを。あなただけは知っていた。神様にでもなったつもりで、憐れな命を俯瞰していたんじゃない? ええ、確かに私は人を殺しました。でもあなただって同罪。人殺しを止められたのに止めずに見ていた。ただ、見ていたんだから! わたしとおそろいのサイコパス!」


 雨がざあざあと降っている。耳障りだった。雨音が愛を過去へと連れ出そうとする。けれどそれに引きずられまいと、愛はコートの中でそっと折りたたみナイフを広げた。白河の目の前に立ち、少しだけ見上げる。長い睫毛に縁取られた琥珀色の瞳は、冷ややかな鉱物のようだった。その白河の恐ろしく端正な顔が微笑をつくった。


「キミはもう一つ、勘違いをしている」

「……勘違い?」

「ああ、そうだ。ぼくは最初から言っている。ぼくは正義の探偵でも警察でも何でも無い。ただの探偵事務所の経営者だ。そしてもう一つ。ぼくが絶対に守るのは依頼者の依頼だけだ。あとのことはどうだっていい。そもそもキミが殺人鬼である、という証明の確率を高める為に時間が必要だった。他の被害者が出たのはぼくの所為じゃない。だってキミが殺したんだからね。人に妙な罪をなすりつけないでくれ」


 白河は笑っている。

 この状況で、笑っているのだ。

 何人も人が、目の前にいる愛の手によって屠られてきたというのに。白河にとってはチェスのようなものなのかもしれない。

 

 チェックメイトをかけているのは、勿論白河だ。

 

 本当に、心の底から白河希という人間は「依頼」以外はどうでもいいのだ。

 どうでもいいと切り捨てられる、サイコパス。


「何度も言うがぼくは探偵じゃない。正義のヒーローでもない。善人でもない。ただ引き受けた依頼を守る、それだけの存在さ。殺人鬼であるキミを捕まえるのは警察の仕事だ。ぼくじゃない。ただ、殺人鬼を『知る』ことはぼくの仕事だ」

「何を言って……」


 訳が分からない。そういえば最初から――あの小林茜との依頼のやり取りも、奇妙だった。殺人鬼を「知る」ことに、一体何の意味があるというのか。そもそも、もうこうして白河は愛が連続殺人事件の犯人であることを「知った」。これ以上、何があるというのか。

 雷鳴がとどろく。窓ガラスに打ち付ける雨の音が、うるさい。


 うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。


 せめて、と。愛は目の前の男が欲しいと思った。白河希。最終目標である獲物が、すぐ手の届く場所にいるのだ。もう距離は十分詰めることができている。


 喉を切裂き、その血を浴びるくらいはできるかもしれない。それを考えたら――やはり腹の奥が、子宮が熱くなって、酷く興奮するのが分かった。


 愛はポケットの中で広げた折りたたみナイフを強く握った。一歩、踏み出して切りつければいい。この完璧な、うつくしい人間に傷をつけたい。心臓が鼓動している。歓喜しているのだ! ああ、その血潮をいっぱいに浴びさせて! 愛しい初恋の人よ!

 愛は足に込めて一歩踏み出し、ポケットから素早くナイフを取り出して振り上げた。

 その時。

 白河の琥珀色の瞳が――満月のような黄金色に変わったのが、見えた。



「――おすわり」



 そして、その四つの文字だけで。

 白河の唇から発されたそれを聞いただけで、愛の足は力を失い、ガクリと膝から崩れ落ちた。

 手からナイフが転げ落ち、硬質な音を立てて床に転がる。雨の音が騒がしい、騒がしい。ノイズのように愛の皮膚から内側へと浸食してくるようだった。

 

 夜の闇のなかで白河の双眸だけが爛々と輝いているように見えた。


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