32 殺人鬼

 喫茶店には何だかんだ長居をしてしまったようで夜の9時半を過ぎていた。

 白河探偵事務所に戻ると点灯したまま外出した筈なのに、二階の事務所の明りは外から見ても真っ暗になっていた。その異変に気付いたのか。おや、と白河も声を上げる。


「出て行く時、電気を消した覚えはないんだが」

「そうですよね……なんでしょう。停電とか電球が切れたとか……?」


 しんと静まりかえった暗い白河探偵事務所は、石棺のように愛たちの前に冷たく佇んでいた。寒いと感じたのは晩秋の夜ということだけではないだろう。胸騒ぎというのだろうか。見えない冷たい手が、心臓を摩って、今にも押し潰そうとしているようだった。


「……行くぞ」


 隣の白河が真剣な表情で二階から視線を外し、従業員用の玄関ドアに手をかけた。それは施錠してあった筈なのに簡単に開いた。キィ、と女の悲鳴のように鉄色の扉が開き、暗い廊下へと出る。リノリウムの床に、微かな外光が差し込んで反射し、沼の水面のように仄かに光っていた。バタン、と扉が背後で閉まる音がやけに大きく響く。白河のコートが揺れ、そのすらりとした足が事務所を目指す。ステッキで床を叩く音がコツン、コツンと反響し、その音が愛の鼓動を更に強めていった。痛いほど鼓動している。こんな感覚は生まれて初めてだった。


 二階の事務所の扉前に辿り着く。「白河探偵事務所」と刻まれた金色のプレートが鈍い光を放っていた。白河がドアノブに手をかけ、回す。


 かちゃりと音がして、ゆっくりと扉は開かれていった。

 扉を開いた瞬間、冷たい空気と生臭い――いやこれは嗅いだことのある匂いだ。濃い血の匂いがぶわりと広がった。


 人が立っている。その手にはナイフが握られていた。

 ぴちゃん、ぴちゃん、と滴る音が聞こえる。ここから見るとその雫は黒く見える。けれど色を見なくともそれが何色をしているか、愛には分かってしまっていた。


 隣の白河が足を一歩前に踏み出す。するとその音に反応して、立っていた人物がゆっくりと振り返った。


 あの、洞のような瞳がこちらを見ていた。


 白河が口を開く。


「……林原くん」


 そこにいたのは――林原だった。

 白河探偵事務所に新たに入ってきた青年。林原圭佑。


 その表情は、何もなかった。ただ瞳だけが爛々と光っていて、いつかどこかで見たような感情の炎が静かに揺らいでいた。足元には液体が、いや、血だまりが広がっている。窓から差し込む外灯の光が、黒に近い赤を照らし出していた。


 血だまりの中心には裸体の女が、いた。

 長い金髪を床に横たえ、美しい容貌をさらした女は――カオルだった。

 手首と足首を結束バンドで拘束され、柔い腹は切裂かれ、釘打ちされていた。赤い蝶のように。赤い血と濃いピンク色の内蔵が見えていた。 


 整ったその顔は穏やかだった。目は瞑り、唇は微かに開いている。血で、青ざめた唇が僅かに濡れている。長い睫毛が影をつくっている。


「カオル」


 白河がその名前を呼ぶ。だが、応答はない。林原はこちらを見ている。白河は林原を見据えた。琥珀色の瞳で鋭く見据えていた。


「これは、キミがやったのか?」


 静かな問いだった。

 林原は眉一つ動かすに答えた。


「そうです。ぼくがやりました」


 認めた。

 愛は、愕然とした。

 嘘だと思った。


 林原がこんなことをする必要がない。

 どうして、と愛は思った。訳が分からなかった。

 状況に追いつけない愛をよそに、白河が問いを重ねた。


「連続殺人鬼の正体も、キミか?」


 ぽたり、と。赤い血の雫が落ちた。静謐が広がった。

 林原の薄い唇が動いた。


「そうです」


 愛は今度こそ、頭が真っ白になった。


 どういうことか分からなかった。

 何故、という問いが頭の中を輪転する。

 けれどその問いは喉の奥に詰まって出てこない。

 

 白河は林原へと近寄る。一歩ずつ、一歩ずつ。相手はナイフを持っているというのに、少しも恐れている様子などなかった。白河は立ち尽くす林原と、血の海に横たわるカオルとを見た。それから暫くカオルの遺体を見下ろし、深く溜め息を吐き出した。


「成る程……確かに手口もこれまでの殺人鬼と同じだ。裸にされ、手首や足首を結束バンドで拘束して、腹を切裂いて――蝶のように釘止めしている」


 あんなに近しかったカオルが死んだというのに白河は眉一つ動かさずに淡々と、目の前の光景を言葉にした。それこそいつか祐子が死んだ時に、検分したように。


「そうか」


 白河は静かに言った。


「キミだったのか」


 問いではなくそれは確認だった。そしてその確認に対して、


「そうです。全部、オレがやりました」

 

 林原はそう答えた。


「どうして殺した?」


 白河が詰問するように問えば、林原は視線を下に向けた。それからまた、視線を持ち上げた。愛と視線が合った。

 黒い泥濘のような、真っ黒な瞳だった。


「ただ殺したかった。それだけです。それ以上に理由など必要ありますか? オレは、ただオレである為に殺したかった。だからこうした。絶対にこの感情を否定することなんてできません。だって、オレは――」

 

 もう愛は黙っていられなかった。


「――待ってください!」


 静かだった空気が壊れるのを感じた。

 林原と白河がこちらを見る。

 鼓動が早くなる。

 口の中が渇いていく。

 それでも愛は言葉を続けた。


「林原さんがこんなことする訳ないじゃないですか! それに、この、カオルさんだって……例の連続殺人鬼の仕業じゃないですよ!」


 その愛の発言に林原が微かに目を見開く。

 白河は怪訝そうに眉根を寄せた。


「しかしこうして林原くんが自供してくれている。そもそもどうして、カオルを殺したのが例の連続殺人鬼じゃないと言えるんだい? 手口は同じだ」


 ほら、と白河はカオルの遺体へと視線をやる。愛は声を震わせた。


「白河さんも気付かないんですか?」

「気付かないって何の事だい?」


 益々不可解だというように眉間にシワを寄せる白河に、


「だって、!」


 愛はカオルの遺体を指差して叫ぶようにして言った。


「カオルさんは金髪じゃないですか! !」


 刹那、水を打ったような静寂が広がった。

 愛はその沈黙の海を必死に泳ぐように言葉を継ぐ。


「今までの被害者たちだって黒髪だったじゃないですか。二番目の、小林茜さんの弟さんだけは違ったけれど……犯人が秩序型なら、金髪のカオルさんを殺す筈がない! それに林原さんにはカオルさんを殺す動機なんて、」

「──今、何て言った?」

「え?」


 愛は声を遮られ、戸惑いに言葉を止める。白河が繰り返す。


「今、何て言ったかとぼくは聞いたんだ」

「えっと、その……カオルさんは金髪だから、被害者像にあてはまらないと思うんです。だって、被害者たちは黒髪の人達ばかりだったじゃないですか。だから」

「だから、


 白河がようやくそこで表情を緩めた。

 ぞっとするくらい優しく、美しい微笑だった。


「そう、キミの指摘は正しい。北村愛。キミの主張は百パーセント正しいものだ」


 だが、と白河は目を三日月のように細めた。


「――此処に、例の連続殺人鬼がいる」


 白河がステッキでカツン、と床を叩く。

 静寂が細波立ち、愛の声帯が自然と震えた。


「ここに、ですか……?」

「ああ、そうだ。北村愛」

 

 白河はすっとステッキを持ち上げた。

 そしてその矛先を――愛のほうへと向けた。

 白河の琥珀色の瞳がまっすぐに愛を射貫いていた。



 死刑宣告でもするかのように、けれど心の底から楽しげに、白河は告げた。


「北村愛。キミが──連続殺人鬼だ」


 雨がぽつり、と落ちたような気がした。

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