31 ノックスの十戒

 十一月も終わりに差し掛かり、寒さが益々厳しくなってきていた。

 愛はその日、大量の事務処理を抱えて残業をしていた。

 山崎さんがどうやら風邪を引いてしまったらしい。カオルと七緒は浮気調査を続行し外出しており、林原は猫探しに奔走しているようだった。平和といえば平和だった。カオルはちらりと時計を見る。もう夜の七時を過ぎていた。


「新人」


 不意に白河に呼ばれる。いい加減、その呼び方もどうかと思うのだが、一目惚れの効力は今も有効らしい。呼ばれただけで胸が高鳴ってしまう。


「はい、何でしょう」

「少し休憩しようじゃないか。ぼくの行きつけの喫茶店がすぐ近くにあるんだが、そこで軽く夕食を済ませよう」


 意外な誘いだった。驚きのあまり、ぽかんと口を開いてしまう。するとその反応がお気に召さなかったのか。


「なんだ、他に予定でもあったか? それなら、」

「いっいえいえいえ! ないです! ぜひ!」


 慌てて愛は立ち上がる。白河は「そうかい」と言うとステッキを手に、コートを纏った。黒いコートを羽織った白河は、男装の麗人のようにも見える。見惚れそうになったが、白河が「行くぞ」とすぐ歩き出したので愛も慌てて続いた。

 白河が言っていた喫茶店は確かに白河事務所から近かった。徒歩五分もない場所の、住宅街の奥まった場所にひっそりと店は佇んでいた。こぢんまりとした古い店は、昔の喫茶店といった感じで、木製の立て看板には「喫茶シャーロック」と書かれていた。白河曰く、店主が大のシャーロック・ホームズ好きとのことだった。


 喫茶店内は暖色系の明りで灯されていて、古い猫足テーブルや天鵞絨が貼られた椅子が、何とも言えず洒落ていた。まるで過去に秒針を戻して止めたような、そんな不思議な空間だった。普段カフェに行くことがあっても、こういった昔からやっているような喫茶店に入ったことのなかった愛は、思わずあたりをきょろきょろと観察してしまった。


 店内はオルゴール箱のような長方形で、奥には立派な百合型のスピーカーがある。黒い円盤――レコードだろうか。それを白髪を撫で付けた老店主がセットし、針を落とすとスピーカーからクラシックが流れ始めてきた。店は夕飯時とあってか繁盛しており、空席はちょうど二人分だけしかなかった。白河は迷いなく空いた窓際の席に座ると、ステッキを壁にたてかけコートを脱いだ。脱いだコートは傍らにあったコート掛けにかける。愛もそれに倣ってコートかけにコートをかけ、椅子に座り直した。ステンドグラス調の窓から見る景色は、まるでこちらとあちらの世界を隔てる摩訶不思議な窓のようだった。


「いらっしゃいませ。希くん」


 黒いベストに腰エプロンを着けた老店主が注文をとりにきた。鼻は高く、老眼鏡の奥の瞳はよく見ると深い緑色をしている。顔立ちも西洋の血を感じさせるので、おそらくハーフなのだろう。白河はそんな老店主に「こんばんは」とにこやかに応じる。


「相変わらずここに雰囲気は良いね。実に良い。そうだな、今日はナポリタンと紅茶を頼もうかな。新人、キミはどうする?」

「あ、じゃあ私も同じもので」


 愛も同じものを頼むとにこりと老店主は微笑んだ。


「かしこまりました。お飲み物はいつもどおりお食事より先に?」

「ああ、頼むよ」 


 メニューを閉じた白河が言うと老店主は「それではお待ちください」と言ってカウンターに戻っていく。すらりとしているから分からなかったが、比較的背の高い男性だ。

 紅茶が来ると、愛はまず一口、口にした。香りがふわりと口の中で広がって、まろみのある柔らかい味が喉から胃へと落ちて広がっていく。


「美味しい」


 そう言うと白河は当然だというように「そうだろう」と言った。白河もまた紅茶に口をつける。その茶器を持ち上げて口まで運ぶ動作さえ、どこか品があって所作がきれいだ。普段机に脚をのっけてふんぞり返っているとは他の人は思うまい。


 店内は静かすぎず、かといってうるさくはなく、心地よい談笑の声がクラシックに交じって聞こえてきていた。流れている音楽はどこかで聞いたことのある曲だった。少しこの喫茶店の雰囲気とは合わない、女の悲痛な叫びのような、オペラの曲。


「この曲、キミは知っているかい?」


 心を読んだかのように尋ねてきた白河に愛は首を振る。


「いえ、知らないです。何て曲なんですか?」

「プッチーニの歌劇『蝶々夫人』の『かわいい坊や』……ああ、『蝶々夫人の死』ともいわれているね」


 蝶々と言えば、と白河はちらりと視線を斜め上へと向けた。視線の先、壁には標本ケースが掛けられていた。青、赤、白、黄、緑と色々な蝶が飾られていた。


「ここには蝶の標本があるけれど……」


 ぐるりと白河は見渡してから愛へと視線を戻した。


「蝶の標本。キミは好きかい?」


 琥珀色の瞳がじっと見た。こういう暖色系の明りの下だと上質な蒸留酒のようだ。


「はい。綺麗だから好きですね」


 正直に愛が頷くと、白河はふっと微笑んだ。


「そうか。奇遇だね。ぼくも好きだ」


 共通項が見えて嬉しく思いつつ、愛は尋ねる。


「どうして白河さんは好きなんですか?」

「キミと同じさ。綺麗だからね。――死んでいるけれど」


 そう言う白河は少しも笑顔の形を崩さなかった。

 死んでいるけれど美しい。確かに、標本はそういうものだ。


「お待たせしました、当店自慢のナポリタンです」


 ことりと、スパゲッティの乗った皿と小さなサラダが目の前に置かれる。鮮やかなグリーンのピーマン、肉厚なベーコンと透き通って色付いた玉葱、それからケチャップ色に染まったパスタ。香ばしく食欲をそそる匂いが鼻腔を刺激し、じゅるりと唾液が出る。


「美味しそうだろう? キミも食べるといい」


 そう言うと白河は、いただきます、と言ってカトラリーを手に取った。愛もいただきますと言ってサラダからつつきはじめる。瑞々しいレタスやキュウリ、ボイルした鶏胸肉と赤いプチトマトはオリーブオイルとバルサミコ酢で和えてあった。他にも何か入っているのか、口に入れると良い香りがして舌を愉しませる。前の白河を見るといつの間にか、とっくにサラダを平らげてパスタの方へと手をつけていた。


 お互い特に会話もなく食事を続ける。食べながら愛は、あとどのくらい仕事が残っていたかを考えていた。今日はいい日だ。なにせ白河とふたりきり。しかも晩餐まで一緒にできるなんてと内心、愛の心は浮き足立っていた。白河のほうも白河のほうで、何か良いことでもあったのか、機嫌良さそうに食事を楽しんでいた。

 そしてナポリタンをお互いに平らげたときだった。


「そういえばキミは【ノックスの十戒】というものを知っているかい?」


 唐突な問いは聞いたこともない単語だった。


「ノックスの十戒? いえ、聞いたこともありませんね」

「ぼくも知らなかったんだがね。この前、推理小説を書いている知人と会った時に聞いたんだ。ノックスの十戒というのは、ロナルド・ノックスが一九二八年に『探偵小説十戒』で発表した、推理小説を書く際のルールのことなんだ。まぁ当の本人であるノックス自身、も十戒を破った作品を発表しているから、お遊びで作ったものなのかもしれないけれど、その十戒というのが、


 1、犯人は物語の当初に登場していなければならない

 2、探偵方法に超自然能力を用いてはならない

 3、犯行現場に秘密の抜け穴・通路が二つ以上あってはならない

 4、未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない

 5、中国人を登場させてはならない

 6、探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない

 7、変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない

 8、探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない

 9、サイドキックは自分の判断を全て読者に知らせねばならない

 10、双子・一人二役は予め読者に知らされなければならない


 ――というものなんだ。サイドキックというのは探偵の助手となる存在、つまりシャーロック・ホームズでいうところのワトソン君になるね」


 そこまで言うと白河は紅茶のカップを手に取った。一口、白河が飲むのを見届けてから愛は疑問を投げかける。


「中国人を登場させてはならないというのは、一体どうしてなんですか?」

「中国人というより東洋人全般のことを言うんじゃないかなぁ。兎に角、当時は東洋人は怪しげな東洋の魔術を使う……つまり人ならざる力を持つと考えられていたから、探偵小説からは出禁になったんだろうね。おそらく、だけど。 ぼくも詳しくは知らないんだ、知っているフリをしているようなものさ」


 そう白河は言っていたが、愛は十分に白河は色々なものを知っているように思えた。この人の頭脳、心をのぞけたらどんなに面白いだろう。


「でもノックスの十戒の中でぼくが意外に思ったのは、『』という文言がなかったことかな」


 紅茶のカップを下ろした白河が言った。その言葉に思わず愛は白河を見遣る。


「それは……そもそも探偵が犯人になっちゃ、物語が成立しないからじゃないですか? だって探偵は主人公でしょう?」

「そうかな? 読み手が勝手に主人公だと思っているだけで、本当は、他の誰かが主人公の可能性だってある。他の誰かが探偵だという可能性だって十分にあるだろう? まぁ、さっきも言った通りこんな十戒はノックスの遊び心にすぎないだろうけど」


 でも、とかちゃりとソーサーにカップを置いた白河が、声を潜めて言う。


「正義の味方なんて、どこにもいない。完璧に穢れのないものがないように。あのシャーロック・ホームズだって麻薬に溺れていた。ぼくも、キミも、他の皆も不完全なものだ」


 不完全。

 そう言われても、どうにも納得できなかった。


「私は」


  蝶の標本を一瞥してから愛は告げる。


「それでも完璧にきれいなものを知っています」


 それをあなただ、なんて言えやしないけれど、愛は真っ直ぐに白河を見詰めた。

 白河はその視線を受け止めて、ふふ、と蠱惑的に笑った。ぞくりと背筋に何かが走っていった。それが恐怖というものなのか、何なのか。愛には理解ができなかった。


「そういえばキミに聞きたいんだが、例の連続殺人鬼についてどう思う?」

「どう思うと言われても……」


 困ると愛は内心思った。

 岩垣のように刑事でもなければ、白河のように博識でもない。

 けれど白河は愛に特別な回答を求めているわけではないようだった。


「難しく考えなくていい。キミが感じている、そのままを言ってくれたらいいんだ」

「そのまま、ですか」


 愛は少し考えた後、答えた。


「そうですね……普通の人、なんじゃないでしょうか?」

「なるほど。普通の人、ね」

「はい。それこそ白河さんが以前言っていたように、私たちが過ごしている日常生活に巧妙に潜んでいられるほど、普通で在り続けられる人。おそらくですけど、そんな犯人にとって殺人も日常の一部なんですよ。だから良心の呵責も何も無い。私たちがご飯を食べて、それから後片付けをするように、殺人をして後片付けをする」

「食事に例えるのは面白いね。でも確かにキミの言う通りだ。ぼくもその意見には賛同するね。犯人にとって食事やセックスと同じようなものなんだ。殺人は」


 セックスと恥ずかしげも無く言えるのは、白河にとってそれは含蓄ない単語だからだろう。白河は、白河希という人は時々、自分と似ているところがある気がした。その反面で愛が想像もつかないような「何か」を持っているようにも思えた。


 ――「探偵は犯人になってはいけない」。


 白河が言った言葉を反芻する。ちらりと、白河を盗み見る。その美しい瞳は、今は外の空模様を気にしている。そういえば夜は雨が降ると言っていたね、と言う白河に、そうでしたっけ、と愛は適当に相づちを打った。

 犯人が探偵になってはいけない、という記述の無かったノックスの十戒。

 ならばこの連続殺人事件に於いて、十分に白河が犯人であるという可能性は出てくることになる。

 勿論、愛はそんなことはあり得ないと知っている。

 けれどもしも、万が一そうだったらと想像すると、今自分は殺人鬼と食事をし談笑しているのかと不思議な気持ちになった。

 白河の方は、何を考えているのだろうと愛は思う。祐子の死に出くわした時の白河を思い出す。あの時、白河は何の反応も示さなかった。目のお前の凄惨な遺体を前に、そこにただ「死」が転がっているように扱った。


 ――あれは、許しがたかった。


 けれど愛には何も言えなかった。白河を責める権利などどこにもなかった

 何故なら祐子が死んだ原因は、自分にあったからだ。



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