29 ターゲット

 日に日に夜が訪れるのが早くなっていた。時刻は夜の十時半を過ぎたころだった。

 まだ明りが灯った白河探偵事務所に岩垣が赴くと、その日は珍しくカオルもいた。


「あっガッキーじゃん。おつかれー」


 カオルは軽い調子で挨拶してくる。しかも、床に寝っ転がったまま。岩垣は猫のように床に寝っ転がるカオルを見て、眉を潜めた。


「カオル。お前、床に寝っ転がって何してんだ?」


 岩垣が訪ねてみるとカオルはぱっちりとした瞳で白河を見てから、


「あいつの悪趣味に付き合っていただけ」


 と答えた。全く意味が分からない。遂にカオルはソファを座る権利さえ奪われたのだろうか。毎度毎度ソファに寝っ転がっては、白河に蹴落とされていたカオルの姿を思い出し、よくもまあ懲りないなと岩垣は感心さえしてしまっていた。


「なぁー希ぃ、もう帰っていいかー?」


 うんざりしたような声でカオルが問えば、読書していたらしい白河は顔を上げる。


「なんだ、まだいたのか駄犬。すっかり存在を忘れていた」

「てめーなァ、ほんっとに嫌ァな男だな……」


 舌打ちすると共に身体を起こしたカオルが、不機嫌を露わにモッズコートを羽織った。きらきらと長い金髪がさらりと揺れる。一房、黒い毛が混じっているのを見て思わず岩垣はむんずと髪を掴んでしまった。いたっ、と言われて慌てて離すと唇を尖らせたカオルが頭をさすりながら文句を言う。


「なにすんだよガッキー。髪はオンナの命なんだぜー」

「い、いや悪かった。ただ何で黒髪が混じってんだ? 最近のおしゃれってやつか?」

「ああ、これかー」


 カオルは一房黒髪を摘まんでからまた白河をじろりと見て、


「これもあいつの悪趣味に付き合った名残りみたいなもんだよ」


 と答えた。本当に、さっぱり岩垣には理解できなかった。どちらかに説明を求めようとしたが、カオルは「それじゃお先に~」と言ってさっさと帰ろうとする。だがそれを白河が引き留めた。


「おい駄犬。待て」

「あ? なんだよ」


 ふくれっ面で振り返ったカオルに、白河は読書したまま告げた。


「電話してぼくの家の迎えを下で待ってろ。一人で帰るな。いいな」

「……はいはい。分かりました分かりましたー。私の飼い主は心配性なことで」


そう言うと今度こそカオルは事務所の扉を開き、去っていった。バタン、と閉じた扉の音の後に静寂だけが残った。下から微かにカオルが電話している音が聞こえてきていた。

 岩垣はソファに腰を下ろすと白河に尋ねた。


「おい、お前。カオルにまた何か妙なことをしてるんじゃねぇか?」


 読書の姿勢のまま白河がこちらを一瞥し、深い深い溜め息を吐き出した。


「その言い方はやめてくれないか。あの駄犬は駄犬だが、ここの従業員でもある。それなりに手伝ってもらうことはあるが、危険からは遠ざけているつもりだよ」


 確かに先程も迎えを寄こすようなことを言っていた。だがさっきの、床に転がるような真似をさせていたのは一体なんだったのか。髪のことだってそうだ。岩垣は疑問をぶつけるべく口を開きかけるが、それを白河の言葉が制した。


「善男。キミはこの犯人がサイコパスだと思うかい?」


 サイコパスという単語に岩垣は開きかけた口を閉じる。岩垣が想像するサイコパスといえば、それこそ冷酷な殺人鬼だ。残虐なふるまいができる、人間の皮を被った悪魔――というのをどこかで見たことがあった。あれは何かの映画だっただろうか。


「そりゃあ、サイコパスなんじゃねぇか?」

「ほう。それはどうしてそう思うんだい?」


 問いを問いで返され、岩垣は黙する。

 どうと言われても、と思いながら再度口を開く。


「サイコパスっていったらあれだろ。残酷なことも平気でしちまうヤツで、そこに良心の呵責とかがないとかで……兎に角! 今回の連続殺人犯に当てはまるだろ? あんなことが出来ちまうんだからよ」


 岩垣が言えば、白河は成る程と鷹揚に頷いた。


「それじゃあ善男。キミは殺人鬼は皆、サイコパスだと思うかい?」

「そうなんじゃねぇか? おい、お前は一体何が言いてぇんだよ」


苛立ちを含ませてみれば、すまない、と少しも悪びれた様子もなく白河が笑う。


「ぼくもキミと、半分は同意見だ。今回の連続殺人の犯人はサイコパスだろう。己の利益や快楽のためなら他人を陥れることも殺すことも厭わない人間だ。平気で嘘を吐き、騙すということに後ろめたさも何も感じない。サイコパスの特徴はいくつかあるが、中心にあるのは良心、共感性の欠如だ。ハーバード大学の心理学者もそう言っているようだね。例えばそう……ぼくらは美しい音楽を聞くことができるね?」


 言いながら白河は事務所に置いてあるオーデョオデッキを操作し音楽を流す。それなりに立派なスピーカーから流れてきたのは岩垣でも知っているベートーヴェンのピアノソナタ「月光」だった。静かで、暗い夜を思わせる曲調だと岩垣は感じる。

 白河はその音楽に耳を傾けながら、言葉を継いだ。


「そう、こんな曲を聞いていると、ぼくたちは色々なことを思うだろう? きれいな音色だとか、このピアニストには癖があるだとか。けれど聾者の方はこの曲を聴くことができないし感じることもできない。それと同じようにサイコパスも、良心や共感を感じる機構が欠如しているんだ。だから彼等は人をチーズでも切るように平気で傷つける。だが、殺人を犯す者すべてがサイコパスであるというのは間違いだ。サイコパスの中には犯罪のはの字にも掠らないくらい、ぼくたちと同じように生活している者もいる」

「俺たちと同じように……?」


 想像もできなかった。だがその想像を補填するように白河が続ける。


「そう。本当かどうかは分からないけれど、企業のトップに立つような人間もサイコパスが多いと言われているよ。彼等は人を操るのが得意で、一見魅力的な人間に映る場合があるからね。以前にも言ったけれどジョン・ウェイン・ゲイシーがいい例だね。彼は殺人という一点を除けば、完璧なサイコパスの模型と言えただろう。子どもに好かれやすく、夫婦仲も良好。チャーミングな人間だ。善男。キミの周りにもいるんじゃないか? そういう人間が。ぼくの周りにもいるかもしれないし、実際に存在する。だが、サイコパスであると分かったとしても、殺人本能があるかどうか。見抜くことは極めて難しい。残念なことにぼくらは心に関しては盲目だからね。……いや、ぼく以外は盲目なんだな」


そう言った白河の瞳が伏せられ、長い睫毛の影ができる。その愁いを含んだ表情が、月光のメロディーと重なる。けれどすぐに白河は視線を上げると微笑をつくった。


「すまない、話を戻そう。さっきも言った通りサイコパスの殺人鬼は勿論いる。けれどサイコパスでない殺人鬼もいる。冷酷な殺人鬼をすべてサイコパスだとイコールで繋げるのはよろしくない考え方だ。ただ反社会的気質を持った人間による殺人というのもある。後者の場合は不安や恐怖に対するスイッチが、ぼくたちと同じく機能していると言える。けれどサイコパスはそのスイッチが無い、もしくは機能しないと言って良い」

「不安や恐怖が機能しねぇって、そんな人間にいるのかよ」


 信じられないとばかりに岩垣が言えば、白河が苦笑する。


「ああ、少し大げさに言いすぎたね。すまない。厳密に言えば、サイコパスは恐怖感情が減弱しているんだ。脅威刺激に対する反応が弱い。恐怖や不安は人間のストッパーだ。けれどそれが他人よりも酷く脆弱であるサイコパスは、己の脅威にも関心がないんだ。だからこそ、彼等は恐れることなく淡々と人を殺すことができる」 


 ぷつり、と白河の指先がオーディオのスイッチを止めた。静寂が広がっていく。その静寂の湖にぽつりと、雫を落としたのは白河の問いだった。


「どうして人間は人間を殺すのだろうね」


その根源的な問いに思わず白河を見遣れば、白河は困ったように笑って言った。


「いや不毛な問いだというのは重々承知しているさ。ただ、ぼくらは皆、幸せになる権利があるというのに、誰かの幸福は誰かの不幸になる。誰かの不幸は誰かの幸福になる。その幸福が歪な形であったとしても、ぼくは、いや、人間社会に生かされているぼくたちは否定しなければならない。言い方は悪いが、異分子は処分しなければならない。それこそ身体に異物が入ったら排除しようとする生理的機構のように。社会というのはひとつの巨大な人間なんだとぼくは思う。でもその中で、人を殺す人は絶えない。絶えないのは、人がどうしようもなく人だからなんだ。そういった人を全面的に否定していいのだろうか? それは人という存在否定にならないだろうか?」


 そこまで言うとふうと白河は吐き出した。


「勿論ぼくは悪人が嫌いだ。だがその悪はぼくの中にもある。この悪自体は否定できない。いつもぼくは思うんだ。善男。彼のことを覚えているだろう?」

「……ああ」


 善男は重々しく頷く。彼、というのはもうこの世にいない青年のことだ。この白河探偵事務所にいた青年だ。利発で、愛想が良くて、誰からも好かれて本当に素晴らしい人間だった。ただ一点――殺人鬼だったということを除いて。

 青年が逮捕されたのは誰のせいでもない。自業自得だ。

 ただ青年を死に近しい状態に追いやったのは白河だった。


「彼は典型的なサイコパスだったのか、それとも善人でありながら殺人鬼だったのか……彼の心を視たぼくにも、今でもよく分からないんだ。笑ってしまうだろう? 後悔しているんだよ、ぼくは。ぼくが彼を殺したようなものだからね。だからそういう意味ではぼくも彼と近しく、人殺しといっていいだろう。それならいつ、ぼくにその断罪は来る? ぼくはこの人間社会の中の壊疽に違いないのに」


そう告げた白河は、過去の亡霊に取り憑かれていた。青年の名前を出さないのが、その何よりの証拠だった。まだあれから二年しか経っていないのだから、仕方ないのかもしれない。けれど、と岩垣は溜め息と共に白河へと言葉を放った。


「お前がまた面倒くさいことを考えているのは分かった。だがてめぇの理屈で、てめぇが殺人犯だというのなら、俺は殺人幇助罪で問われるだろうな。だから俺の立場で言わせてもらえば、そんな女々しいことを言う事自体が許されねぇ。断罪だのなんだの言っているが、俺は遺族の為の正義を貫いていると思ってやっていることだ。後ろめたさなんて感じていた方が卑怯だと俺は思うね」


 岩垣には小難しいことはよく分からない。ただ己の信念を貫くことが一番だと考えている。だから正しさだとか、そういう尺度ではなく、自分の尺度でこれまで行動してきた。どんな冷酷な殺人鬼に人権はある、と。そう叫ぶ人間たちもいる。その存在や主張を壊すことはできない。ただ、岩垣はそれとは反対の立ち位置にいる。それだけだ。

 白河は、岩垣のそんな言葉にやれやれと溜め息を吐き出した。


「善男。確かにキミの言う通りだ。悔しいが、今のぼくの話は自己保身に過ぎなかったね。我ながら情けない。よりによってキミにそんなことを指摘されてしまうとは」


組んだ手の上に顎をのせ、にやりと白河は笑う。その琥珀色の瞳をきらきら輝かせてこちらを視るものだから、つい視線を逸らして岩垣は頭を掻いた。


「あー、希。それより俺を今日呼び出した理由は何だよ? さっきのくだらねぇ話を聞かせる為だったらぶっ飛ばすからな」


凄みをきかせて言ったつもりだったが、白河には矢張り全く通用しなかったらしい。白河は立ち上がると、まさか、と笑って答えた。


「善男。悪いがキミには今日、ここで泊まっていってもらう」

「はあ? 何でだよ」

「警備してもらいたい」


 その予想外の申し出に、岩垣は訝しげに顔を歪めた。訳が分からない。いつものことだが、どうしてこの男はこんなにも突拍子がないのだろう。


「あ? 警備? 何からだよ」


 問えば白河は淀みなく答えた。


「勿論今、巷を騒がせている殺人鬼からだよ」


 思わず岩垣は白河を見た。

 白河希という男が、うっそりと微笑んだ。

 誰もが魅了されるような、うつくしい顔で。


「次のターゲットはおそらくだが、そろそろ──


 そう言うと白河は三階の居住スペースへと向かって、微笑を残して消えていった。

 岩垣はその時、ほんの一瞬だけ、背筋から這い寄るような恐怖を覚えた。

 だって、白河は笑ってみせたのだ。殺されるかもしれない、というのに。

 少しの恐怖心もなく、平然と恐ろしいことを常に言ってのける。

 長年付き合ったこの幼馴染みこそが、サイコパスなんじゃないか――などと思ってしまうくらいに困惑した。


 もしも、と岩垣が考える。

 もしもこれまで見てきた「白河希」が、全てが嘘だったら?

 殺人も厭わぬ、善悪に盲目な、うつくしい化け物だったら?


 もし、万が一。


 白河希という人間が殺人鬼だとしたら――それは間違いなく、殺人界のカリスマになり得る存在となるだろう。


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