23 雨が呼び起こす感情

 扉を開いたのは、七緒とカオルだった。二人とも長時間張り込んでいたのか、随分疲れた様子だった。

 七緒やカオルといった美人では探偵は不向きのように思えるのだが、案外そうでもないのかもしれない。事実、二人とも普段よりも地味な恰好で伊達眼鏡もかけていた。それを鬱陶しげに外してカオルが「つっかれたー」と応接間に行こうとする。慌てて愛が止めた。


「あ? なんだよ新人」

「あの今はちょっと……」


 と愛が言いながらちらちらと応接間の方を見ると、夫人の啜り泣きが聞こえてきた。それを聞いて流石にカオルも大方のことを察したのだろう。短く舌打ちして、しょうがないというように窓際に置いてあるデスクの椅子に腰掛けた。七緒もまた調査結果を纏めるべく、ノートパソコンの前に座って作業を始めた。


「あのオレ、作業終わったんですけど、北村さんはどうですか?」


 問われて愛はファイルを抱えて答える。


「私も終わりました。ファイル片すだけです」

「白河所長、やること無くなったら帰っていいって言ってましたけど、本当にいいんですかね?」

「たぶん……いいと思います。一応、七緒さんに言ってみます」


 愛はそう言ってファイルを片すと、パソコンとカメラを繋いで写真を取り込んでいる七緒へと声をかけた。


「すみません七緒さん。白河さんにやることがなくなったら帰っていいと言われたんですが、何かお手伝いできることはありますか?」


 尋ねると七緒は一旦パソコンから目を離してカオルに「何かあるかなあ?」と尋ねる。カオルはというと完全に机に突っ伏して寝る体勢で「ない」と短く答えた。こんなんで本当にいいのだろうか。七緒は愛に向き直ると、愛らしい笑顔で告げた。


「特にないし、もう帰っちゃっていいよ。雨も強くなっちゃう前に新人くんと一緒にさ」

「ありがとうございます。それじゃあお先に失礼します」


 愛はぺこりと頭を下げると林原の元に戻った。


「帰っても大丈夫みたいですよ」

「そうですか。それじゃあ帰りましょうか」


 林原はそう言うとすぐさま帰り支度を始めた。愛も慌てて鞄の中に筆記用具やスマートフォンなどを詰めてコートを羽織る。林原は扉のところで、


「お疲れ様でした。お先に失礼します」 


そう言うと愛を待って扉を開いた。背後から「お疲れ様~」という七緒の声が飛んできた。カオルはおそらく寝てしまったのだろう。本当に自由奔放だ。

 外に出ると先程より雨脚が強まっているように思えた。世界が重い灰色で彩られて何もかも褪せて見えた。雨の音が世界を満たしていく。

 林原がビニール傘を広げる。使い古したビニール傘だった。


「どうぞ」


 林原が僅かに愛が入れるように傘を傾ける。


「すみません、ありがとうございます」


 愛はその空いたスペースに入った。


「林原さんの家ってどのあたりなんですか?」

「ここから徒歩三分もしないですね」

「ええっ」


 まさかそんなに近いとは。驚いていると林原が言葉を付け足した。


「引っ越したんです。ぼろいけど安いし、事務所から近いんで」


 近い方が楽でしょう? と林原が言う。確かにその通りかもしれない。

 けれど仕事とオフの時間は分けたいと、敢えて職場から少し遠い場所に住む人もいるので、一長一短だろう。愛は後者のタイプで、会社と自宅の距離はそこそこ離しておきたい。知り合いにオフの自分を見られたくないというのが大きな理由だった。


「北村さんは、どうしてこの探偵事務所に入ったんですか?」


 林原の問いに愛はどきりとした。そして一呼吸置いたあと、答えた。


「そうですね……情けない話なんですけど前職で疲れてしまって……それで偶然、白河探偵事務所のほら、動画見たんです。それで『求人募集』とも動画内で言っていたので、勢いで応募してしまったんです。もう何もかも嫌になってましたから」


 半分本当、半分嘘。

 綯い交ぜにしたそれを言うと愛は今度は林原へと問いを向けた。


「林原さんはその、白河さんがきっかけだと思うんですが、やっぱり前の仕事はつらかったんですか?」

「ええまあそうですね。体力勝負な所ありましたから。それなりに体力には自信があったんですけど、調子に乗って腰を痛めてしまって潮時かな、と」


 潮時というには明らかに若いのに、林原はそんなことを言う。けれど年齢にしては林原というこの青年は落ち着いている。というより、奇妙に老成しているというのだろうか。出会った時から、どうにも林原に対してこの妙な感じが拭えないでいる。


「北村さんも一人暮らしですか?」


 問われ、愛は少しどきりとした。けれど緊張はすぐに消えた。


「はい。実家は新潟の方で」

「米所ですね。オレ、米が好きなので羨ましいです」


 淡々と言うがおそらくそれは本当なのだろう。


「林原さんは実家はどこなんですか?」


 少しの間のあと、


「千葉です」


 という短い答えが返ってきた。


「ああ。それなら近くていいですね。いつでも会いに行ける」

「すみません。正しく言うなら実家のあった場所です」

「え?」


 意味が分からなかった。ビニール傘には雨雫があたっては跳ねている。ぼつぼつ、ぼつぼつ、嫌な音を立てている。ノイズのような雨音の中で林原が言った。


「オレ、八歳の時に両親亡くなってるんで。その後は叔父さんたちにお世話になっているから、厳密に言うと実家って言うもんが今はないんです」


 ざあ、ざあ、と。


 鳴る雨音が沈黙を埋めてくれた。愛は渇いた声で、ごめんなさい、と言う。

 林原は「別に北村さんが気にすることじゃないです」と返してきた。そこに矢張り感情らしい感情はのっていなかった。哀れんでほしいだとか、怒りだとか、そういうものがまるでなかった。


「もう昔のことなんで。それより北村さんのご両親は元気なんですか?」


 問われて、何か試されているような気がした。愛はにっこりと笑って答えた。


「ええ、父は事故で他界してしまいましたが、母は元気ですよ」


 林原は、へえ、と微かに口角を上げた。


「それはなにより。でもお父様が亡くなったのは、つらいですね」

「正直言うと、あまりよく覚えていないんです。わたしも幼かったので」


 愛は嘯く。それが一番いいと思ったからだった。

 林原はそれに対しても、へぇ、と言った。こちらに興味があるのかないのか、さっぱり分からない声音だった。


「遺族としてどんな気持ちでしたか?」


 問われ、愛は答えに窮する。遺族の気持ちと言われてもピンとくる答えが出てこなかったからだ。だから愛は問いを問いで返した。


「林原さんはどうだったんですか?」


 すると林原は黙考のあと、


「憎い、と思いましたね」


 と答えた。憎い、と愛は繰り返す。林原は頷いた。


「そうです。オレは憎いと思いました」


 それが誰に対してなのか。何故か愛は聞けなかった。林原がこちらを見る。あの洞のように黒い瞳には愛の姿がうつっている。


「それで、北村さんはどうだったんですか?」


 その声は静かなものだったのに雨音にかき消されることなく、愛の耳に届いた。

 遺族。遺された一族。血のつながり。その繋がりが消える。まるで葉脈の一筋が消えてしまうかのように。雨が降っている。そういえばあの日も、雨が降っていた。愛は少しの沈黙のあと答えた。


「私は幼かったので、ただただ、死んでしまったんだと。正直その印象しかありませんでした」

「悲しいとかは?」


 愛は首を振った。林原は「そうですか」と言った。それから唐突に、


「ぼくの母はきれいなひとでした」


 と言った。


「黒髪のきれいな、優しくあたたかな女性でした。子どもの頃、印象的な記憶で母の大切にしていた標本のガラスを割って標本も壊してしまったんです。その時、幼いながらにオレは、どうしようもなく取り返しの付かないことをしてしまったと思いました。その標本は、母が亡くなった祖父から譲り受けたものらしくて……オレはどうしていいか分からずに呆然としていたんです。そうしたら母に見つかって」

「怒られましたか?」


 林原は、いえ、と首を横に振った。


「母は怒りませんでした。オレに怪我がないかすぐに確かめてから、わざとじゃないなら壊したって仕方ないと言ってくれたんです。けどその日の夜、寝付けなくて起きたら」


 林原は一拍の間を置いて、告げた。


「母がひとりで静かに泣いていました。オレは、その姿を見て……何とも言えない気持に襲われました。後悔や自責の念もありました。けど、オレは、気丈に振る舞っていた母の弱さが、どうしてか、うつくしく思えたんです」


 変な話でしょう、と言って林原が小さく笑った。愛は何も言わなかった。


「それから何年かして、両親は亡くなりました。亡くなった時、オレはちゃんと母に謝れば良かったと思ったし、今でも思っています。亡くなった母のことを」


 そう語る林原の足が古い木造建築のアパートの前で止まった。ここが林原の家なのか。見上げると剥げた塗装や錆びた階段の手すりが、雨に濡れて一層惨めにさせていた。


「それじゃあ、オレはここで」


 そう言うと林原は愛に傘を渡し、小走りでアパートに向かった。


「林原さん」


 一階の扉の前で林原が振り返ったのを見て、愛は言う。


「あの、傘、ありがとうございました。明日お返しします」


 すると林原は少しだけ笑んで、


「いえ、それじゃあまた明日」


 と言うと家の鍵を開けて愛の前から姿を消した。ひとり残った愛はその場に佇んで、林原のビニール傘を握りしめた。傘の柄の部分は、冷たかった。林原の手は冷たいのかもしれない。少しも温もりは残っていなかった。


 ざあざあ、ざあざあ、ざあざあ。


 雨が降る。


 ざあざあ。ざあざあ。


 記憶が蘇る。


 ざあざあ。


 父の死の記憶。


 愛は自然と閉じていた目を開く。


 ――オレは憎いと思いました。


 そう言っていた林原の瞳を思い出す。その、黒の中にある苛烈な炎。

 あれを以前どこかで見たことがあったような気がした。見るとぞくりと背筋が逆なでされるような、そんな目をしていた。

 どうして林原はあんな話をしたのだろう。

 愛にはそれが分からなかった。


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