22 依頼の拒否
朝から空は重たい曇り空で埋め尽くされていた。まだ午後二時を過ぎたところだというのに夕方頃のように昏かった。
白河探偵事務所の窓から空を見た愛はぽつりを漏らす。
「雨が降りそうですね……」
その独り言のような呟きを拾ったのは、近くで事務作業をしていた林原だった。
「そうですね。確か今日、夕方から雨になるとか……あ、降ってきましたね」
ちらりと林原が窓の外を見て、また書類へと視線を戻す。愛は曇天からぱらぱらと疎らに降り始めた雨に、思わず声を上げた。
「えっ私、傘持ってきてない」
朝は晴れていたので油断していた。天気予報をちゃんと確認しておけば良かったと思っていると、林原は封筒に事務所の判子を押しながら言う。
「ならオレの貸しますよ」
意外な申し出だった。ぽかんとした愛はすぐに我に返って遠慮した。
「いえ、大丈夫です。それに林原さんの借りたら、林原さんどうするんですか?」
すると愛に気遣われたことがまるで意外だというように林原は目を丸くした。そんなに薄情な人間に見えるのだろうか。だとしたら直していかないとならない。
「あの林原さん、だから大丈夫ですよ。走って駅まで行くので」
「オレ家すぐそこなんで、本当にいいですよ。明日返してくれれば」
ビニール傘が嫌じゃ無ければ、と林原は付け足す。
「それだったら林原さんの自宅まで一緒に入って、帰りはお借りするって形はどうで
すか? それなら二人とも濡れずに済むと思いますし」
その提案に林原はぴたりと手を止めると、こちらに視線を向けた。やっぱりその瞳は洞のように昏い。昏い、というよりも黒いという方が矢張りしっくりくるが。
「……そうですね。そうしましょうか」
纏めた書類を机で整え、林原がそう言った時だった。
トントントンと階段を上る音が響いて聞こえてきた。来客だ。しかも足音から察するに二人分の足音だった。気を引き締めていると、事務所の扉が開いた。
そこにいたのは壮年の男女で、薬指に光るリングから夫婦であることが分かった。女性の方はやつれており、痩せ細っていた。男性のほうが女性をさり気なく支えるように事務所に入ってきた。二人を早速出迎えたのは、山崎さんだった。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご相談を?」
柔らかい声色で山崎さんが問うと、女性の方が不安げに視線を泳がせる。代わりに男性のほうが答えた。
「あの岩垣さんからの紹介で、来たんですが……白河所長は……?」
その言葉に山崎さんの表情が微かにだが緊張する。
岩垣からの紹介。
愛は以前、焼き肉屋で同席した、体格の良い男性刑事のことを思い出す。刑事の岩垣からの紹介で、白河の名前が出るということは、何かあの連続殺人事件に関係することだろうか、と愛が思っていると、
「岩垣からぼくにお客かい?」
奥の席から白河がステッキをついて現われた。壮年の男女は白河の美貌に気圧されたのだろう。「は、はい」と戸惑いがちに頷く。
白河は立ち尽くす男女の前に立つと、二人をじっと見詰めた。あの琥珀色の不思議な色合いをした瞳で、何かを見透かすように見詰める。その視線に耐えられなかったのだろう。女性の方が視線を逸らし、男性は困惑したように声を上げた。
「あ、あの……岩垣さんから聞いて……此処に来れば、犯人を知ることができると聞いたんですが……本当にそんな依頼ができるんですか?」
たどたどしく言葉を紡ぐ男性を前に、白河は目を細めて、小さく溜め息を吐いた。
そして、
「申し訳ないがキミたちからの依頼を受けることはできない」
ときっぱりと拒絶した。
「どうして!」
叫ぶように言ったのはそれまで不安げに視線を泳がせていた女性だった。痩せて目の下には隈がある。明らかに憔悴しきった女性は縋るように白河の両腕を掴んだ。
「なんで、どうしてですか! あなたが、あなたなら私たちの、たったひとりの子を殺したひとを、見つけられるんじゃないんですか!?」
女性の悲痛な叫びが事務所内に響く。けれど白河の表情は少しも変わらなかった。
「善男から何を聞いたのか知らないけれど、ぼくは確かに犯人を見つける。だがそれは犯人を知るためだ。貴女は加原亮一郎さんのお母様かな? いずれにせよ、加原さん。貴女には無理だ。貴女は知るべきではない。犯人が逮捕されるまで待つべきだ」
その言葉に、訳が分からないというように男性が声を上げる。
「犯人を知るということと、犯人を捕まえるということの何が違うんですか! どうして私たちは知る権利がないと言うんですか!」
男性は目を潤ませていた。怒りも哀しみもそこには十分過ぎるくらいに含まれていた。
その剣幕を前にしても白河の端正な顔が、何か特別な感情を揺らがせることはなかった。
湖畔のような静けさを纏ったまま、淡々と告げた。
「権利がないとは言っていない。ただその器じゃないと言っているんだ。けれど安心して欲しい。必ず犯人は捕まるし、その報いは受ける。ぼくが先か、警察が先か。どちらが先からは分からないけれど、これについては約束します。依頼は引き受けることはできない。だが、約束はすることはできる」
そう告げた白河はこれまで見たことのないくらい真剣な眼差しをしていた。その表情と言葉に、二人はまるで魔法にかけられたように言葉を失った。
「奥様、息子さんの性的指向についてマスコミにあることないこと言われて騒がれて今、あなたたちと息子さんは二重の意味で侮辱されている。ぼくはそれについて軽蔑する。なぜなら人は誰を愛そうが関係ない。世にはセクシャルマイノリティを糾弾するような輩がいるが、愛することができるのは人間として正しい機能を持っているということだ。人間はただ子孫を残すために愛し合う動物ではない。このぼくが言うのだから間違いない。息子さんは世間が騒ぐような所為に奔放な下品な青年ではない。しっかりと働きしっかりと恋をし、その果てに騙されて殺されただけで、あなたたちの教育も愛情も正しいものだ。一人息子という何よりもかけがえのない存在に対し、常に幸福であれと願ってきたことも。だがぼくの見識が間違いでなければ、あなたたちはきちんと愛し合っている夫婦だ。少し輝きが落ちている薬指の結婚指輪は殆どずっとつけられていたもので、旦那様は奥様が倒れそうになっても良いように支えてきた。優しい旦那様だ。そして奥様。あなたは自分が思っている以上に強いひとだ。何故なら二人でここまで来ることができたのです。その勇気と覚悟に、ぼくは敬意を表したい。そしてもうひとつ言いたい」
白河はふっと表情を緩めると、女性をそっと男性へと委ねて言った。
「ふたりでちゃんと、生きて下さい。そして支え合ってください。今こうして二人でいるように、これからも二人で。あなたたちが生きること、記憶すること、保持すること、それが何よりの息子さんが生きた証左だ」
不思議なくらいに、その声はあたたかかった。一瞬、本当に白河の声帯から紡がれたものなのか、疑うほどだった。白河はそのうつくしい顔に、慈愛に満ちた微笑みをたたえていた。とん、とその手が女性と男性の肩に触れる。そしてじっと目を見詰めて言った。
「いいんです。ここでは崩れ落ちて泣き喚いても。貴方たちだけが背負わなくてもいい」
途端に、二人は力を失ってがくりとその場に崩れ落ちた。そして、白河が言ったように愛する息子の死を悲しみ、泣き喚いた。どうしてあの子が、どうして、という言葉と嗚咽が悲痛なまでに響いていた。白河はその二人の肩からそっと手を離すと、山崎さんに二人を応接間に通すように言った。加原亮一郎の両親は、山崎さんに付き添われるような形で、応接間のソファに座って涙を流していた。白河は愛たちの方へと視線を向けると、
「新人二人。ぼくはこれから外に出る。おそらくあと三十分したらカオルと七緒が浮気調査から帰ってくる筈だから、やることがなかったら帰っていい。客が来たら山崎さんに任せておけば大丈夫だ。それじゃあ」
そう言ってコートを羽織り白河はステッキを手にすると、黒い外套を翻して軽快な歩調で事務所を飛び出していった。
春の嵐のように過ぎ去っていった白河に、取り残された林原と愛は顔を見合わせた。
愛は声をひそめて、林原へと尋ねる。
「あの……どういうことなんですかね……?」
「どういうことって何がですか?」
「何がって……白河さんの言っていること、分かりました? 犯人を知るために犯人を見つけるって……」
林原は愛の困惑にまるで気付いていないのか林原は、はぁ、と情けない声を漏らした。
「そのままの意味じゃないですか? 犯人を知るために見つける。そのままですよ。オレたち一般人には逮捕なんてできないですし」
「いやそれはそうなんですけど……」
駄目だこれは、と愛は内心頭を抱えてしまった。そういうことじゃないのだ。愛が聞きたいのは「犯人を知るために犯人を見つける」という意味だった。犯人を知る、というのは犯人が誰かを知る、ということだろう。それなら犯人を見つけた時点で目標は達成していると言えるのではないだろうか。白河の頭の中を考えてはみるが、全く分からない。
しかし、と愛はちらりと応接間のほうを見た。衝立の奥からは未だに嗚咽が聞こえてくる。山崎さんが何かを語りかけるような声が微かにだが聞こえた。
加原亮一郎。例の連続殺人事件の四人目の被害者だ。その遺族である両親が今、ここにいることが不思議な心地がした。これで遺族に会うのは二度目だが、最初に見た二人目の被害者である小林悠の姉、小林茜は全く違っていた。黒髪を一つにきれいに纏め、ぴんと背筋を伸ばして白河と向き合う姿は凜としていた、白百合の花のようだった。涙のひとつも浮かべずに佇むその姿は、ただただ美しいとさえ言えるものだった。
あの時、白河希と小林茜が対峙した瞬間のことを、今でも愛は鮮明に思い出せる。
「……残された人はやるせないでしょうね」
ぽつりと漏らしたのは林原だった。その視線は応接間の方へと注がれていた。何となく、意外だと思った。感情が希薄というか、表情や態度に出づらい林原だからこそ、そう思うのかもしれない。愛はそんな林原に同調する。
「そうですね。やりきれない思いでいっぱいでしょうね」
すると林原の視線がこちらへと向いた。洞の瞳が、こちらを見ていた。
「北村さんもそう思うんですね」
その意味深な言葉に愛は一瞬、どう返して良いか分からなかった。
そして考えあぐねいているところに、扉を開いた音が聞こえた。
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