20 新人の意図

 午後七時きっかりに岩垣は行きつけの居酒屋「とらや壱号店」に着いた。相変わらず薄暗い廊下を歩いて行き個室の戸を開くと、美貌の男が悠然と座っていた。その男――白河希は先に呑んでいたようで「ああお疲れ、善男」と上機嫌に日本酒の味を楽しんでいた。テーブルには冷や奴や刺身が並んでおり、本当にこの居酒屋のメニューのレパートリーの奔放さには毎度驚かされるものがある。ご丁寧にお猪口はもう一つ、岩垣の分もきっちり用意されていた。岩垣は呆れ混じりに溜め息を吐き出し、テーブル席の対面に座った。


「おなかすいただろう? 今日はぼくのおごりだ。何でも食べるといいさ」

「随分と機嫌が良さそうだな」

「ああ、実は新たに新人を採用してね。これが蟻の一穴になるといいんだが」


 くい、とお猪口を傾ける白河に、岩垣が眉根を寄せる。


「新人? 新人ならこの前ほら……えっと、愛ちゃんって子が入ったばっかじゃねぇか」


 岩垣は店員を呼ぶと、目の前の日本酒は無視して、とりあえずビールを頼んだ。それから鳥の軟骨の唐揚げと、手羽先、焼き鳥の盛り合わせも注文した。ここのところ例の連続事件に振り回されて、流石にもう酒でも呑まないとやっていられない気分だった。


「ああ、あの新人は別の意味でとる価値があった。そう僕はふんでいる」

「? どういう意味だ?」

「キミは気にしなくていい。それよりおそらく、これからが正念場だ。とはいいつつ、まだ不確定事項が複数ある。ぼくはそれを確定事項にしなければならない」


 白河は相変わらず意味不明な言葉のあと、薄く笑った。


「なにせ警察は例の連続殺人犯をまだ捕まえていられないようだし?」

「うるせぇ」


 運ばれてきた手羽先に齧りついて咀嚼すると、白河がけらけらと「いい食べっぷりだねぇ」と笑って更に日本酒を呷った。こいつ、何杯目なんだ。それに酒を呑んでいるにしては何か、血色が悪いようにも見えた。また何か馬鹿なことをしているのか。岩垣は目を眇めていると、白河はその綺麗な顔で「悪人顔が更に悪人顔になるよ」と言った。


「お前、また何か馬鹿やってんじゃねぇのか? 顔色が悪いぞ」

「ほう、善男がぼくのことを心配してくれるとはね。明日は槍の雨が降りそうだ」

「はぐらかすんじゃねぇ。ブッ倒れて困るのはお前の依頼人なんだよ」


 その「依頼人」という単語を出せば、白河は「確かにそうだね」と肩をすくめた。


「それで? 実際どうしてそんな血の気のねぇツラしてんだよ。寝不足か?」

「寝てはいるよ。ただそうだね。顔色は最近、献血に通っているからかな」

「献血ゥ?」


 この男が何で急に慈善活動に目覚めたのか。岩垣は怪訝そうに眉を顰めた。すると白河は「なんだいその顔は」と咎めるような口調で言う。


「ぼくが善い行いをしてちゃ悪いのかい? そんな顔をされるほど、ぼくは冷血な人間じゃないぞ」

「そうかぁ? でも何で突然献血なんて始めたんだよ」


 さっぱり意味が分からない。この忙しい時期に呑気に献血とは。

 すると白河は「まあ厳密に言うと献血じゃないんだけど」と切り出した。


「いずれにせよ血が必要になるんだよ。だけど誰かの血を抜く権利はぼくにはないだろう? だから自分の血を少しずつ少しずつ抜いている。もちろん、ちゃんと鉄剤を飲んでるから大丈夫だ」

「本当にお前は訳が分からねぇことばっかりやってんな」

「キミには理解できなくて結構。それよりニュースで見たけど、村上信五はまだ拘留されたままなのかい?」


 そう白河に尋ねられ、岩垣はビールを一気に飲み干してから答えた。


「まぁな。アリバイが無いってのが運が悪いところだな」

「ふうん。前も言った通り村上信五はシロなんだけどなぁ。善男。キミの力で彼の潔白を早く証明してやったらどうだい?」

「それを言うなら希。お前も早いところ犯人探し出さねぇと、警察が先に見つけちまうぞ。そうなったらお前は依頼人からの依頼を果たすことができなくなるぜ」


 依頼。その単語に白河の柳眉がぴくりと動いた。琥珀色の瞳が伏せられ、日本酒の水面を見詰めたあと、そうだね、という答えが返ってきた。


「……確かにそれは困る。ぼくにとって一番大事なのは依頼と依頼人であって、それ以外はどうだっていい。どうなったっていいんだ。ぼくは」


日本酒を飲み干す。琥珀色の瞳が岩垣を見る。決して抗えない力を持つ眼が。


「だがぼくは、いや、ぼくが雇っている従業員は皆、一般人なんだ。だから殺人犯を捕まえるのは、善男。きみたち警察の仕事だ。従業員たちには……まぁ覚悟している奴らばかりだけど、それでも人殺しを追うことはさせたくない。そういうのはぼくだけでいい。罠にかけるのに手伝ってもらうことはあったとしても、ぼくは、ぼくの従業員を守らなくちゃならない。ぼくは探偵じゃない。ぼくは探偵事務所の所長に過ぎないから」


 だから、と白河は持っていたお猪口をことりと机に置いた。


「百パーセントの確証が得られるまでは、ぼくはその瞬間を待つしかないんだ。きみたち警察と違って、グレーじゃ駄目なんだ。そうでないとぼくは人を殺すよりも酷いことをしてしまうことになる。ぼくは自分を善人だとは思わないが、ぼくなりのポリシーがある」


 苛立っているのか。白河は日本酒を呷っては、手酌で酒を注ぐ。その琥珀色の双眸は、後悔とひとしずくの哀しみに染まっていた。岩垣はその理由を知っている。白河も岩垣も若かった頃の話だ。未だに白河の胸に今も引っかかっている棘は、これからもずっと、取れることがないのだろう。取ることを白河自身が許さないのだから。胸が痛んだところでこの男は涙を流さない。それを白河は「悲しくないから」だと嘯くし、その嘘を暴いてやろうと白河の境界線を越えようとすると途端にこの男は堅牢な仮面を被るのだ。

 白河は初めて出会った小学校の頃から、ずっとそうだった。並外れた美貌と知性を兼ね備えた子どもは、周囲から明らかに浮いていたし、「異質」なものだった。異質なものを排斥しようとするのが、子どもにも大人にも共通して言えることだったし、幼い白河もその対象になった。けれど白河はいつも平気そうだった。まるで痛みなど微塵にも感じていないようだった。岩垣がその度に助けに入ると、幼い白河はいつも驚いたように目を丸くしていた。なぜ岩垣がそんなことをするのか、全く分からないようだった。厳密に言えば「助けられるようなことを自分はされていないのに、なぜ助けるようなマネをするのか」という疑問に満ちた目をしていた。

 麻痺しているのだ、と岩垣は思っている。白河は自分勝手に見えるし、実際身勝手な所はあるが、正反対に自分の命を賭けのコインのように扱う面もある。自己というものが乖離しているのだろうか。岩垣にはよく分からない。ただ、


「希」


 岩垣は重い声音で名前を呼ぶ。


「お前、いつか本当にブッ壊れちまうぞ。忘れた方がいいこともある」


 幼馴染みとしての助言のつもりだった。白河希は確かに、普通ではない。普通ではないが、ちゃんと血の通った人間なのだ。

 けれど当の白河はやっぱり自分を自分として扱わない。扱わないのが普通だと思っているし、だからこそ残酷にもなれる。白河は優美に微笑む。


「生憎、記憶力は良い方でね。忘れようとしても忘れられないことは色々あるんだ。それに善男。とうにぼくは壊れているようなものだ。安心してくれたまえ。強いて言うなら、もしもぼくが殺人鬼に殺されて死んだらちゃんとキミが捜査し、キミが逮捕してくれ」


 その声色は平生通りだったが、琥珀色の瞳は真剣そのものだった。真っ直ぐに見詰められた岩垣は、知っている。こういう目をする時の白河は本気なのだと。

 だが岩垣は頷きたくはなかった。だから、心とは裏腹に頷かなかった。


「馬鹿言え。お前が殺される訳ねぇだろ。そんな馬鹿言ってる暇あったら、さっさと犯人見つけて依頼を果たせ」


ぶっきらぼうに岩垣が言うと、白河が小さく溜め息を吐き出した。


「その台詞、刑事であるキミに言われるのも癪だが、その通りなんだよな。ただまだ判断材料が少ない。被害者像が完成しないんだ」

「まだお前は黒髪に拘っているのか?」

「そりゃあ拘るさ」


 白河はゆるりと唇に弧を描く。

 まるで、楽しんでいるかのように。


「そうでないと、これまでやってきた事は全て無駄だったことになってしまうからね」


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