16 宵の密談

 夜の十時きっかりに岩垣は白河探偵事務所を訪れた。二階の事務所の扉を開くと、案の定というべきか予想通りというべきか。岩垣が渡した資料や本が床のあちらこちらに散らばっていた。それを一つ一つ拾い上げてやろうとしたところで、奥の席についていた白河が――厳密に言うと机に長い脚を載せて、眼を瞑っていた美しい顔が、音に反応して目覚めた。繊細な睫毛が震え、開くと琥珀色の不思議な色合いをした瞳が、岩垣を捉える。


「ああ……来たね」


 その声には珍しく疲労が滲んでいる。ずっと此処で思案の海に潜っていたのだろう。


「来たね、じゃねぇ。この散らかしようは一体何なんだ」


 遺体の写真までおおっぴらに置いてあるのを見て、岩垣が声を上げれば、白河は臍を曲げたみたいに唇をへの字に曲げた。


「心外だね。というより、散らかっているようにはキミには見えたのか。まあそれならそれでいい。けれど一応ぼくなりの秩序がここにはあるから、甲斐甲斐しく片付けなくてもいい。むしろ動かさないでくれたまえ。折角秩序が生まれ始めてきたというのに、また無秩序になってしまう」


 そう言われてしまえば仕方在るまい。岩垣は拾いかけた遺体の写真をその場に戻した。


「へーへー。それよりてめぇ、また何も食ってねぇんじゃねーか?」

「ブドウ糖を摂ったから思考能力には問題ないよ。それより早く例のものをくれたまえ」


 高圧的とも取れる言葉だったがこれが白河希という人間の通常運転なので、岩垣は「ほらよ」と捜査資料の写しを手渡した。

 白河は右手でそれをさっと受け取ると、すぐさま目を通し始めた。その速度は速く、あっと言う間に白河は最後のページまで読み切ると、ステッキを持っておもむろに立ち上がった。そして今岩垣が渡したばかりの捜査資料を種を蒔くように床に置いていく。

 ぱっと見岩垣には無秩序的に置かれているようにしか思えなかったが、白河は床に置かれている資料を見渡し、振り返った。


「電話で話していた、四人目の被害者は男性のことだが、ちゃんと腹はきれいに裂かれていたのか? 四方に皮膚をめくられ、翅を広げた蝶みたいに」

「ああ、何もかも手口はこれまでと一緒だ。皮膚にはきちんと固定するみてぇに釘打ちもされていた。ただ場所だけが違う。自宅じゃなくラブホテルだ」

「ラブホテルということは加害者は女性か?」


 言われると思った事について、岩垣は苦々しく顔を歪めた。


「いや……どうやらその可能性は半々だ」

「……? ああ、なるほど。もしかして被害者はバイセクシャルだったのかい?」

「そうだ、てめーの言う通り被害者の男性はバイセクシャルだった。裏は取れている。男も女もいけるクチで、しかもホテルは自動受付。監視カメラもチェックしたが、丁度被害者の陰になって身長がどの程度か分からない。少なくとも被害者よりは低いってことは分かるが、被害者の身長は180センチ。なかなかの高身長だ」

「なるほど。それだったらぼくも隠れてしまうだろうね。つまりラブホテルで被害者が男性であっても、犯人が男か女か絞りきれないということか」

「そうなるな。身長180センチ以下の、普通か細身の男女が対象になる。収穫といえば小さいなりに収穫ではあるが……それよりも困ったことは」

「現場に第三の被害者である清水ゆかりの同居人もとい恋人の、村上信五の毛髪が発見されたということかい?」


 渡した捜査資料に書かれていたことを、そのまま白河は口にする。岩垣は首肯した。


「ああ。今、村上は取り調べを受けているが、容疑を否認している。だが清水ゆかりとは同棲していたものの、別れたいと清水は友人たちに相談していたらしい。村上信五は元々、清水ゆかりに対してDVじみたこともしていたとか証言していた。なぁ希。村上信五みてえな暴力的な男が、今回みたいな酷い殺人を起こしたんじゃあねぇか?」


 そうしたら警察としては万々歳である。物的証拠があるというのは強く、村上信五には事件当日のアリバイがどれもない。被害者が四人まで増えてしまったことは刑事として悔恨の念を抱くが、それでもこれ以上被害者は増えない。どうかそうであってくれと岩垣は内心願ったが、その願いを白河はあっさりと、粉々に砕いた。


「彼は違うよ」


 白河は右手で煙草を取り出し、唇に咥える。岩垣は思わず声を上げる。


「何?」

「だから村上信五はシロ。どう考えても彼じゃない」


 火を付けてジリと焼ける音が聞こえた。白河はすうと煙を吸い込んで、ふう、と吐き出す。断定形でそう言ってのけた白河に、岩垣は濃い眉を寄せた。


「何でそう言い切れるんだよ。現場には村上信五の毛髪が見つかっているんだぞ。暴力的な男だったとも清水ゆかりの友人たちからの証言を得ている」


 ふう、と溜め息と一緒に煙が吐き出された。

 そして、


「バカかキミは」


 ぴしゃりと白河はそう言うと、ウイスキーの瓶をとった。

 冷蔵庫から氷を出してグラスに入れ、ウイスキーを注ぐ。からんと氷が鳴り、それを白河は問答無用で岩垣へと突き出した。呑めということなのだろう。無言でこうやって勧めてくるときに突っぱねると厄介になることを岩垣はよく知っているので、仕方なく受け取った。

 白河は大きく一口、ウイスキーを呷り嚥下すると、一気にまくしたてた。


「善男。キミは先日のぼくの似非プロファイリング講座をちゃんと聴いていたのかい? DVだか何だか知らないが、そんな感情的になる暴力男がここまで巧妙な連続殺人なんてできるわけないがないじゃないか。いいかい? この犯人はどう考えても秩序型だ。大体毛髪が落ちていたって言うが、報告書にある毛髪なんて清水ゆかりを殺害した現場で真犯人が拾ってきたものに決まっているじゃないか」


 その言い分に納得しかけたが、岩垣はすぐに反論を唱えた。


「待てよ。そう言うが、清水ゆかりが髪の毛が一本も落ちてねぇくらい綺麗にしていた可能性だってあるじゃねぇか。潔癖症、っていうのか? そういうヤツだった可能性だってあるだろ?」

「その可能性も否定できないがね。けれど清水ゆかりはそういった几帳面なタイプじゃない。これを見れば分かる」


 そう言うと白河は床に落ちていた写真を一枚拾った。それは清水ゆかりの遺体写真のうちの一枚だった。白河は黙ったままそれを岩垣へと渡した。受け取った岩垣は「ううむ」とうなり声を上げてしまった。何度見ても慣れない。

 写真に映っていたのは清水ゆかりの遺体を上から撮った写真だった。その腹は切り開かれ、長い黒髪は扇状に広がっている。その白い肢体と赤黒い血のコントラストが生々しく、写真を見ただけでも実際現場で見てきた記憶が蘇ってくる。だが、これを見てなぜ、清水ゆかりが几帳面な性格じゃないと分かるのか。岩垣が渋面を作っていると、


「善男。まずは爪を見るといい」

「爪?」


 助言されてじっと目を凝らして爪を見ると、ピンク色の愛らしいマニキュアが塗られている。だが、これが一体どう繋がってくるのか。分からない。

 そんな岩垣の気持ちを察したのように白河が違う写真を手に取って渡してくる。


「すまない。こちらの方が分かりやすかったね。こっちならキミでも分かるだろう?」


 そう言って渡された写真は、結束バンドで拘束され鬱血した手首と手だった。その手は女性らしくやはりピンクのマニキュアが塗られていて、鬱血した肌には不釣り合いだった。

 だがやはりこれが何だというのか。

 分からないというように白河を見遣ると、白河はやれやれと溜め息を吐き出した。


「しっかりと見てみるといい。ご覧、爪の手入れが疎かだ。確かにマニキュアは塗ってあるが、地の爪が見えているくらい伸びているのに、塗り直していない。面倒くさがりか、爪の手入れまでも行き届かないくらい忙しかったかのどちらかだ。そして遺体以外にも目を向けてみろ。さっきの全身写真の方に写っているが、写真の中にある観葉植物は枯れかけているし、窓も窓拭きされていないのか汚れたままだ。明らかに清水ゆかりは几帳面なタイプではないか、若しくは掃除をゆっくりできるほど忙しかったかのどちらかだ。ちなみに人間は一日で平均百本程度の抜け毛があっても不思議じゃないという。だとしたら同居していた村上信五の毛髪も勿論落ちていることになる。だが二人分の毛髪を区別する方法は? これなら善男。直接村上信五を見たキミでも簡単だろう?」


 頭の中に村上信五を思い浮かべ、岩垣は頷いた。


「ああ、確かに判別できるな。村上信五の髪の毛は明るい茶髪だ」


 その答えに白河は満足したように「よろしい」と頷いた。


「そう、対する清水ゆかりは黒髪。村上信五の写真を見たけれど、殆ど金髪に近い茶髪だった。それなら採取するのも簡単だ。間違って清水ゆかりの髪を拾うこともないし、村上信五は短髪だ。髪の毛の短さでも判断できる」

「それじゃあ犯人が持ち去って利用したってわけか」

「すぐにこんなことは警察も気付くだろうけど、おそらく犯人は楽しんでいるんだろうね。捜査の攪乱を面白がっている。だが日本の警察もそこまでバカじゃない。村上信五の足取りを追えば、それなりの成果は得られるかもしれない――なんて言いたいところだがね」


 白河がそこで溜め息を漏らす。


「結局、犯人には辿り着かないと思うよ、ぼくは」

「あ? 何でだよ。つまりお前は迷宮入りするとでも言いたいのか?」

「失礼。言葉が足りなかったね。今は、辿り着かないと思う。警察はね」


 ならばお前なら辿り着くというのか、と言う罵倒は、呑込んだ。もしかしたら白河はとうに辿り着いているか、辿り着きつつあるのかもしれない。けれどこの白河希という男は百パーセント確実でないと疑うことをやめない。思い込みで突っ走ってしまうと、もう何も周りが見えなくなってしまうのを白河は痛いほど分かっているからだ。


「そういえば善男。新しい被害者、加原亮一郎の髪の色は何色だった?」


 問いに岩垣は我に返ったあと、渋面を浮かべた。


「また髪の色か? 何でそこに拘る?」

「言っただろう? ぼくらは犯人についてよりも被害者についての情報を多く持っている。ならば未だに分からない犯人が求めてやまない被害者像をぼくたちで作り上げるんだ。そうすることによって、犯人の気持ちになることができる。この眼を通さずとも犯人の心を知る術はいくらでもあるんだ」


 そう言った白河は視線を伏せる。その琥珀色の瞳に哀しみの色が揺らいだのは、白河が過去のあやまちを思い出しているからだろう。岩垣もそれを知っている。知っているからこそ、気付かないふりをして、白河の問いに淡々と答えた。


「被害者の加原亮一郎の髪の色は黒だった」

「やはり黒か。そうだろうね」


 白河が瞳を瞬かせる。きらりと光る瞳。そこにはもう哀しみの色はなかった。岩垣はソファに腰掛け持っていたウイスキーを一口、呷ってから口を開いた。


「だが希。今お前が考えていることは俺にだって大体分かるが、被害者の髪の色が全員、黒って訳じゃないぜ。二番目の被害者、小林悠は金髪だった」

「そこがおかしいんだ」

「……というと?」


 岩垣が尋ねると、白河は立ち上がって、二番目の被害者である小林悠の写真と資料をとり、また奥の座席へと戻ってどかっと椅子に腰掛けた。そしてその艶やかな黒髪をくしゃりと握り込むと、仏頂面でぶつぶつと何やら言い始めた。


「小林悠……金髪……性別男……年齢は十七歳。性別には注目しなくていい。年齢も、容姿も犯人の好み通りだ。顔立ちが整っていて……それで身長175センチ、体重六十一キロ、平均より痩せ型……ということは、女性でも不意を突けば後ろから刺すなんて簡単なことだ。だが何故、小林悠だけが金髪なんだ?」


 白河は自問するように呟く。それに対してウイスキーを口にした岩垣が口を挟む。


「やっぱり髪の色は関係ねぇんじゃないか? たまたま黒髪が続いた。んでもって、たまたま小林悠が金髪だった。それでいいじゃねぇか」


 ぎろりと鋭く白河が岩垣を睨み付け「ちっとも良くない!」と声を上げた。


「考えてみろよ、善男。仮にだ、キミが殺人犯だったとしよう。そしてキミは男女については関係なく殺すが、年齢は十代後半から三十代前半の端正な顔立ちをした人間をターゲットに選ぶ。ああ、そうそう。以前言っただろう? 不細工な事務員と美人な事務員だったら後者を選ぶだろうって。その通り、殺人犯のキミは美しい被害者を選んだ。選んだからこそ、その時点でキミはこだわりを持つ殺人犯だということが分かる。手口も一貫して変わらないということもその証左さ。確かにキミの言う通り、偶然黒髪と金髪だったという可能性もある。それは否定できない。けれどぼくがこの犯人だったら、こんな気持ち悪い殺しは許せない。許せないのに……何故、金髪である小林悠もこの殺し方で殺した?」

「オイオイ、何言ってんのかわかんねぇが、どうして小林悠を例の殺し方で殺しちゃ駄目だったんだよ? いつもの話だが、お前おかしいぞ?」


 岩垣がそう言うも、白河は全く耳に入っていないようだった。


「おかしいんだ。仮に犯人が黒髪にこだわっているとしたら、金髪である小林悠はあの殺し方で殺される必要なんてなかったんだ……いや、善男。キミの言う通り本当に犯人と髪の色は関係がないのかもしれないな。そう考える方が、楽だ。だがぼくは楽をしてはいけない。ぼくは、遺族である彼女たちから依頼をされたのだから。もっと、もっと深くに潜る必要がある……だがそうするにはどうしたらいい……?」


 そう言いながら白河は長い睫毛を伏せ、瞳を閉じる。

 その力を持った眼が閉じられると、まるで眠っているというより死んでいるように見えるほど、奇妙な静けさが白河を包む。それこそ蚕の繭のように。端正な顔は白く、微かに血の気が通って色づく唇は、艶やかな白河の黒髪によく映えた。昔からそうだ。考え込みたい時はこうやって岩垣を呼び出して、結局ひとり置き去りにする。

 そのくせ、


「善男。今日は泊まっていけ。なにせ今のぼくは無防備だ」


 なんて勝手なことを言うのだ。端的に言えばボディーガードになれということだ。

 それを断ることができない自分は、やはりこの奇天烈な幼馴染みを甘やかし過ぎているのだろう。だが、岩垣も帰ったところで待つ人はいない。別れてしまった彼女はもう戻らない。けれど生きているだけで、いいのかもしれない。岩垣はぐっと拳を握る。

 犯人がどのような人間なのか。白河にとってはそれが大事だが、岩垣にとっては捕まえられさえすれば、そんなのどうだっていい。ただ被害者と遺族と、同じほどの痛みを負って欲しいとは思っている。だがそうなることは、殆どと言ってない。

 

 だから正しく罰して欲しいと思う反面で――壊れてしまえ、と思うのだ。

 

 死刑よりも残忍に、冷酷に、殺人鬼を壊し続けて欲しいと思ってしまったのだ。

 そしてそれを執行するのは白河だ。

 だから岩垣は時折、自分を嫌悪する。

 まともそうな皮を被った、自分の残虐性に。



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