15 ストーカー

 十月も下旬に差し掛かった頃、外は一層空気が冷たくなっていた。秋の匂いを感じながら愛は友人である水橋祐子を連れて職場である、白河探偵事務所の扉を開いた。


「ねえ、本当に大丈夫なの?」


 事務所がある階段をのぼりながら祐子が不安そうに尋ねてくる。愛は勿論と頷いた。


「大丈夫大丈夫。白河さんは少し変わっているけれど、依頼は絶対守ってくれる人だし」


 基本的に動くのは山崎さんだけれど、というのは口にしなかったが、実際白河探偵事務所の依頼完遂率は高い。高い理由は偏に山崎さんの活躍と、たまに見せる白河所長の推理――と言ったら本人に嫌そうな顔をされるが――のお陰だろう。


「おはようございます」


 愛が事務所の扉を開くと、ソファに寝っ転がって眠たげにしているカオルがまず最初に目に入った。窓辺から差し込んだ光でその金髪はきらきらと輝き、また、カオルの美しいかんばせを照らしていた。だが、だぼだぼのパーカーにデニムとは社会人としていかがなものなのだろうか。けれども美人なカオルがソファで寝転ぶ姿は、まるでひなたぼっこしている猫のようで素直に愛らしいと思った。黒髪だったら黒猫みたいでもっと良いのに。


「あら、新人ちゃん。おはよう」


 そう挨拶してくれたのは、七緒だった。スタイルが良くカオルよりも背が高くて、まるでモデルさんみたいだ。今日も化粧がばっちりしてあって、茶色い髪もくるりとゆるく巻いてある。そのアイメイクでぱっちりとした瞳が瞬いて、愛の友人である祐子を捉えた。愛は七緒が何か言うより先に、祐子を紹介する。


「おはようございます七緒さん。この子は私の友だちの水橋祐子って言います。それで今日、この子の相談をちょっと聞いて欲しくて……」

「依頼の話かい?」


 凜とした声で言ったのは、白河だった。ステッキをついて応接間のソファに寝転がるカオルを蹴り落とすと、どうぞ、とにこやかに祐子へと椅子にかけるよう告げた。蹴落とされたカオルはというと文句は言わなかったが、ぶすっとした表情でベランダへと出て行った。多分、煙草を吸うんだろうが、まるで居場所を取られた野良猫のようだと思う。

 祐子は、対面に座った白河の美貌に見とれるどころか、気圧されているようにも見えた。気持ちは分かると心の中で苦笑する。男も女も一目惚れしてしまいそうなくらい、白河希というひとはうつくしいのだから。

 愛は緊張で縮こまる祐子の隣に座ると、


「依頼というか……その、白河さんに相談したくて」


 と切り出した。するとぴくりと白河の眉が跳ねる。


「なんだ依頼じゃないのか。だったらぼくじゃなくて他をあたってくれ」

「あ、その、いえ。待って下さい」


 腰をあげかけた白河を無理矢理ソファに戻して「話だけでも聞いて下さい」と愛は頼む。白河は大変白けた表情をしていたが、仕方ないというように溜め息を吐き出した。


「話ね。それで? その彼女はどんなストーカーに悩まされているんだい?」

「え」


 思わず愛と祐子の声が重なる。驚愕だった。まだストーカーのスの字も言っていないのにどうして分かったのか。目をまん丸くしたまま白河を見遣る。


「あの、どうしてストーカーだって……」


 戸惑う愛に、淡々と白河は答えた。


「探偵事務所に来る若い女性の依頼のうち、浮気調査が大半を占めて残りがストーカー被害に関する相談となっているからね。それで最初は浮気調査を疑ったんだが、左手の薬指に結婚指輪がない。最近はつけない人もいると言うが、それでも女性のおそらく半分以上は結婚指輪というものに憧れを抱くものだろう? これがまず既婚者ではないと思った理由の一つだ。もう一つの理由としては年齢だね。新人と同じ年齢ということは、まだ二十五歳ということになる。昨今は晩婚化と言われているし結婚するにしては早いように思える。ということは浮気調査の確立は低い。それにご友人のその格好。その格好もまた、ストーカー被害に関する相談に繋がると思ったんだ。つばの広い帽子に、だて眼鏡。極力おしゃれというものを避けた、地味な服装。にも関わらず化粧はそれなりにちゃんとして髪だって整えてある。つまり元々は地味なタイプではないのに、今は変装して外出するようになってしまったということだ。――となるとキミがこの新人に此処に連れてこられた理由は、ストーカーに関係する相談、という可能性が非常に高い。だからぼくが、ストーカーについて言いだしたことについて何も驚く必要はないんだ。こうやってちょっと想像力を巡らせて適当に言ってみただけなんだからさ」


 そこまで言うと白河は煙草を取り出して、唇に咥え、火をつけた。


「それで実際のところ、どうなんだい?」

「あ、当たってます」


 紫煙をくゆらせる白河に、まるで素晴らしいマジックでも見せられたかのように祐子が何度も頷いて答えた。


「そうです、仰るとおり今、私ストーカーされてて……それで困って、最初は警察に行ったんですけど、追い返されちゃって。そうしたら愛がここにって」


 祐子がそう説明すると、白河は紫煙を吐き出した。


「へえ、警察に追い返された。何たる悲劇かな。ストーカー規制法が成立したというのに、いつだかのニュースでやっていたようにストーカー殺人は絶えないようだからね。ま、警察も具体的かつ早急に対処すべきだという判断材料がないと、なかなか動けないというわけか。警察も警察で判断が難しく、大変なんだろうね。けれど一方で怠慢な警察というのは悲しいかな存在するもので、そういう奴らは全員善男にしょっ引いて欲しいね。ああ、すまない。話が脱線してしまった。警察に追い返された、ということは、キミが被害に遭っているよいうのはもしかしてネットストーカーの類いかな?」

「え、な、なんで」


 動揺する祐子をよそに白河の弁舌は止まらない。


「ネットストーカーということはキミ、ツイッターがインスタグラムにでも自撮り画像をアップロードしているね? ぼくは正直、そういったものには疎いんだが、大抵の場合は最初はよくコメントやらリプライを送ってくれる人だと思って、キミも好意的に感じた……いや違うな。承認欲求が満たされた筈だ。見ず知らずの人が自分のことを褒めてくれる。認めてくれる。この他者評価はキミの承認欲求を満たすに相応しかったに違いない。このままだったらきっとお互いに良いアイドル紛いの存在と盲目的なファンという構造で終わっただろう。だが、その均衡が崩れたのは至極単純明快だ。相手からの発言が、より一層個人的なものになったのだろう。例えば何処に住んでいるのか、だとか、どんな仕事をしているか、果てには質問に留まらず好きだと愛していると一方的に告げられる。ぼくにとっては全く理解できない世界だがね。だが危険があると知っていながら自ら素っ裸で飛び込む人間の心理というのはある程度理解できる。オーストリアの精神医学者である、かのフロイトが、人間にはタナトスという自己破壊本能があると唱えているように、ネット世界が危険を孕んでいても飛び込むのはある種この自己破壊本能だと思うんだが……いや、誰しもが持つ自殺願望、深淵を覗き込みたい危ない好奇心といったところだろうか。インターネットがない時代、こういった承認欲求を人はどう解消していたのかぼくは知らないが、インターネットが普及したことで承認欲求という単語が注目され始めたのは間違いないだろうな。人々の中にはこういった欲求を剥き出しにすることを嫌悪するらしいんだが、これは実に日本人らしいとぼくは思う。日本人は沈黙に美徳のようなものを持っている……というより、そういう幻想に取り付かれているように見えるんだがキミの意見は?」


 祐子はぽかんとしていたが、すぐに我に返った。だが白河の言葉の波にどう反応していいか分からなかったらしい。


「え、ええ、いやちょっと私には難しい話で……すみません、でも私が自撮り写真をインスタとかツイッターに上げたのは事実です」


 そう告げると、白河は求めていたような答えが返ってこなかったことに落胆したのだろう。その落胆を隠さないまま、低いテンションで口を開いた。


「そうかい。じゃあさっきぼくが言っていた事は大方当たっていると?」


 どこか咎めるような白河の視線に祐子は恥ずかしそうに目を伏せた。


「はい。最初はその、いい人だなーって思ってたんですけど、私が上げる写真とかに何処でいつ撮ったのかとか、そういうことを聞くようになってきて……最近になってからは何処に住んでいるのかとか、会いたいとか、言われ始めて何だか怖くなって。アカウント変えてもすぐに見つかっちゃうんです。どうやって探してるのか分からなくて、本当に、いつか殺されちゃうんじゃないかって……」


 ぎゅっと手を握って震える祐子の肩を愛はさする。

 しかし、


「なるほど。それじゃあぼくは力になれないな」


 さらりと白河はそう言うと、それじゃあお帰り下さいご足労頂きありがとうございました、と言わんばかりにひらひらと手を振る。

 愛はそんな白河の、あまりにもつれない態度に思わず声を上げた。


「どうしてですか? 探偵事務所ってストーカー対策もしてくれるんじゃないんですか? というか、そういった謳い文句を掲げてるじゃないですかウチも!」


 この白河探偵事務所だってストーカーを一度、警察に突き出したことがある。愛は入社してまだ日が浅いが、白河が早々にそんな仕事をやってのけたのをこの目で見たのである。

 けれど白河の意見は変わらなかった。


「お帰り頂く理由はシンプルだ。そういったサイバー犯罪関連に特化した従業員がウチにはいないからだ。以上。他の大手探偵事務所をあたるといい。そこでなら解決できるかもしれない。それとツイッターもインスタグラムも、アカウントを変えるなんて馬鹿みたいな事をしていないでさっさとやめたまえ。もう手遅れのところまで来ているが、これ以上ストーカーに情報をくれてやることもない。そもそもぼくは疑問なんだが、どうして不特定多数が見ている場所に自分の顔をさらすことができるんだ。自分から犯罪者の手を引いているだけじゃないか。もちろん顔出しによって成り立つアイドルなんかは宣伝のために仕方ないのかもしれないが、そうでもない一般人がどうしてそんなことをする? 身内だけで楽しんでいるつもりなのかもしれないが、身内以外にも見られていることに気付かないものかね。やっぱりフロイトの言う自己破壊本能が働いているのか? 死に惹かれる気持ちは多少なり理解できるが、満足感を得る為だけに自ら死を引き寄せようとするのは全く理解できないな。自殺志願者ならまだしも」


 白河は呆れたように煙草をふかしている。完全に嫌なヤツなのだが、白河の言っていることは愛にも理解できた。今やインターネットは殺人者や犯罪者にとっては、恰好の画像付の選別リストだ。だが、だからといってここで引き下がられては困る。


「確かにその、大手探偵事務所に依頼すれば良いかもしれませんが、私は白河さんに御願いしたいんです。白河さんなら、祐子を必ず守ってくれると思って」


 食い下がる愛に、白河はきっぱりと言い返す。


「無理だ。ぼくはこの通り片足も不自由だし、左腕は義手だ。体格だって良くはない。そんな男がストーカー男を撃退できると思うかい? それだったら岩垣善男という男を紹介しよう。あの正義感に満ちあふれたデカブツなら何とかしてくれるかもしれない。出世しているのか警察でもそれなりの地位にいるようだしね。幼馴染みとして鼻が高いよ」


 そんな胡散臭いことを言うと白河はスマートフォンを取り出して連絡を取り始めた。電話は何度かのコールのあと繋がったらしく、白河は明るい調子で話を切り出した。


「やぁ善男。元気かい? ちゃんと今日も働いているかい? ああ、切らないでくれ。今回はキミに頼みたいことがあってね。いや、違う。真面目な話さ。だから少しだけ話を聞いて欲しいんだが――え? なんだって?」


 明るかった白河の表情が曇る。吸っていた煙草を灰皿に押しつけて消した。その表情は真剣なものになっており、琥珀色の瞳は研ぎ澄まされた刃のように鋭かった。


「……なるほど。今度も手口は同じか……なるほど、そうか、分かった。ぼくの事務所で今夜十時に落ち合うことはできるかい? そのほうがいい」


 それじゃあと言って白河は電話を切ると、難しい表情を浮かべた。その鋭利な雰囲気に気圧され、声をかけることも躊躇っていると、白河が立ち上がった。そして今気付いたというように祐子と愛を見下ろすと、冷徹な声で言い放った。


「悪いがキミたちに構っている暇はない。帰ってもらおう。ああ、新人。キミもだ」


 そう口早に言うと白河はぐるりと事務所を見渡して声を発した。


「すまないが今日はもう事務所を閉める。皆、帰ってくれ。ぼく一人で考えたい」


 その声を聞いた他の事務所の面々は、すぐに得心したように帰り支度を始める。もしかしてこんなこともしょっちゅうなのだろうか。誰一人文句を言うことなく、「お疲れ様でした~」と次々と事務所を立ち去っていった。


「ほら、キミたちも出て行った出て行った。今日はもう終いだ」


 そうやって白河に愛と祐子も追い出されるような形で事務所の外へと追いやられてしまった。十月下旬の空気は冷たく、二人は呆然としたまま寒い秋の風を受けていた。


「い、一体なんなの、あのひと……」


 祐子が信じられないという気持ちと、全く理解できないという気持ちを込めて言う。その祐子の気持ちはよく理解できた。白河のような経営者が本当にいていいのだろうか。いや、実際にいるのだからいていいのだろう。


「すっごいイケメンというか美人かと思ったら私の悩んでいること、こっちが何も言わなくても当ててくるし……かと思えば急に出て行けとか」

「ごめんね、祐子。白河さんってああいう人なんだよね……連れてきたの、間違いだったかな?」


 愛が申し訳なさそうに謝れば、祐子は「そんなことない!」と予想外にも声を弾ませた。


「依頼は引き受けてくれなかったけど、粘り強く会いに行ったらイケそうな感じじゃない? それにあんな頭の良い美形に守られるってサイコーじゃん」

「祐子……ストーカーに狙われてるかもなんだよ?」

「だからこそこの乾いた心にはオアシスが必要なの~目の保養ってヤツ?」


 分かってよ、というように口を尖らせる祐子に愛は苦笑する。気持は分からなくもない。


「それよりさ、一体何の電話だったんだろうね?」


 共に歩き始めると祐子が思い出したように言う。


「さあ……なんだろう。あの人、色々と忙しいみたいだから」


 よくわからないけど、と付け足す。祐子は「そうかあ」と納得したみたいに言っていたが、本当は愛には岩垣から白河がどんな連絡を受けたのか、おおかた予想がついていた。


 ――死んだのだ。また新たに。


 愛は寒空の下で一旦立ち止まり、白河探偵事務所を振り返った。さて、白河はどうするつもりなのだろう。何をあの明晰な頭脳で考えるのだろう。あの琥珀色の瞳を思い出して、どくん、と胸が高鳴る。本当は岩垣とどんな会話をするか、それが気になったが、愛は祐子と仕方なく帰路につくしかなかった。


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