07 黒髪

 白河が約束していた行きつけの居酒屋「虎や壱号店」へと足を運ぶと、いつも通りの顔ぶれの店員たちが今日も実に愛想良く出迎えた。事務所から近いこの店はチェーン店だが、しっかりと完全個室になっている。食べ物も飲み物も並だが値段も並なので、全てに於いて普通の居酒屋といえた。平日の夕方とあってか人は少ないようだった。

 足元を仄かにライトアップされた廊下を店員に案内され、通された薄暗い個室には既にがっしりとした体つきをした男――岩垣善男が白河を待っていた。強面で愛想が無いが、顔や体格に反して正義感であることを白河はきちんと理解していた。小学校の頃からちっとも変わらない。その凶悪とも言える双眸がじろりと白河を睨み上げた。


「おい、遅いぞ希。またすっぽかされたのかと思ったぜ」

「善男。キミは善い男と書いて善男だろう? そのくらい許してくれたまえよ」

「名前と俺の性格は関係ねぇだろうが。ちゃんと連絡を入れろ。そのくらいできんだろ」

「ちょっと忙しくてね。キミたち警察とは違って」

「暇なのは探偵ごっこをしているお前だろ。どこぞの探偵様と違って俺たち警察は忙しいんだ」


 探偵ごっこ。探偵。白河は聞き飽きたというばかりに溜め息を吐き出した。


「はぁ……善男。キミもあの駄犬と同じなのかい? 何度言ったら分かるのか知らないが、ぼくは探偵じゃあない。探偵ごっこなんてしているつもりもない。探偵事務所の所長をしている。それが今のぼくの立場だ。それ以上でもそれ以下でもない。それで、刑事の岩垣善男くん。早速だがビールを頼んでくれたまえ」

「毎度思うが、酒を飲みながら話す話かよ」

「逆さ。酒を飲まないとやってられない。それにぼくがザルだということは知っているだろう? だからそこは安心して欲しい」

「んなもん知ってる」


 そう言うと岩垣の無骨な指が店員の呼び出しボタンを押した。岩垣も岩垣で、何だかんだ腹が減っていたのだろう。メニューを見ながら「からあげ」だとか「ピザ」だとか「フライドポテト」だとか、とにかく子どもが好きそうなものを注文する。

 白河は煙草に火をつけ、煙をふかす。あからさまに岩垣が嫌そうな顔をしたが、そんなのは白河はちっとも気にしないで話を切り出した。


「それで? 例の捜査はどうなっているんだい?」


 白河の言わんとすることはもう岩垣にも分かっていた。岩垣はその巨躯には見合わぬ黒い鞄から書類を取り出すと、白河へと渡した。受け取った白河は愉快そうに眼を細める。岩垣はその表情が気に食わず、むっとへの字に唇を曲げた。


「何がおかしいんだよ」

「いやぁ、正義のヒーローになりたいと言っていたキミが、本当に警察っていう正義のヒーローになったくせに、今や汚職刑事に成り果てちまったからさ。いや感情を切り離せない正義漢だからこそ、こうなったというべきか」


 そう言うと白河は岩垣が渡した資料を、扇子で扇ぐようにひらひらと揺らした。岩垣はそれについては何も返す言葉がなかった。

 岩垣の今までしてきたことは、警察の規則に反している。今、岩垣が白河に渡した書類もここ一連の連続殺人を扱った捜査資料――言ってみれば機密中の機密なのだ。


「さてさて、それじゃあ読ませて頂くよ」


 そう言うと白河は資料に目を走らせ始めた。


 最初の事件が起こったのは先々月八月九日。被害者は杉本花菜という牧野高校在学の一年生で、当時十六歳だった。死亡推定時刻は午後四時から六時の間。発見現場は自宅リビングで、第一発見者は同じ区に住む従兄弟だった。その従兄弟は杉本家と交流が深く、その日も杉本花菜とゲームをする約束をしていたらしい。大抵の場合、第一発見者を容疑者候補として見る場合が多いが、この従兄弟のアリバイは既に証明されており、シロということが分かっていた。


 被害者である杉本花菜は全裸でリビングに放置されていた。手首と足首には結束バンドで拘束され、身体は真っ直ぐに伸びた状態で見つかった。そして、腹を切開され四方に皮膚をめくり上がらせられていた。ご丁寧にめくった皮は蝶の翅をピンで留めるように、グルーガンで釘打ちされていた。露わになった臓物もまた飛び出し、それは丁度、蝶が翅を広げたような形につくられているようだった。


 死因は背後から複数回刺されたこと、そして腹を切り開かれたことによる失血死とされた。腹を切裂かれたのはまだ辛うじて生きている間にされたものだと、司法解剖の結果明らかになっている。


 そして次の事件が先月九月二十日。二番目の被害者が出た。被害者の名は小林悠。栄生西高等学校という定時制高校に通う二年生だった。死亡推定時刻は午後五時から七時。両親を早くに亡くした小林家の、自宅リビングにてこちらも発見された。発見者は姉である小林茜であり、帰宅時に小林悠の遺体を発見している。小林悠も杉本花菜と同じく、死因は失血死であり、腹は切裂かれて釘で止められていた。


「――で、今月三人目の被害者が出た、と」


 白河が資料に目を通し、そのまま記入されていることを読み上げる。


「被害者の名前は清水ゆかり。年齢二十七才。都内の金融企業に勤める会社員。死亡推定時刻は午後三時から五時の間。手口は全く同じ。遺体は全裸にされ背中側に四カ所の刺創、腹は切裂かれ釘打ちされていた。手首足首には同じメーカーの結束バンドが使われていた。身長は168センチの、体重五十五キロか……ふうん」


 そう言ったところで丁度良く注文した品々が届き、机の上に並んだ。白河はビール、岩垣はウーロン茶を手に軽く乾杯する。


「善男、キミも呑んだらいいのに」

「ばかやろう。俺はまだ仕事が残っているんだよ。それに仏さんがまた出ちまったんだ。悠長に休んでいられっかよ」

「馬鹿だなあキミは。休むのも仕事のうちだよ。それにキミが今何をしたってどうせ何も変わりやしない。だったらその無駄にでかい図体と、入っているのか分からない脳味噌を休めることをおすすめするね。ところでキミ、最近彼女と別れただろう?」


 ぶっ、と岩垣はウーロン茶を吹き出しかける。

 白河は煙草を吸いながら「何もそんなに驚くことじゃないだろう?」と不思議がった。

 だが岩垣にとっては青天の霹靂だったらしい。噎せ込みながら白河を睨み付けた。


「てめぇ……てめぇんところの探偵でも使って調査してもらったのか?」

「馬鹿かキミは。ぼくは大切な従業員をそんな無駄なことで動いてもらいたくないし、そもそもキミの恋愛事情なんかどうだっていい。ただぼくは捜査に影響が出ると困るだけ。いや違うな。共犯者として困るだけって言いたいのさ」


 そう言うと白河はビールを気持ちがいいくらいに一気に呷った。白い喉がごくごく

と嚥下するのを見詰めながら、岩垣はぐっと眉根に力を寄せて尋ねる。


「なら何で分かった? お得意の推理か?」

「推理? 面白いことを言うなキミは。ぼくはいつだって何事も推理なんてしたこと

はない。推理っていうのはね、優れたミステリー小説や映画に出てくる主人公や助手がするもので、ぼくがしているそれはただの妄想みたいなものさ。つまりぼくは推理じゃなく、ただ妄想じみたことをぺらぺらとそれらしく喋っているだけということだ。ああでも強いて言うならキミの身なりを見て直感したことを言ってみたというのもある。恋人ができた当初は無精髭なんて絶対に生やさなかったし、コートもスーツもそんなにくたびれていなかった。けれど今のキミは髪もぼさぼさ、唇も荒れていて、どう考えてもキミが付き合っていた恋人にとって許せない姿をしている。ということは放置されているということだ。こういうヒントを拾ってみて、訊いてみたんだよ。かまをかけてみた、と言い換えてもいいかもしれないね。実にシンプルな方法だよ。結果的に当たっていたようで何より」


 べらべらと喋った白河に、どん、と岩垣は烏龍茶の入ったグラスを置いた。ちゃぷん、と烏龍茶がグラスの中で優雅に踊った。だが岩垣はこの上なくご機嫌な斜めで、瞳は鋭角的にすらなっていた。


「何が何よりだ! 人の恋愛事情探っておいて!」


 糾弾口調で岩垣は言うが、白河は取り付く島もない様子だった。


「探ってなんかいないさ。キミが勝手に認めただけだろう。それに問題はキミが仕事の忙しさにかまけて彼女をほったらかしにして破局したことじゃなく、恋愛というダメージの所為で元々馬鹿だったのが更に馬鹿になってしまうということだ。それではぼくが困る。いや馬鹿というのは言い過ぎかな。著しい思考能力の低下と言い換えておこう。まあそんなことはどうだってよろしい」


 勝手にそうやって白河は幕を下ろすと、真剣な表情で資料へと視線を戻した。


「三人目の被害者ということは、いよいよ連続殺人鬼らしくなってきたね。シリアルキラーってやつだ。手口も同じ。それどころか洗練されてきているんじゃないか?」

「洗練?」

「善男。キミだって気付いているだろう? 背中側の刺創が徐々に少なくなっている。つまりはだ、この殺人鬼はできる限り生きた状態で切り開きたいんだ。解剖か……それとも他の何かがこの犯人を満たしているんだろうが、これをする意味は一体何だろう」

「被害者を痛めつけたい変態野郎なんじゃねぇか?」

「その可能性も十分あるね。けれどそうだな、ただ痛めつけて快感を得る性的サディストなら、腹を切り開いて釘打ちする必要なんてないと思うんだ。彼等は生きている内に拷問したりすることを好むからね。ではなぜ、犯人がこんな死体を造ったのか。それが気になる。興味深い。例えば善男。キミはこの遺体を見た時、最初に何を感じた?」


 琥珀色の白河の瞳が、不思議な色合いで輝く。その目で見詰められると、勝手に脳内をいじくられて記憶の針を戻されてしまう。岩垣はこの連続殺人で、一番最初に遺体と対面した時のことを思い出す。白い少女の裸体、赤い血、黒髪が広がって。死の静謐が横たわっている、あの異様な殺害現場を。

 岩垣は口の中にたまっていた唾をごくりと飲み込んで、答えた。


「……一枚の、絵画みてぇだと思った」


 ぽつりと呟いて岩垣は自分の発言に嫌悪感を覚える。何が絵画だ。あれが芸術だと少しでも思ったというのだろうか。岩垣は自責の念に駆られるが、白河は対照的だった。


「なるほど、キミはそう感じたんだね。でも奇遇だね。ぼくも同じような印象を最初に覚えた。そう、何もかも非現実的で絵画でも見ているような心地になるんだ。次に襲ってくるのが乖離していた現実感。生々しい死と、惨たらしい遺体に対する哀悼の意。善男、キミはきっと今した自分の発言にどうせ自責の念を覚えていることだろうが、気にしないほうがいい。むしろそういう第一印象を大事にすべきだ。ぼくたちは……いや、ぼくは依頼人の為に殺人鬼がどういうヤツかを知らなければならないんだから」


 白河は遺体の写真を見ながらビールを口にする。まるで酒の肴にでもするかのように。まったく悪趣味というか、人の心がないというか。岩垣はこっそり溜め息を吐いた。


「何か言いたげだね」

「いや別に」

「そう。言いたい事があるなら言ってくれたまえ。うっとうしい」


 手元の資料に目を落としていた白河が、少しだけ視線を持ち上げて岩垣を見た。

 その琥珀色の瞳は黄金色にも見える。不思議な色合いだ。岩垣は「何でもない」と素っ気なく返すと鶏の唐揚げにむさぼりついた。白河の箸も唐揚げに伸びてかっさらっていく。その形の良い唇に運んで、真珠色の歯でかぶりつき、咀嚼する。ただそれだけなのにこの白河という美形がやると、高級な食材に見えるから不思議だ。そもそも殺人現場や遺体の写真を見ながら、よくもまあ肉が食えるものである。


 白河は肉をビールで流し込んだ。それからまた店員にビールを注文し、新しいビールを一口、口に含んだあと何の脈絡もなく、


「──


 と言いだした。

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