05 不倫の末路

 白河は応接ソファーに腰を落ち着けると、時計を見た。

 外から車の音が聞こえて、コツコツコツと階段を上っていく音が聞こえる。白河探偵事務所は一階は物置と化している為、二階に客を通している。三階は白河が泊まり込みで何かをしたい時に寝泊まりできるようになっているらしく、従業員でも出入りできるのは白河だけという未知の領域だ。


 扉が開くと共に、先程まで話題に上っていた苗木夫人が現われた。今日も化粧にもブラウンの髪にも洋服にも隙がなく、年齢の割にはきれいにしている。美人の類いに入る女性といってもいいのかもしれない。ただ愛の好みの女性ではなかった。

 それに顔で言ったらカオルの方がハッとするくらいの美人だ。ただ粗暴な口調や派手な金髪、だらしない服装がカオルの本当の魅力を半減させているだけで。何故黒だった髪を金にしてしまったのだろう。それが残念でならない。


「やあ、こんにちは。苗木さん。ご機嫌良さそうだけれど何かあったのかな?」


 白河がにっこりと微笑むと、苗木夫人は少し頬を染めてソファに腰掛ける。カオルはいつの間に事務所からかいなくなっていた。ベランダで煙草を吸っているのかもしれない。


「あら、分かりますか」

「ええ、分かりますとも。あなたがさっきまで愛人と寝ていたことも、その愛人を連れ立って白昼堂々とこの探偵事務所に来たことも」


 ひくりと苗木夫人が一瞬顔を強ばらせたが、すぐに笑い飛ばした。


「愛人? いやだ、冗談はやめてくださいな」

「匂い」

「匂い?」


 訳の分からない白河の言動に苗木夫人が聞き返せば、白河は首肯する。


「そう、いつも貴方がつけている甘ったるい香水の中にボディーソープのような匂いが微かに混じっている。愛人とヤった後にシャワーを済ませてから此処に来たんでしょうね。夢中になって約束の時間までに時間がないと少し急いだから、目元のマスカラの液がほんの少し瞼に付着している。濃いブラウンのアイシャドウで誤魔化そうとした辺りが時間の無さを証明しているし、何より今日も雨なのにあなたは殆ど濡れていない。ついでに自動車の音も聞こえた。ほぼ間違いなく愛人の車だろう」

「な、何を言っているのか分かりませんが急いでいたのは確かに事実です。でも愛人なんていませんし、タクシーで来たんです、私」

「タクシーじゃない」


 きっぱりと白河は言う。それは自信満々といった感じで。どんな推理が飛び出すのかと愛は期待し、そう告げられた苗木夫人のほうは動揺する。


「そんなこと、どうして思うんですか?」


 夫人の問いに対し、白河はベランダから顔を出したカオルと視線を合わせる。あ、と愛は間抜けな声を上げた。どうやらカオルがベランダに出ていたのは喫煙するためではなかったようだ。いつの間に打ち合わせたのだろうと思っている間に白河は話を続ける。


「ご覧の通り、うちの職員がバッチリ見ていたからです。駄犬、車種は何だった?」

「トヨタのレクサス。色は黒」

「ふうん。レクサスのブラックなら、女性よりも男性の乗車率が圧倒的に高いだろう。その上、高級車ときている。愛人もご主人と同じくらいに高収入か。兎に角、さっきまで貴方が一緒にいたのは愛人に決定。というわけで苗木さん。あなたの浮気調査の件だが、ご主人のほうはシロだ。真っ白。純白そのもの」

「そんなはずは!」


 声を震わせ叫びかける苗木夫人に白河はすっとぼけたように問う。


「何でそう思うんです? 我々の調査に瑕疵があるとでも? それとも奥様。何か我々に秘密にしていることでも?」

「い、いえ、そういうわけじゃ」


 しどろもどろになる苗木夫人をよそに、白羽はにっこりと微笑んだ。


「いやぁそれなら良かった良かった。旦那様の潔白が証明されたんですからね。夫婦円満。何よりです。そういう訳で事前にお話したようにお支払いをお願いします」


 やたら芝居がかった口調でそう言うと白河は山崎さんを呼んで会計を始めた。苗木夫人はすっかり白河のペースに陥っており、しっかり報酬を支払っていた。苗木夫人は本来なら愛人の存在やら性交やらを指摘されて激昂すべきなのに、そうしないのは利用しようとしていた白河に計画を暴露され、しかもそれが頓挫したことによる失意からだろう。

 愛は思わず白河のやり方に小さく苦笑してしまう。これじゃ追い剥ぎと同じようなものだ。心を丸裸にされた挙げ句、苗木夫人はお金も支払うことになったのだから。他人から見たら憐れなのだろうと愛は思ったが、探偵事務所を利用して慰謝料をぶんどろうとした、たちの悪さは白河と負けてはいないのかもしれない――と愛が思っていたら。


「ああ。そうそう。実は話はこれで終わりじゃないんですよ」


 ちらりと白河が時計を見る。午後三時を指していた。 

 苗木夫人は呆けた顔をした後、素っ頓狂な声を上げた。


「え? は? 終わりじゃないってどういうことです?」


 問いかけを無視して愉快そうに白河は言う。


「お、時間通り。ご到着だ」


 とんとんとんと誰かが事務所の階段を上ってくる。そして開いた扉の先にいた男性に、苗木夫人は顎が外れそうなほどあんぐりと口を開いた。愛は見たことのない男性に首をひねる。けれど白河は壮年の男性を鷹揚に迎え入れた。


「こんにちは、苗木さん。今この通り奥様をおもてなししていた所でして、時間ぴったりで何より」


 握手を交して白河は苗木夫人の隣に男性――おそらく苗木夫人の夫を座らせた。苗木夫人は未だに状況が飲み込めていないのか、口を魚のようにぱくぱくと言わせている。


「あ、あなた、どうしてここに」

「ああ失礼。実はご主人からも依頼を承っていましてね。依頼内容は妻の浮気調査。苗木さん、いやご主人の方ですね。こちらが依頼内容の結果になっています。ちなみに結果から申し上げますと奥様はクロです。黒も黒。真っ黒です」


 依頼結果を受け取った男性の方の苗木は、中にある写真を見て顔を顰めた。おそらくそこには妻の不貞を示すものがいくつもあるのだろう。不穏な空気が苗木夫妻の間に流れるなかで軽快に白河だけが話を進めていく。


「というわけで今回の報酬ですが事前に申し上げた通り本日お支払い頂くことになります。山崎さん、何度も悪いけどよろしく」

「はいはい。では苗木様。ああご主人様の方ですね。現金でのお支払い御願いします。領収書はご入り用ですか?」

「いや必要ない。それより冬美。これはどういうことだ」


 雑に札束を置いた苗木は声を怒りで震わせて妻を睨み付ける。修羅場の訪れを察知した白河が「はいはい、それでは依頼完了ということでお引き取り下さい」と無慈悲に二人を追い出した。

 扉の外から早速罵倒の嵐が巻き起こっていたが、白河は今あったことなんてちっとも気にしていないかのように奥のデスクに戻ると、どかっと革張りの椅子に腰掛けて煙草をくわえた。火を付けて一服しているところに、愛は恐る恐る尋ねる。


「いいんですか? あのまま苗木夫妻を放ってしまって」


 問うと白河はきょとんとした顔をして言った。


「いいに決まっているじゃないか。ぼくたちはもうやるべきことはやった。あとは本人達がどうするか。弁護士様が活躍するだろうよ。それにぼくの城を荒らされちゃ我慢ならないからね。お帰り頂くことが最善だっただろう?」

「えっ、で、でも、仲裁に入ったほうが……」


 口ごもる愛の背後からカオルが肩を組んでくる。きらりと派手に染色した金髪が揺れる。


「ハイハイ新人。希にそんなこと言ったって無駄無駄。こいつは心なんてないんだよ。優しいの正反対の位置にいるような極悪人なんだからさ」

「それは否定しないがね」


 意外にも白河はそう言うと、吸いかけの煙草を揉み消して立ち上がった。コートかけにかけてあった黒いトレンチコートを羽織ると、鴉みたいだった。それから希は上質そうなステッキを持った。足に古傷がある所為だとかで、あると色々と便利らしい。


「それじゃあぼくは散歩に出てくるから。あとはよろしく山崎さん。あとキミと駄犬」

「おーおー、せいぜい背後から刺されないように気をつけな」


 カオルはそんな物騒なことを言って見送った。

 事務所の扉が閉じると、愛はカオルに尋ねる。


「所長、外に出ることが多いですが元からですか? 私、見かけたことがあります」

「あー……そうだなぁ、どうだろうなぁ」


 分からないというよりカオルは曖昧に濁しているように見えた。そんなに信用ないだろうかと愛は少し落胆するが、すぐに山崎さんが穏やかに声をかけてくれた。


「安心してください。所長は依頼内容によってはしょっちゅう外に出ることもあれば、逆に引きこもりっぱなしになることもあるので。要は極端な方なんですよ。こんなことは毎度のことなんで、あまりお気になさらずに。振り回されるだけです」


 山崎さんはそう言うが、愛は表面上は納得したふりを見せながらも内心は気になりっぱなしだった。これは仕方が無い。本当は、ちゃんと名前だって呼んで欲しい。まだ一度もここに就職して以来、呼ばれていない。

 何故なら愛は、白河希という男に、一目惚れというやつをしたのだから。


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2024年12月3日 09:00

解剖心書 朝桐 @U_asagiri

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