第12話 食い気
翌週末、再び歌舞伎の公演を観に行くことになった。安田はその日は少し早めに家を出た。歌舞伎のことを考えると、以前とは違う感覚で楽しめるのではないかという期待と共に、何となく胃のあたりに軽い緊張を感じていた。
伊東とは劇場で待ち合わせをしていたが、その前に少し時間があったので、安田は近くの小さな食堂に立ち寄った。食事をしながら、頭の中でいろいろなことが交錯していた。歌舞伎のように深いテーマを掘り下げることに関心が向いている自分と、今この瞬間、目の前の料理に集中している自分との間で、微妙なズレを感じることがあった。
食堂のメニューを眺めながら、安田はつい手が伸びてしまう。「今日は、ちょっと食べすぎてもいいか」と自分に言い聞かせるように、定食の大盛りを頼んだ。しばらくして運ばれてきた料理の盛り付けが、思った以上に豪華で、見た瞬間、少し心が踊った。
彼は箸を取って一口食べ、そしてもう一口、また一口と食べ進めていった。食べること自体が、今の自分にとって一つの小さな逃避のようにも感じられた。心の中で複雑に絡まり合う思いが、食事を通じて少しだけ整理されていくような気がしていた。
途中で、ふと考えた。「この食べることに、どれだけの意味があるのだろうか」と。歌舞伎のように深いテーマを扱うものがあれば、食事のように一見無意味に思える瞬間でも、それなりの意味があるのではないかと。
食事を終え、劇場に向かう途中で伊東と合流した。伊東はどこか落ち着いた様子で、軽く微笑んで安田を迎えた。
「遅かったな、食べ過ぎたか?」伊東は冗談っぽく言う。
「いや、ちょうどよかった。食い気が先に立ってたけど、少しは心が整理できた気がする」安田は少し照れながら答える。
「食い気か…それも大事だよな。なんか、今の俺、食べることだけが楽しみみたいな気がしてさ。」伊東は少し苦笑いを浮かべた。「でも、そんな小さなことでも、気を抜いてる瞬間って大切なんだよな」
安田は頷いた。「そうだな。食べることって、ただの生理的な欲求以上に、何か心の余裕を生むような気がする。そういう時に、意外と自分が見えてきたりするもんだ」
伊東はうなずきながらも、少し考え込んだ様子だった。「でもさ、食べることに逃げるだけじゃダメだと思ってる。俺、過去のことと向き合わないとって、最近すごく思っててさ」
安田はその言葉に静かに耳を傾けながら、「だから、今日も歌舞伎を観に来たんだろ?」と言った。
「うん、それがある意味、俺の食い気みたいなもんだと思うんだ」伊東は少し照れながら言った。「歌舞伎の世界みたいに、ああいう過去と向き合うことが、今の俺にとっては重要な食べ物みたいなものかもしれない」
安田はその言葉に少し驚きつつも、頷いた。「それなら、今日はきっといい時間になるだろうな」彼は、伊東が少しずつ自分の過去に向き合おうとしていることを感じ、心の中で何かが確かに動き始めているような気がした。
劇場に到着すると、先週と同じように、舞台の前に立っていると、不思議な安心感が広がった。今日の公演もまた、心の中で何かを引き起こすものだと感じられた。安田は、舞台が始まるのを待ちながら、ふと心の中で考えた。「過去を見つめ直すことが、食べること以上に大切になる瞬間があるんだろうな」
やがて、舞台が始まり、荘厳な音楽が響き渡る中、役者たちが次々と登場した。安田はふと、食事と歌舞伎という二つの異なる体験が、自分の心の中で交錯していることに気づいた。それぞれが、違った形で自分に栄養を与えているのだ。
公演が終わった後、伊東と一緒に劇場を後にした。
「今日は、歌舞伎も食事も、どちらも深かったな」安田は感慨深げに言った。
「うん、どちらも心に栄養を与えてくれた感じだ」伊東も同意し、少し明るい表情を見せた。「俺、まだ過去に向き合うのが怖い時があるけど、今日はその一歩を踏み出せた気がする」
安田は静かに歩きながら、心の中で思った。食べること、歌舞伎、どちらも無意識に自分を動かし、今はその瞬間を大切にすることが、何よりも重要だと感じているのだろう。食い気は、単なる欲求にとどまらず、人生の中で向き合うべきものを見つけるための一つの手がかりであり、彼はそのことに気づきながら歩き続けた。
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