第13話 慶子
その日の帰り道、安田と伊東はいつもより少し静かな歩調で歩いていた。歌舞伎の公演の余韻が、ふたりの心の中でゆっくりと広がっているようだった。言葉少なに歩いていると、突然伊東が口を開いた。
「安田、慶子、最近どうしてる?」
その名前に安田は一瞬、足を止めた。慶子――彼の元妻であり、昔からの友人でもあった女性の名前だ。離婚してからしばらく経つが、慶子のことを思い出すのはいつだって胸がざわつくような感情を呼び起こす。
「慶子か…」安田は少し戸惑いながら答える。「まあ、元気だとは思うけど、あんまり会ってないな。お互いに別々の道を歩んでるし」
伊東は少し考え込んだ。「そうだよな。でも、なんか、最近彼女がどうしてるのか気になって。あいつ、いろいろ抱えてる気がしてさ」
安田はその言葉に顔をしかめた。「どういう意味だ?」
伊東は歩きながら、少し視線を落として言った。「実は、最近ちょっと連絡を取ったんだ。あのときのことも含めて、いろいろ話してみたんだよ。で、驚いたんだけど、慶子、今でも結構苦しんでるみたいだ」
安田は驚きの表情を隠せなかった。「苦しんでる?何かあったのか?」
「うーん、詳しいことは言ってなかったけど、どうやらあの時のことが、まだ彼女の中で消化しきれてないみたいなんだ」伊東は少し躊躇いながら続けた。「それに、最近新しい仕事を始めたって言ってたけど、どうやらかなり負担が大きいらしい」
安田は心の中でその情報を反芻した。慶子がまだ自分との過去に縛られているのかと思うと、何とも言えない感情が込み上げてきた。あのとき、二人の関係はどうしても修復できなかった。それでも、未だに彼女が苦しんでいるということに、安田は少し複雑な思いを抱かずにはいられなかった。
「伊東、どうして急に慶子のことを…?」安田は問いかけるように聞いた。
「俺、前に慶子に言われたんだ。お前のことを、ちゃんと向き合ってくれって。別れた理由も、どうしても納得できなかったって言ってたんだよ」
伊東は少し遠くを見るような目で言った。「俺が今、少しでも彼女の力になれたらと思って」
安田はその言葉に驚き、そして胸が締めつけられるような気持ちになった。慶子はまだ自分との別れを引きずっているのか。それが、伊東にまで伝わるほどのものだったとは…。自分には全く気づけなかった。
「それで、伊東はどうするつもりなんだ?」
安田は少し冷静に聞いた。
「うーん、俺ができることがあれば、少しでも力になりたいとは思ってる。でも、慶子がそれを望んでいるのかはわからない。だから、何かをするべきかどうか、まだ迷ってるんだ」
伊東は答えた。
安田は少しの間黙って歩きながら、自分の心の中で整理しようとした。慶子が今でも苦しんでいること、そしてそれが自分との関係に起因しているのかもしれないという事実。彼女に対して感じているのは、どこか後ろめたさや悔しさ、そして未練のような気持ちだった。
「伊東、もし慶子に会う機会があったら、伝えてくれ」安田はやっと言葉を発した。「俺も、彼女のことを気にかけているし、もし何かできることがあれば、協力したいと思っているって」
伊東は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに頷いた。「わかった。伝えておくよ。でも、安田、お前も心の中で整理できてるのか?」
その問いに、安田は答えることができなかった。自分が慶子に対してどう思っているのか、今もはっきりとした答えを出せないまま、日々を送っていた。しかし、伊東の言葉を聞いて、少しずつ自分の心の中でその答えを見つけなければならないという思いが強くなった。
その夜、安田は静かな部屋で、一人考え込んでいた。慶子のこと、そして自分の中で未解決のまま残っている感情について。彼女と過ごした日々は、もう戻ることのない過去になってしまったが、その影響が今も自分の中で渦巻いていることを感じていた。
「慶子、今どうしてるんだろうな」
安田は自問自答するように呟いた。
そのとき、ふと感じたのは、過去を清算するためには、やはり自分がしっかりと向き合うべきだということだった。慶子がどうしているのか、伊東がどう関わるのか、どんな形であれ、今の自分にできることを見つけるために、もう少しだけ前に進んでいかなければならないと思った。
次の日、安田は慶子に久しぶりに連絡を取る決心をした。
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