第5話 赤井

 派遣社員として働く彼の毎日は、どこか無機質で、安定感のないものだった。食品工場での仕事は決して楽ではなかったが、生活費を稼ぐためには欠かせない。工場では、数ヶ月ごとに契約更新があるが、いつもそのたびに心配していた。


 今日は、その契約更新の話がある日だった。


「安田さん、ちょっといい?」


 昼休み、工場の事務所に呼ばれた。少し不安な気持ちを抱えながら、安田は席を立つ。顔を合わせたのは、担当の井上さんだ。


「はい、どうしました?」


 井上は少し気まずそうに口を開く。


「実はね、今回は…派遣契約を更新しないことに決まりました」


 安田はその言葉に、一瞬耳を疑った。頭の中が真っ白になり、声が出なかった。


「どうして…ですか?」


「昨今の景気の影響で、会社全体のコストを削減しなきゃいけなくて…でも、君の仕事ぶりは悪くなかったよ。だけど、やっぱり、どうしても必要な人数が絞られてしまってね」


 安田は頭の中で計算を始めた。これで、収入が途切れる。再就職活動をしても、すぐに新しい仕事が見つかるわけではない。家賃や生活費をどうしようか。目の前が暗くなっていった。


「これから、どうすればいいんですか?」


 安田の声が震えていた。井上は少し沈黙した後、言葉を続けた。


「再就職のサポートをするつもりだから、必要な証明書とか、何かあれば言ってくれ」


 その後、安田は事務所を後にした。食堂に戻ると、同じ派遣社員の仲間たちが楽しそうに昼食を取っていた。彼の顔色が変わったことに気づいた人もいたが、誰も深くは問いかけなかった。


 午後の仕事中、安田は体がまったく動かないような感覚に襲われた。手元で機械を操作しながらも、頭の中では次のことを考えていた。再就職活動のこと、これからの生活のこと、そして何よりも自分にできる仕事があるのかという不安。


 帰宅すると、家に待っているのはいつも通りの静けさだけだった。机の上には、先月届いた生活費の明細書が積まれていた。安田はその明細書を見ながら、今後どうするべきかを考えた。


 だが、次第に彼は気づく。どんなに不安でも、どんなに恐ろしい状況でも、前に進まなければならないのだ。自分を支えるために、家族を支えるために、そして何よりも自分の誇りを守るために。


 安田はパソコンを開き、再就職サイトを開いた。次の一歩を踏み出すために、彼は少しずつでも動き出さなければならなかった。厳しい現実が待ち受けていることを知りながら、それでも彼は希望を捨てなかった。



 数日後、安田は少し足を伸ばして、銀座の街を散策することにした。陽の光が次第に柔らかくなり、夕方の時間が流れ始めていた。歩道の片隅には、雑貨屋のディスプレイが並び、カフェのテラス席では誰もがリラックスした様子で過ごしていた。安田はその風景にしばし見とれながら、自然と足を進めていった。


 ふと、角を曲がったところで、見覚えのある顔が目に入った。それは、学生時代に一度だけ会ったことのある、赤井だった。彼は少し離れた場所から歩いて来る安田に気づき、すぐに手を挙げて声をかけてきた。


「安田さん? 本当に久しぶりだな!」


 赤井の姿は、学生時代に比べて落ち着いて見えた。髪の色も少し変わり、以前の元気な印象から、少し大人びた雰囲気をまとっていた。安田は驚きとともに微笑んで、彼の方へ歩み寄った。


「赤井君、こんなところで会うなんて。本当に久しぶりだね」


「いやー、まさか銀座で会うとは思ってなかった。今日はたまたま仕事の帰りでさ」


 二人はその場で少し立ち話を始めた。最初はお互いの近況や、共通の友人について話していたが、話題は自然と学生時代の思い出に移っていった。赤井が語る昔の出来事や、自分自身がどれだけ変わったかを振り返る言葉に、安田も深く頷きながら聞いていた。


「安田さん、あの頃の情熱をまだ持ち続けてるのか?」と赤井が尋ねた。


 その問いに、安田は少し考えた後、ゆっくりと答えた。「あの頃の気持ちが全てじゃないけど、今でも大切にしてるよ。でも、昔の自分とはちょっと違うかな」


「そうだよな」赤井は少し笑った。「でも、変わってもあの頃の自分を忘れちゃいけないよな。俺も最近、昔のことを思い出して、少しずつやり直してるところなんだ」


 安田は赤井の言葉に何かしらの共感を覚えた。彼もまた、過去と向き合いながら、現在を生きているのだと思うと、何か暖かい気持ちが心に広がっていった。


「そうだね。お互い、歩んできた道は違うけれど、きっとあの頃の経験があって今の自分があるんだろうね」安田はしばらく考えてから言った。


「それに、再会できたってことが、また一つの縁だよな」赤井が言うと、安田も頷いた。


 二人は少しの間、互いに無言で歩きながら、過ぎた時間と新たな縁について思いを巡らせていた。夕暮れの銀座の街を背に、安田はふと、これからもどんなふうに自分を見つめ直していくのか、少しだけ気になるような気持ちを抱えながら歩き続けた。


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