第4話 苦難

 これは安田がテロを起こす以前の話だ。

 安田がつくばで派遣されている食品工場には、日々の忙しさとプレッシャーが常に付きまとっていた。最初は比較的穏やかな環境だと思っていたが、次第にその職場での人間関係が安田を蝕み始めていた。


 工場では、安田の役割は主に品質管理や製品のチェック、簡単なデータ入力が中心だった。しかし、他の派遣社員と同じように、安田も一部の上司からの理不尽な要求に悩まされていた。特に、製造ラインの責任者である佐藤という人物は、部下への態度が粗野で威圧的だった。彼は、作業が少しでも遅れたり、ミスがあったりすると、部下をすぐに怒鳴りつけ、時には職場での失敗を公開の場で非難した。


 ある日の午後、製品のチェックをしていた安田が少し手間取っていると、佐藤が突然近づいてきた。


「おい、安田!何やってんだ?こんな簡単なこともできないのか!お前みたいな奴は、ほんとに役立たずだな!」


 佐藤の言葉は、周りのスタッフがいる前で放たれ、安田は思わず顔が赤くなった。彼は何とか冷静を保とうとしたが、心の中では苛立ちと恐怖が入り混じっていた。佐藤は、そんな安田の反応を楽しむかのように笑いながら、さらに追い打ちをかけてきた。


「いいか、今度ミスったら、お前、もうこの工場にいられないぞ。分かってるよな?」


 安田は言葉を飲み込み、ただ頷くしかなかった。普段は物静かで温和な性格の彼にとって、このような言動は精神的に大きな負担となり、仕事に対するモチベーションをどんどん削っていった。


 佐藤だけでなく、工場の一部の上司や社員たちの間で、安田への扱いはどんどん酷くなっていった。仕事の進捗がわずかに遅れるだけで叱責され、他のスタッフがミスをしても自分が責任を取らされることが多くなった。更に、他の社員たちもその状況を見て見ぬふりをすることが多く、安田は次第に孤立していった。


 一度、安田が昼休みに工場の休憩室で一人静かに過ごしていると、同じく派遣社員の中山が声をかけてきた。


「安田さん、最近ちょっと元気ないですね。大丈夫ですか?」


 安田は、少し驚きながらも、「うん、ちょっとね…」と答えた。中山は心配そうに続けた。


「佐藤さん、あんな感じですからね。あれ、やっぱりパワハラだと思いますよ。もし何かあったら、上に言ってもいいんじゃないですか?」


 安田はその言葉を聞きながら、胸が痛んだ。確かに、パワハラが行われていることを感じてはいたが、長年軍にいた自分としては、このような職場の小さな問題に立ち向かうことに抵抗を感じていた。軍での厳しい環境や戦場での経験があるからこそ、職場でのストレスや圧力に対して「耐え忍ぶ」ことが最も簡単な解決策に思えてしまった。


 しかし、時間が経つにつれて、安田の精神的な負担は限界に達し、ついにある出来事が起きた。ある日の午後、工場内での作業中、安田はミスをしてしまった。それはほんの小さなミスで、すぐに修正できるものだった。しかし、佐藤はその場で激怒し、安田を前にして大声で罵声を浴びせた。


「お前、いい加減にしろよ!こんな簡単な仕事もできないのか!いいか、こんなことが続くなら、お前をクビにするぞ!」


 その言葉に、安田は心の中で何かが切れる音を聞いた。冷静に、落ち着いて反応しようと努めていたが、その場で耐えることができなかった。安田はそのまま、仕事場を飛び出し、工場の外に出て深呼吸をした。太陽の光を浴びながら、冷静になろうとするが、頭の中は混乱していた。


 そして、次の日、安田は上司に会い、ついに声を上げる決意をした。


「佐藤さんの言動が耐えられません。これ以上、この環境で働き続けることができないと思います」


 その言葉が出た瞬間、安田は何かが少し軽くなったような気がした。上司はしばらく黙っていたが、最終的には人事部に報告することを約束してくれた。


 安田はその後、派遣先の変更を申し出たが、何とか他の部署に異動することができた。新しい部署では、少しずつ安田に対する扱いも改善され、以前のような理不尽なストレスから解放されることとなった。


 しかし、この経験は安田に深い影響を与えた。自分が耐えることが「正しい」と信じていたが、無理に耐えることで自分を追い詰めてしまうことに気づいた。安田は、心の中で少しずつ自分を解放し、過去の戦場のようにすべてを背負い込むのではなく、時には立ち向かい、声を上げることが大切だと学んだ。


 そして、安田は改めて自分の人生を見つめ直し、もっと自分を大切にするべきだと感じ始めた。



 6月ももうすぐ終わり、安田は日常の忙しさから少し解放されて、いくつかのことを思い出しながら過ごしていた。久しぶりに映画を見に行こうと思い立ち、イーアスつくばのMOVIXで『あぶない刑事』を観ることにした。学生時代に何度も観たあの映画、そしてテレビドラマが、懐かしい気持ちを呼び起こしていた。安田はかつての自分を振り返りながら、スクリーンに映る刑事たちの姿にじっと見入った。


 映画の後、銀座へ向かうことに決めた。恩師との再会が決まっていたのだ。もう何年も会っていなかったが、恩師からの誘いがあり、久しぶりにその顔を見に行こうと思った。つくばエクスプレスに乗り、東銀座を経由して銀座へ。電車の中で、安田はこれからの会話に思いを馳せた。銀座の街並みが車窓から流れていく様子を眺めながら、懐かしさとともに、あの頃の自分がどれだけ変わったのかを思い出していた。


 銀座に着くと、そこは予想外に歩行者天国で賑わっていた。人々が自由に歩き、道路を使ってイベントが行われていた。安田はその雰囲気を楽しみながら、少し歩いてから恩師との待ち合わせ場所に向かった。久しぶりの再会は、昔話に花が咲き、懐かしい気持ちが溢れた。学び舎で過ごした日々や、あの頃の情熱を再確認した瞬間だった。


 その後、昼食を共にした旧友とも再会することになった。お互いにどれだけ歳月が経ったかを実感しながらも、昔のように自然に会話が弾んだ。気まずかった関係もすっかり解け、和解の時間が流れた。


 安田はその日、映画、恩師、旧友、そして賑やかな銀座の街並みが織りなすひとときに、心から満足し、少しだけ肩の力を抜いて歩きながら帰路に就いた。


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