第61話 女神の怒り ー茉莉亜視点ー
プレアデスを後にし、茉莉亜はいつも通り運転手が待つ車に乗り込んだ。後部座席の柔らかな革張りに身を沈めると、彼女はそっと目を閉じた。静かな車内にエンジン音が心地よく響いている。
運転手の伊藤がバックミラー越しにちらりと彼女の様子をうかがった。
「お嬢様、何かあったように見えますが…お疲れですか?」
茉莉亜は目を開け、フロントガラス越しに広がる夜の街並みを眺めた。
「少し、考えることがあって。」
それだけ言って、再び黙り込む。伊藤はそれ以上何も言わず、静かに車を走らせた。しかし、しばらくすると、茉莉亜がぽつりと口を開いた。
「伊藤さん、正直なところ…人が意図的に他人を貶める行為をどう思う?」
運転手は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な口調で答えた。
「それは…卑怯な行為だと思います。特に、自分の利益のために他人を傷つけるようなことは、決して許されるべきではありません。」
茉莉亜は小さく頷いた。その目は相変わらず冷静で、どこか鋭さを帯びていた。
「卑怯よね。でも、それが現実に起きている。」
「あのカフェのことですか?」
「ええ。」
茉莉亜は短く答えた後、窓の外を眺めた。街灯が車内に柔らかな影を落とし、彼女の横顔を照らしている。
「口コミサイトで不自然な中傷レビューが相次いで投稿されているの。しかも、それが偶然とは思えないくらい計画的に。間違いなく、誰かが仕組んだこと。」
伊藤はハンドルを握る手に力を込めた。
「そんなことが…信じられませんね。」
「信じたくないけれど、これが現実なのよ。」
茉莉亜の声は静かだったが、その中に隠しきれない怒りが込められていた。
伊藤は少し考え込むようにしながら尋ねた。
「お嬢様、その件で何か手を打たれるおつもりですか?」
「もちろん。このまま見過ごすつもりはないわ。」
茉莉亜は冷静な声で答えた。
伊藤はバックミラー越しに茉莉亜をじっと見た。その表情には揺るぎない決意が浮かんでいた。
「お嬢様が怒っていらっしゃるのも無理はありません。ただ…どうかお気をつけください。相手はかなり手強いはずです。」
「わかっているわ。でも、私は引かない。」
茉莉亜の言葉は短いながらも強い意志に満ちていた。
しばらく静寂が続いた後、茉莉亜が小さく笑みを浮かべた。
「伊藤さん、私が怒っているように見えるかしら?」
「ええ、とても静かに、ですが確かに怒っていらっしゃいます。」
伊藤は正直に答えた。
「そう。母もよくこう言ったわ。『本当に怒るとき、人は声を荒げる必要なんてない』って。」
「奥様に似てきましたね、お嬢様。」
伊藤は柔らかく言ったが、その内心では少しぞっとしていた。奥様が静かに怒ったときの恐ろしさは、今でも鮮明に思い出せるからだ。
茉莉亜は小さく微笑むと、再び外の景色に視線を移した。
「さて、次の手を考えなくちゃね。」
車は夜の街を静かに走り続けていたが、茉莉亜の心には冷静で揺るぎない怒りの炎が燃え続けていた。
その晩、茉莉亜は自宅に戻ると、迷わず父親の書斎を訪れた。重厚な木製の扉を軽くノックすると、中から父親の穏やかな声が聞こえてきた。
「入りなさい。」
書斎の中では、父親がソファに腰掛け、手元の資料を読んでいた。普段は威厳に満ちたその姿が、どこか安心感を与える。茉莉亜は静かに扉を閉め、父の向かいに座った。
「茉莉亜か。どうした?」
「お父様、少し相談があります。」
茉莉亜の冷静な声に、父親は資料を置き、娘の目を見た。
「相談とは珍しいな。話してみなさい。」
茉莉亜は簡潔かつ的確に、プレアデスが直面している問題を説明し始めた。口コミサイトでの不自然な評価の急落、中傷レビューの数々、そしてそれらの背後にいると思われる雷央とその父親。彼女の語る内容に、父親の表情が徐々に険しくなっていく。
「つまり、競合が意図的にプレアデスを潰そうとしていると?」
「そうです。直接的な証拠はまだありませんが、状況から見て間違いありません。」
父親は腕を組み、しばらく考え込んだ後、娘の表情をじっと見つめた。その目には不思議な光が宿っている。
「茉莉亜、お前…母さんにそっくりだな。」
「え?」
突然の言葉に、茉莉亜は思わず目を見開いた。
「母さんも怒るときは静かだったよ。表情を崩さず、言葉を選びながら、相手の核心を鋭く突く。私も何度かその目で睨まれて…ぞっとしたものだ。」
父親は小さく苦笑を浮かべたが、その笑みの奥には懐かしさが滲んでいた。
「協力してもらえますか?」
「もちろんだ。」
父親は即座に頷き、スマホを取り出して何かを打ち始めた。その素早い動きに、茉莉亜はほっと胸をなでおろした。
「それにしても、茉莉亜。」
スマホから目を離さず、父親はふと尋ねた。
「プレアデスという店…そんなに大切なのか?」
「ええ、とても。」
茉莉亜は迷いなく答えた。その声には確信が宿っている。
父親はスマホを置き、娘をじっと見つめる。
「それは、友人のためか?」
一瞬の沈黙。茉莉亜は微かに眉を寄せ、少しだけ目を逸らした。
「…友人のためです。」
冷静に答えようとしたが、その声はどこか照れ臭さを隠しきれていなかった。父親はそんな娘の様子を見て、軽く笑った。
「なるほど。母さんもそうだったな。母さんは、好きな人のために本気で怒る人だった。」
「!」
茉莉亜は顔を上げるが、その瞬間、自分の頬が熱くなっていることに気づいた。父親の言葉はあまりに直球で、思わず赤面してしまう。
「そ、それは…!」
「何も言わなくてもいい。」
父親は笑みを深めながら、再びスマホに目を落とした。
「分かるさ。茉莉亜、父親というのは、娘の気持ちを案外よく見ているものだ。」
茉莉亜は悔しそうに口を引き結び、視線を逸らしたが、その頬はまだ赤いままだった。
「とにかく、これ以上あの店を傷つけるような真似は許さないわ。」
「その気持ちはよく分かった。父さんも全力で協力する。お前がそこまで思う店なら、私も守る価値があると思う。」
父親の力強い言葉に、茉莉亜は静かに頷いた。そして心の中で、プレアデスを絶対に守り抜くと再び誓った。
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良ければこちらもご覧ください。
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・ハリネズミ女子飼育日記:僕と彼女の365日間
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今日もお読みいただきありがとうございます。
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