第55話 私が捨てたもの ー花音視点ー
「どうして…どうしてこんなことになったんだろう…」
薄暗い部屋の中で、花音は枕を抱きしめ、絞り出すような声でつぶやいた。涙でにじむ視界に映るのは、スマホの画面。そこには、カフェ・プレアデスの口コミサイトが映し出されていた。低評価レビューがずらりと並ぶ様子に、胸が締め付けられる。
「私のせいだ…全部…私が…」
指が震える。スマホの電源を落とせば、少しは楽になるのかもしれない。それでも、目を背けることができなかった。これが、彼女自身の招いた結果だという現実からは逃げられない。
「ただの…よくある男女の別れ話だと思ってたんだよ。」
枕に顔を埋めながら、小さな声で自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「付き合っていた彼氏よりも、魅力的な男子に惹かれることなんて、普通にあることでしょ?そんなに大したことじゃないって…思ってたのに。」
けれど、それは自分への言い訳にすぎないとわかっている。
昴のことが嫌いになったわけではなかった。ただ、穏やかで優しいだけの彼との関係が、いつしか退屈に思えてしまった。それが、雷央に惹かれた理由だと自分では理解していた。
「でも、それがどれだけ愚かだったのか…どうして気づけなかったんだろう…」
あの日、雷央と一緒にカフェ・プレアデスに行ったとき、澪に叱られた光景が鮮明によみがえる。
『あなたがしたことは、自分だけじゃなく、周りを巻き込んで傷つけてるのよ。』
澪の厳しい声は、あの日の花音の心に鋭く突き刺さった。
『昴がどれだけ辛かったか、あなたには想像もつかないんでしょうね。』
言い返したかった。自分だって、好きで昴を傷つけたわけじゃないと。でも、何も言えなかった。澪の目には、怒りだけでなく、深い悲しみが宿っていたからだ。
「昴だけじゃない…澪さんの大切な店まで…私が壊してしまったんだ。」
あのときはただ言い返せず立ち尽くすだけだったが、今になって、その言葉の意味が痛いほどわかる。
昼間のことが頭を離れない。
雷央が笑いながら言った言葉――
『俺たちを追い出したあの店、もうすぐつぶれるからよ。ざまあみろって感じだよな。』
その瞬間、胸がひどくざわついた。
雷央のその言葉を聞いたとき、自分の中に湧き上がったのは嫌悪感だった。それでも、彼のそばにいる自分がどうしようもなく情けなかった。
「どうして、こんな人に惹かれてしまったんだろう。」
強引で大胆なところが、あのときは魅力的に見えた。でも、今ではその振る舞いに嫌悪感しか抱けない。
雷央のそばにいるのが、今では息苦しい。けれど、そこが自分の居場所になってしまったのも事実だった。
昴のそばで過ごしていた、あの穏やかで優しい時間――。
彼の笑顔、何も言わずにそばにいてくれた安心感。時には、何気ない言葉が心に温かくしみたこともあった。
「私が、自分から捨ててしまったんだよね。」
あの時間に戻りたい。戻って、昴に謝りたい。だけど、もうそれは許されないことだとわかっている。
「昴くんはもう、私のことなんてきっと…」
そう思うと、胸が張り裂けそうになる。
「なんで、あんなことをしたんだろう。」
過去の自分の行動を振り返れば振り返るほど、後悔しか残らない。
「昴くんを傷つけた上に、澪さんの店まで追い詰めて…私なんか…最低だ。」
花音は頭を抱え込み、声をあげずに泣き続けた。
「あの店は、昴くんと澪さんにとって大切な場所なのに…。私なんかが、壊してしまう資格なんてなかったのに。」
「私にはもう、どこにも行く場所なんてないんだ。」
花音は目を閉じ、静かに涙をこぼした。
昴との穏やかな日々は、自分で壊してしまった。それがどれだけ大きな代償をもたらしたのかを、今になってようやく理解したのだ。
「私には、雷央のそばしか居場所がない…」
花音は、自分にそう言い聞かせるように心の中で繰り返した。だが、その言葉がどれだけ虚しく響くか、自分が一番よくわかっていた。
雷央と過ごす時間は、いつもどこか空虚だった。彼の言葉、彼の笑顔、そのどれもが自分の心に何の温もりも与えてくれない。むしろ、彼の強引さや、欲望を隠そうともしない態度に、日に日に嫌悪感が募っていく。
「なんで…こんな人に惹かれたんだろう…」
あの頃、雷央の強引さや自信満々な態度が魅力的に見えたのは確かだった。昴にはない刺激的な部分に、心が揺れ動いた。でも、それが本当に自分の望んでいたものだったのか?
今の花音には、答えはわかっていた。雷央のそばにいることで得られるものは何もない。ただ、彼に捨てられることへの恐怖が、自分を彼に縛りつけているだけだ。
「嫌だ…もう嫌だ…」
心の中で何度もそう叫んでも、結局自分は雷央のそばを離れることができない。
昴と過ごした、あの穏やかな日々。それはもう戻らないとわかっている。自分でその扉を閉じてしまったのだから。だからこそ、今の自分には雷央のそばしか居場所がないと、自分に言い聞かせるしかないのだ。
「でも…こんなの、居場所なんかじゃない…」
雷央のそばにいると、自分の存在が小さく、空っぽなものに感じる。彼に必要とされているのは自分自身ではなく、ただ彼の欲望を満たすための存在に過ぎない。
それでも、彼がいなければ、自分が完全に孤独になるのだと思うと、離れる勇気が持てない。
「昴くん…ごめんね…」
花音は枕に顔を埋め、絞り出すように呟いた。
涙が止まらない。声に出して謝っても、もう昴には届かないとわかっている。
昴の隣には、茉莉亜がいる。彼女の明るさと温かさが、昴を変えていったのだ。前よりも自信に満ちた姿で立つ昴の隣に、自分の居場所はもうない。
「あの時、どうして…」
振り返るたびに後悔が押し寄せる。昴がそばにいてくれた時、自分はどれだけ心穏やかに過ごせていたのか。昴の優しさが、自分をどれほど癒してくれていたのか。
でも、その大切さに気づいた時には、すべてを失っていた。
「私が…全部壊してしまったんだよね…」
雷央のそばにいる自分と、茉莉亜のそばで変わっていく昴。その対比が、花音の心を深くえぐる。
「あんなに魅力的に見えた雷央の強引さが、今はこんなにも嫌で仕方ないのに…」
雷央に抱きしめられるたびに、昴の優しい手の感触が蘇る。雷央に強引に求められるたびに、昴が自分に向けてくれた穏やかな微笑みが頭をよぎる。それがどれだけ失いたくなかったものだったのかを、今さらながら思い知らされる。
「どうして…どうしてこんなことになったんだろう…」
すべてを失った後に気づいた後悔。それは、どれだけ泣いても消えることはない。
雷央のそばにいることでしか、自分の存在を感じられなくなった自分を責める。そして、自分で壊した居場所に、もう一度戻れるならと願う。でも、それは叶わない。
すすり泣きの声が静かな部屋に響く中、花音はただ、自分を責め続けた。
だが、その理解が、花音をさらに深い孤独へと突き落とした。
「昴くん、ごめんね…本当に…ごめん。」
誰に届くわけでもない謝罪を、何度も何度も繰り返した。
部屋には花音のすすり泣きだけが響いていた。
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良ければこちらもご覧ください。
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