第53話 潜む影
カフェ・プレアデスの扉が軽い音を立てて閉じる。昴は外に向かう綾乃の背中を見送り、ホッと息をついた。
「なんとかごまかせたけど、あの話題にはもう触れてこないといいな…」
心の中でそうつぶやきながら、昴は扉を押して店内に戻った。
店内では澪がテーブルを片付けていた。小さなテーブルクロスを整えながら、手際よく店内を整えている。そんな母の背中を見て、昴は少し申し訳ない気持ちを抱きつつも、足を進めた。
「ただいま。」
昴の声に気づいた澪が、手を止めて振り返る。
「おかえり。綾乃ちゃん、喜んでくれた?」
柔らかい笑顔で尋ねる澪に、昴も自然と微笑んだ。
「うん。すごく喜んでたよ。チーズケーキもラテも絶賛してた。」
「そう。よかったわ。あの子、とってもいい子ね。昴、あんな素敵な友達がいるなんて驚きだわ。」
「友達…ね。」
昴は少し照れくさそうに鼻の頭をかきながら答える。
澪は片付けに戻りながら、「こうしてお客さんが喜んでくれると、本当に励みになるのよね」とぽつりと言った。その言葉に、昴の胸にちくりと刺さる感覚があった。
しばらく沈黙が続いたが、昴はどうしても気になっていることを切り出さずにはいられなかった。
「…母さん、ちょっと聞いてもいい?」
昴の声色が少し重くなったことに気づいた澪が、不思議そうに顔を上げる。
「どうしたの?」
「その…口コミサイトのレビューのこと、知っちゃった。」
昴が言いにくそうに続けると、澪は一瞬だけ動きを止めた。そして小さく息を吐くと、疲れたような笑みを浮かべた。
「気づいちゃったのね。」
その表情に、昴は何も言えず黙り込むしかなかった。
「まあ、無理もないわね。最近、あちこちで言われるし、綾乃ちゃんだって気にしてたでしょ?」
「…そうだね。でも、綾乃はすごくいいお店だって言ってくれたよ。本当に気に入ってくれたみたいだった。」
「それは嬉しいわ。でも、現実はそう甘くないのよね。」
澪の言葉は静かだったが、どこか寂しさを感じさせた。
昴は拳を握りしめながら、母の横顔を見つめた。このまま話を聞き流してはいけない、そんな気持ちが心の中で膨らんでいくのを感じていた。
昴は澪の疲れたような表情に気づき、重い沈黙を破るように言葉を発した。
「母さん、何があったの?」
澪は一瞬、昴の目を見て迷うような素振りを見せたが、小さく頷いて話し始めた。
「2カ月くらい前のことよ」
澪はポツリと口を開いた。
「ある日、花音ちゃんが男の子と一緒に店に来たの。確か名前は…雷央くんだったかしら。」
「雷央…」昴の胸がざわめいた。聞き慣れた名前に、自然と拳を握りしめる。
「彼女が来たとき、正直、驚いたわ。あなたを傷つけた直後だったでしょう?そんな顔でここに来られるなんて…」
澪の声には微かな怒りが混じっていた。
「だから、悪いけど帰ってもらったの。そのとき雷央くんが…すごい剣幕で叫んだのよ。『こんな店、潰してやる』って。」
昴は驚きと同時に胸の奥に沸き上がる怒りを感じた。
「そんなことが…どうして今まで黙ってたんだよ!」
「あなたに心配かけたくなかったの。それに、最初は本気にしていなかった。若い子が勢いで言っただけだと思ってたから。」
澪は肩をすくめるように答えたが、そこには言葉では表せないほどの重さがあった。
「でも、それからよ。おかしなことが起き始めたのは。」
澪の表情が一層曇る。
「それまでは定期的に新規のお客さんが来てくれていたけど、急にぱったり来なくなったの。しかも、一週間も経たないうちに。」
「新しいお客さんだけじゃないの。それまで通ってくれていた常連さんも、なんとなく距離を置くようになって…」
澪は手元を見つめ、静かに続けた。
「『口コミが悪いみたいだけど、大丈夫?』なんて心配そうに言われて、それで初めて口コミサイトのレビューを見たの。」
昴は無言で澪の話を聞き続けた。その場にいる自分が申し訳なくなるほどの閉塞感が漂っている。
「信じられないほど酷いことが書かれていたわ。『接客態度が悪い』『店が汚い』『味が落ちた』…そんなデタラメばかり。」
澪は手をぎゅっと握りしめた。
「でも、反論しようにも相手の顔が見えないからどうしようもない。毎日、不安で仕方なかった。」
「そんなとき、突然店に一人の男が現れたの。」
澪は深い息を吐き、当時のことを思い返すように目を閉じた。
「広告代理店の幹部だって名乗る人だったわ。最初は丁寧な感じで、プレアデスのことを褒めてくれてね。最初は『ああ、応援してくれる人なんだ』って思ってた。」
昴は身を乗り出して澪の話を聞く。
「でも、次第に話が変わってきたの。その人が言うには、口コミサイトの評価を上げる方法があるって。お金を払えばいいみたいなニュアンスでね。」
「そんな話、断ったよね?」
昴は苛立ちを隠せず、食い気味に尋ねた。
「もちろん断ったわ。でも、次はもっと露骨な話をしてきたの。」
澪の声が少し震えた。
「『プレアデスをチェーン店のフランチャイズに入れれば、すべての問題が解決する』って。」
「ふざけてる!」昴は拳をテーブルに叩きつけるように言った。
「本当にそう思うわ。でも、あのときは怖かった。断ったらどうなるのか、何か仕掛けられるんじゃないかって。でも、どうしても譲れなかったの。」
澪は目を伏せ、ぽつりと続けた。
「結局追い返したけど、そこからさらにレビューが悪化して、今じゃ新しいお客さんなんてほとんど来ない。」
その場の空気が重く沈み込むようだった。昴は何も言えず、ただ母の話に耳を傾けるしかなかった。
「昴、どうしてこんなことになったのか、私には分からない。でも、店を守りたい気持ちは変わらないの。」
澪の目には、決意と疲れが入り混じった光が宿っていた。
昴は握りしめた拳をゆっくりと緩めながら、深い息を吐いた。
「母さん…絶対に解決の方法を見つけよう。僕も一緒に考えるよ。」
澪は昴の言葉に小さく微笑んだが、その表情はまだどこか不安げだった。
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良ければこちらもご覧ください。
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