第44話 猫と見えたもう一つの顔 ー優翔&千春視点ー

 夕方、茜色に染まる空の下、千春と優翔は並んで歩いていた。少し疲れた表情の優翔と、いつものように冷静な面持ちの千春。しかし、その口調にはどこか呆れたような響きがあった。


「まったく、もう少し計画的に勉強してれば追試なんて受けなくて済んだのに」


 千春は腕を組み、ちらりと優翔を見上げる。いつも無表情気味な千春だが、今日は少し説教モードだ。


「……うっ、それは返す言葉もない」


 優翔は肩を落とし、目線を地面に落とした。まさに自業自得だと分かっている分、反論する気も起きない。それでも、追試の勉強に付き合ってもらったことには心から感謝していた。


「でも、千春のおかげでだいぶ理解できたよ。本当に助かった、ありがとう」


 少し照れくさそうに笑いながら優翔が言うと、千春はわずかに眉を動かし、顔をそらすように前を向いた。


「これくらいで感謝されてもね」


 ぶっきらぼうに返すが、どこか優しい響きが混じっている。


「でも、まあ……頑張りなさいよ」


 千春がそう続けると、優翔は「おう、もちろん!」と答え、いつもの調子を取り戻したように笑みを浮かべる。


 しばらく二人で歩く。道端の木々からは、かすかに揺れる葉音が聞こえ、夕方の静けさが漂っている。優翔がちらりと横を見ると、千春の横顔が目に入った。どことなく落ち着いた佇まいの彼女を見て、ふと感謝の念が再び胸にこみ上げる。


「千春って、ほんと頼りになるよな」


 優翔がぼそりと漏らすと、千春は不意を突かれたように少し驚いた表情を浮かべるが、すぐに冷静さを取り戻す。


「……当然でしょ。誰の世話になってると思ってるのよ」


 言葉とは裏腹に、どこか照れくさそうな様子が見え隠れする。優翔はそんな千春の反応に気づいていないのか、深く頷きながら「確かに」と納得したように答えるだけだった。


 日が沈み始め、辺りは徐々に薄暗くなっていく。学校から家へ続く道は静かで、たまに遠くで自転車のベルが鳴る音が聞こえるだけだった。


 千春はふと足を止めて振り返る。優翔も立ち止まり、「どうした?」と問いかける。


「優翔君、今日の内容、ほんとにちゃんと覚えたのよね?」


 千春が真剣な顔で尋ねると、優翔は「もちろん! もうバッチリだよ」と胸を張る。だが、その自信満々の態度に、千春はじとっとした目を向ける。


「ほんとかな。どうせ家に帰ったらゲームでもして忘れるんじゃないの?」


「そ、そんなことないって! 信じてくれよ」


 優翔は慌てて弁解するが、千春はあきれたようにため息をついた。


「まあいいわ。もし追試で落ちたら、次はもっと厳しく勉強させるから覚悟しといて」


 そう言って再び歩き出す千春。優翔は苦笑いを浮かべながらその後ろ姿を追いかけた。


 千春と一緒に勉強をしているときは大変だと感じることもあるが、それ以上に彼女が支えてくれる安心感があった。そしてその冷静さの裏に、優しさが隠れているのも知っている。


 優翔は心の中で、改めて「千春には感謝してもしきれないな」と思いながら、夕暮れの道を歩き続けた――。



 夕暮れの静かな帰り道に、突然「にゃー」という小さな鳴き声が響いた。


「……ん?」


 優翔が立ち止まり、耳をすませる。千春も足を止めて周囲を見回した。


 再び聞こえる鳴き声に導かれるように視線を向けると、道端の茂みの近くで、小さな猫がこちらをじっと見ていた。ふわふわした毛並みと、首には青いリボンがついた小さな首輪。どう見ても飼い猫だが、ひとりでここにいるのは不自然だった。


「迷い猫かな……?」


 優翔がつぶやく。


 それを聞いた千春は、一瞬の迷いもなく「放っておくわけにはいかないでしょ」と言い放ち、さっそく猫のもとへ向かおうとした。その早い行動に、優翔は慌てて「ちょ、ちょっと千春、そんなに急に近づいたら……!」と声をかけるが、彼女は全く耳を貸さない。


 千春は猫との距離を縮めると、その冷静な表情から一変、まるで別人のような柔らかい笑顔を見せた。


「ほら、大丈夫だよ~。怖くないからね~」


 千春の声色は甘く、優翔が今まで聞いたこともないような優しい響きだった。普段のクールで落ち着いた彼女からは想像もできない変化に、優翔は思わず目を見開く。


「ち、千春……お前、そんな声出せたのか?」


 思わず漏らした言葉に、千春がぴたりと動きを止めた。


 猫は興味深そうに千春を見上げていたが、彼女は優翔のほうを振り返り、少し恥ずかしそうに目をそらした。


「な、なに? 別に普通でしょ……猫相手に怖がらせたら意味ないじゃない」


 普段と変わらない口調で返すが、その耳がわずかに赤くなっているのを優翔は見逃さなかった。


「いやいや、そんな千春、初めて見るから……びっくりしただけだって!」


 優翔は慌ててフォローするが、千春は「ふんっ」と小さく鼻を鳴らして再び猫に向き直った。


「さあ、こっちおいで。お腹空いてるのかな?」


 千春はしゃがみ込み、そっと手を差し出した。その仕草には優しさがあふれていて、普段の彼女の姿からは想像もつかない柔らかさがあった。


 優翔は一歩後ろに立ちながら、その光景を見守る。彼女の知らない一面を目の当たりにしたせいか、胸の奥が不思議な高鳴りを覚えるのだった。


 猫は少し警戒しつつも、千春の甘い声に引かれるように、ゆっくりと近づき始めた――。



「首輪に何か書いてあるぞ」と優翔が猫の首輪をよく見て、付けられた小さなプレートを指さした。そこには名前と電話番号が書かれている。


「これなら飼い主に連絡できるね」と優翔が微笑み、プレートを確認する。


 しかし、千春は少し考え込むような表情を浮かべて、「でも、電話だけだと時間がかかるかもしれない。この辺りに飼い主がいる可能性もあるし、少し探してみない?」と提案した。


 優翔は「まあ、確かに急いでるかもしれないしな」と納得し、二人は猫を連れて近くを探し始めた。


 千春は猫をしっかりと抱きながら、またしても甘い声で「飼い主さん、どこにいるのかな~? ちゃんとおうちに帰らなきゃダメだよ~」と猫に語りかける。その声があまりに柔らかく、優翔は心臓がドキドキするのを止められなかった。


(普段の冷静な千春とは、まるで別人みたいだ……)


 横目で彼女の表情をちらりと見ながら、優翔は心の中でつぶやく。その猫を見つめる瞳は、優しく、穏やかで、なんとも言えない温かさにあふれていた。


 商店街に差し掛かったところで、ふと焦った様子で辺りを見回している女性を二人が見つける。


「もしかして……」と千春がその女性に近づき、「すみません、この猫、もしかしてあなたのですか?」と声をかける。


 女性は目を輝かせて猫を確認し、「ああ! この子です! 本当にありがとうございます!」と深く頭を下げた。


 女性は猫を受け取ると、「もう迷子になっちゃダメよ」と優しく叱りながら、猫の頭をなでる。その姿を見て、千春はどこかホッとしたように小さく微笑んだ。


 優翔はそんな千春の表情に気づき、「千春、ホッとしてる?」と軽く声をかけた。


「……まあね」と素っ気なく答える千春だったが、猫を見送るその目はどこか温かかった。



 猫の飼い主と別れ、二人は再び歩き出した。


 夕焼けが二人の影を長く伸ばす中、優翔はふと千春の横顔を見ながら口を開く。


「なんかさ、千春って普段は冷静だけど……猫に話しかけるときはすごく優しいんだな。ちょっと新鮮だった」


 その言葉に千春は一瞬足を止めたが、すぐに歩き始め、「はあ? 別に普通のことだし」とそっけなく返す。しかし、その耳はわずかに赤く染まっていた。


 優翔はそんな彼女の反応に気づいて小さく笑うと、「でも、千春のそういうギャップ……なんかいいな」と、少し照れくさそうに言葉をつぶやいた。


「……そういうの、簡単に言わないでよ」と小さな声で返す千春。


 だがその言葉には、とがったトーンはなく、どこか照れくさそうで、どこか嬉しそうな響きが混じっていた。


 彼女はわずかに足を速めて前を向く。

 優翔はその後ろ姿を見つめながら、なんとなく胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


 冷静で何事にもクールな千春。だが、猫を優しく抱きしめる彼女の姿は、また別の彼女を見たような気がして――。


 その夕焼けの中、優翔の心には、千春という存在がほんの少しずつ、けれど確実に大きくなっていくのだった。



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 良ければこちらもご覧ください。

 ・直さんは冷静な顔で、俺を殺しに来る

 https://kakuyomu.jp/works/16818093090481722534


 ・ハリネズミ女子飼育日記:僕と彼女の365日間

 https://kakuyomu.jp/works/16818093090591046846


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