第40話 こうして神は堕落する ー花音視点ー

「嘘でしょ……」


 答案用紙に記された点数を見つめる花音。赤ペンで引かれた数字は、赤点ギリギリ。普段は高得点を取るのが当たり前だった彼女にとって、その結果は信じられないものだった。


 周囲の友達は嬉しそうに答案を見せ合い、互いに「やった!」「ここ間違えたんだよね~」と笑い声を交わしている。しかし、花音はそんな輪には入らず、答案を静かに引き出しの中にしまう。


「こんなの、私らしくない……」


 心に重くのしかかるのは、ただの勉強不足ではないという確信だった。


 ふと、机に頬杖をつきながら、花音は小さくため息をつく。そして、気づけば頭の中は過去の出来事へと遡っていた――あの日のことを思い出さずにはいられなかった。



 テスト勉強中、花音はどうにも手が進まず、教科書を開いても何も頭に入らない日々を過ごしていたことを思い出す。ページをめくるたびに心はどこか遠くへ飛んでいき、いつの間にか時間だけが過ぎていた。


 その原因となった出来事――それが、雷央と一緒に行ったカフェ プレアデスでの一幕だった。


 カフェ プレアデスに入った瞬間、常連客と親しげに話していた澪の表情が変わった。そして、その口から放たれた一言――「あなたにはこの店に来てほしくないの」。


 その言葉は、刃物のように鋭く花音の胸を抉った。澪の表情は冷たく、まるで存在自体を否定するかのような視線だった。


「どうして、そんなことを……」


 帰り道、雷央にそのことを話しても「気にするなよ、ただの嫉妬だろ」と軽く流されるだけだった。それでも、花音の胸に刺さったその言葉は消えなかった。


「どうしてそんなことを言われなきゃいけないの……?」


 花音は澪から投げかけられた冷たい一言を何度も反芻していた。無表情ながらも鋭い視線が、まるで自分の罪を暴くかのように思えた。澪の言葉には単なる嫌悪感以上のものが含まれているようで、そこに裏の意味を感じ取らずにはいられなかった。


 その一件以来、澪の言葉の真意を考えようとするたびに、自然と昴との別れが頭をよぎるようになった。


「昴君との別れなんて、ただのすれ違いで終わった普通のことだって思ってたのに……」


 これまで花音は、昴と別れたことを深く考えたことはなかった。それはよくあるカップルの破局であり、特別な意味などないはずだった。しかし、澪のあの一言が、それが間違いだったのだと花音に突きつけた。


 まるで澪が、昴の代わりに自分の浮気という罪を責め立てているかのように感じた。


「なんで私がこんな気持ちにならなきゃいけないの……」


 心の中で湧き上がるのは、罪悪感という名の重い塊。それをどうにか振り払おうと、花音は無意識のうちに自分を正当化し始めていた。


「だって、昴君だって頼りなかったし、私を幸せにしてくれるわけじゃなかった。だから……仕方ないよね」


 その言葉を心の中で繰り返しながらも、澪の鋭い視線はなおも花音を追い詰め続けていた――。


 澪の言葉の裏に隠れた「あなたは昴を裏切った」という無言の非難――花音にはそう感じられた。それは、今まで見ないふりをしていた自分の罪を突きつけられるような感覚だった。


 雷央との浮気が原因で昴と別れたこと。その事実を、澪にあえて口にされなくても指摘されたように思えてならなかった。


「違う……私は悪くない……」


 心の中でそう呟くものの、澪の冷たい視線が繰り返し蘇り、花音の心を締めつける。罪悪感が重くのしかかり、まともに向き合えない自分がいる。それでも花音は、自分を責めることをしたくなかった。


「だって、昴がもっと私を大事にしてくれてたら……!」


「いつも優柔不断で、退屈で、私を満たしてくれなかった昴が悪いんだから!」


 花音は罪悪感を消し去るために、必死に責任を昴に転嫁した。まるで、それが自分の心を守る唯一の手段であるかのように。


「私が浮気したのも、昴君が私に何も与えてくれなかったから……」


 自分を正当化する言葉を繰り返すたびに、心の中の空虚さが広がっていくようだった。それでも花音は目を逸らし続けた。自分の過ちと正面から向き合うには、あまりにも怖かったから。


 澪の言葉で心を乱され、罪悪感から逃れたい花音は、雷央との関係にますますのめり込んでいく。


 雷央の情熱的で大胆な振る舞いは、昴にはなかった刺激を与えてくれた。雷央は花音をいつも激しく求めてくれる。快感と求められる充足感がある間だけ花音は自分の心の揺らぎや罪悪感を忘れられる気がした。


「私には雷央がいる。昴なんかより、ずっと素敵な彼氏が。」


 そう自分に言い聞かせるたびに、花音の心は少しずつ軽くなるように思えた。雷央と一緒に過ごす時間は、彼女にとって唯一の心の拠り所になりつつあった。


 だが、その一方で、雷央との親密な時間を過ごすたびに、ふと昴の穏やかな笑顔が頭をよぎる瞬間があった。無邪気な笑顔で「ありがとう」と言ってくれる昴の姿が、胸の奥で静かに疼く。


「……違う、これは間違ってない。私は幸せになるために、雷央を選んだんだから。」


 花音はそう自分に言い聞かせるように、必死に雷央の方を向く。昴のことを思い出すたびに、強引にその記憶を押し込め、雷央との時間に集中しようと努めた。


 それでも、花音の心には小さなひび割れが残ったままだった。それは、彼女がどれだけ雷央との関係に没頭しても、埋めきれない何かを象徴しているようだった。


「私はこれで幸せなはず。雷央がいれば、私は大丈夫。」


 そう自分に言い聞かせるたびに、花音は雷央との時間に心を預ける。情熱的な言葉、触れる手の温かさ、耳元で囁かれる甘い言葉――それらが彼女の不安や孤独を一時的に和らげてくれるのは確かだった。


 だが、澪の言葉は鋭い棘となって、花音の心に深く刺さり続けていた。


「あなたにはこの店に来てほしくない」


 という冷たく突き放すような言葉は、まるで花音自身の罪を指摘されるような感覚を与え、彼女を見えない檻に閉じ込めているようだった。


 雷央との行為に溺れることで得られる一瞬の満足感。その後に訪れる虚しさと不安は、どれだけ彼との時間を重ねても消えない。花音はその矛盾に気づかないふりを続けたが、心の奥底では薄々感じていた。


「私、何をしてるんだろう……。」


 ふとした瞬間に自分の行動を振り返るとき、過去の昴との平穏な日々が心の中に霞のように浮かんでくる。雷央と違って、昴は穏やかで優しく、何も言わずに寄り添ってくれた存在だった。


 それでも、花音はその現実に向き合おうとしなかった。


「私は間違っていない。昴との関係が退屈だったから、私はもっと幸せになれる道を選んだだけ。」


 そう思い込むことで、彼女は自分の脆くなった心をかろうじて支え続けた。だが、その思い込みが自分自身をさらに苦しめていることに、花音はまだ気づけずにいた。


「幸せって、なんだろう……。」


 小さな疑問が胸の中に生まれ、それが徐々に大きくなっていく予感を抱えながら、花音はただ雷央に身を委ねることで、その答えから目をそらし続けていた――。



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 良ければこちらもご覧ください。

 ・直さんは冷静な顔で、俺を殺しに来る

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 ・ハリネズミ女子飼育日記:僕と彼女の365日間

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