第34話 雨の日に雫を君と

 外は冷たい雨がしとしとと降り続き、学校の窓を薄い灰色に曇らせていた。昴が図書室を選んだのは、静かな環境が欲しかったのはもちろんだが、今日は特に理由があった。雨音が好きだったのだ。


 図書室の窓際の席に座ると、外に広がる雨模様が目に入った。滴が窓を滑り落ち、次々と筋を描いていく。屋根に落ちる雨の音が規則的なリズムを奏で、図書室全体に微かな安らぎをもたらしていた。静寂の中に溶け込むその音が、昴には心地よかった。


「よし、集中しよう。」


 昴は参考書を広げ、ペンを手に取り問題集に取り掛かった。数学の応用問題が並ぶページを見つめる彼の表情は真剣そのものだった。


 雨の日特有の薄暗さを感じながらも、机の上に置かれたランプの柔らかい明かりが、彼の顔を優しく照らしている。図書室の他の生徒たちも、雨の日の静かな空間を楽しむように本を読んだり勉強したりしていた。


 しかし昴はそんな周囲に目もくれず、ひたすらノートに式を走らせていた。


(どうしてもこの部分が理解できないな……どの公式を使うべきなんだろう?)


 彼は頭をかきながら、再びノートに向き直った。


 その時、不意に背後から控えめな足音が近づいてきた。雨音に混じり、その足音はとても静かだったが、どこか聞き覚えのある気配だった。それでも昴は、目の前の問題に没頭していたため、気づく様子はなかった。



 図書室の扉が静かに開き、雨の日特有の湿った空気が一瞬だけ漂う。かすかな足音とともに現れたのは茉莉亜だった。周りの静寂を乱さぬよう、丁寧に扉を閉めると、彼女は一瞬だけ室内を見渡す。そして、視線が昴を捉えると、自然と彼の近くの席に腰を下ろした。


 茉莉亜はカバンからノートやペンを取り出すと何気なく昴の方へ目を向けた。


 昴はノートに目を落とし、眉を少しだけひそめながら問題に没頭している。その表情からは、周りの気配に一切気づいていない様子が伝わる。茉莉亜はそんな彼をしばらく眺めていたが、次第に口元に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。


「……ほんと、真剣だね。」


 茉莉亜は思わず小声で呟いたが、その声も昴の耳には届かなかったようだ。


「そんなに勉強熱心だと疲れちゃうよ。」


 茉莉亜が隣の席から控えめな声で話しかけた。しかし昴は全く反応せず、ペンを走らせ続ける。


「ねえ、問題解けてる? ヒント欲しい?」


 今度は少しだけ声を大きくして、彼の注意を引こうと試みる。しかし、それでも昴は無言のままだった。


 茉莉亜は口を尖らせ、軽くため息をついた。少し拗ねたような表情を浮かべると、隣の昴をじっと見つめる。そして思い立ったように、彼の頬を指でそっと突いてみた――いや、ほんの少し強めに押してみた。


「……ん?」


 突然の感触に、昴は驚いたようにピクッと体を動かし、思わず顔を上げた。彼の目が茉莉亜と合う。


「え、何?」


 昴は頬を片手で押さえながら、少し混乱した様子で問いかける。


「もしかして、無視されてる?」


 茉莉亜は指を引っ込め、少しふくれたように言った。その顔には軽い不満と、ほんの少しの楽しそうな色が混じっている。


「あ、いや……ごめん。集中してて気づかなかった……なにかあった?」


 昴の表情は、ほんのり赤みを帯びている。頬をつつかれたことに驚きつつも、茉莉亜の行動に悪意がないことはすぐに分かった。


 茉莉亜は満足そうに肩をすくめると、ふっと微笑んだ。


「まったく、そんなに真剣にやるなんて、いつもと違うね。」


 昴は苦笑いを浮かべつつ、少し照れたように「そうかな……」と呟いて視線をノートに戻す。けれど、つつかれた頬の感触はまだ残っていて、彼の心に小さな波紋を広げていた。


 外では雨音が静かに響き、二人の間に流れる空気はどこか柔らかさを帯びていた。



 昴はノートに書き込んでいたペンを置くと、大きく伸びをした。


「ふう……やっぱりテスト勉強って疲れるね。」


 彼は肩を回しながら、茉莉亜のほうにぽつりと声をかけた。


 茉莉亜は驚いたように顔を上げ、軽く目を丸くする。


「珍しいね、昴君から話しかけるなんて。」


「いや、さっきは悪かったって。集中しすぎてたみたい。」昴は少し気まずそうに笑いながら頭をかいた。


 茉莉亜はそれを聞いてくすっと笑うと、柔らかく微笑んだ。


「こんなに集中してる昴君、初めて見たかも。」


「そうかな?」


 昴は少し照れくさそうに視線をそらした。


「うん、普段の昴君はどちらかというとぼーっとしてるイメージだから。」


 茉莉亜は冗談めかして言いながら、親しげに彼の顔を覗き込む。


「ひどいな……そんなにぼーっとしてるかな。」


 昴は苦笑いを浮かべたが、どこか穏やかな空気が二人の間に漂っていた。


 外では雨音が変わらず響き、窓越しの景色は少しぼやけている。図書室の静けさの中、勉強の合間の会話が、二人の距離を少しずつ縮めていくようだった。


 雨の音が静かに響く中、茉莉亜はペンを回しながらふと思いついたように口を開いた。


「そういえば、昴君、この前他校の女子と遊びに行ったんでしょ?」


 昴は参考書を閉じ、少し首を傾げる。


「ああ、行ったよ。楽しかった。体を動かすのも、意外と悪くなかったな。」


「ふぅん……」


 茉莉亜は少し目を細めると、探るように続けた。


「で、かわいい子と仲良くなったりした?」


 軽い冗談めかした口調だったが、その声にはどこか微かな嫉妬が滲んでいた。


 昴は一瞬だけ考えるような素振りを見せたが、すぐにさらっと言葉を返す。


「連絡先交換した人はいるけど、茉莉亜さん以上に美人な人はいなかったよ。」


 その何気ない一言に、茉莉亜は目を見開いた。


「えっ……?」


 茉莉亜の驚いた声が漏れた。すぐに顔が熱くなり、頬が赤く染まっていく。


「なにそれ……褒め殺し?」


 少し声を震わせながら言い、目をそらして顔を隠すように手で頬に触れた。


 一方の昴は特に意識することもなく、自然体で言葉を続けた。


「いや、事実だから。」


 その無邪気さに、茉莉亜はさらに動揺した。心臓が少し速くなっているのを自覚しながら、なんとか話を終わらせようとする。


「……もういい!勉強頑張ってね。」


 そう言うと、茉莉亜はそそくさと自分の席に戻り、参考書を開いた。しかし、その後も彼女の耳や頬の赤みは収まらず、ページをめくる手が微妙に震えていた。


 一方、昴はそんな茉莉亜の様子に気づかないまま、再び参考書に視線を落とし、勉強を再開していた。

 図書室に雨音と静けさが戻る中、茉莉亜の心の中だけが、なんだか落ち着かないままだった。


 雨音が図書室の窓を優しく叩く中、茉莉亜は赤くなった頬を抑えるように両手で顔を覆いながら、そっと昴の方を盗み見た。彼は既に参考書に目を戻し、再び勉強に集中している様子だった。


(ほんとにもう……)


 茉莉亜は小さくため息をつき、自分の参考書に目を落としたが、文字が全然頭に入ってこない。昴の無邪気で素直な言葉が頭の中でリピートされ、胸の内が落ち着かない。


(なんであんなこと、さらっと言えるのよ……気づいてないの、ずるい。)


 一方の昴は、茉莉亜のそんな心の揺れにはまったく気づいていない。真剣な顔つきでノートに何かを書き込みながら、眉間にシワを寄せて次の問題を解いていた。


 窓の外では雨がさらに強くなり、時折遠くで雷鳴が鳴る。図書室にはその音が反響するだけで、二人の間には静けさが漂っていた。だが、どこかその静けさには温かさがあった。


 やがて昴がまた一息つき、ペンを置いて伸びをする。そんな彼に、茉莉亜はふっと視線を向け、少しだけ迷った後で言葉を口にした。


「ねぇ、昴君。」


「ん?」


 昴が何気なく顔を上げると、茉莉亜は窓の外をちらっと見てから微笑んだ。


「そろそろ帰ろうか。雨、まだ降ってるけど、傘あるし一緒に帰ろうよ。」


「……ああ、そうだね。」


 昴は時計を確認しながら立ち上がり、軽く伸びをした後、鞄を持ち上げた。


 二人は静かに図書室を後にした。廊下を歩くときも、窓の外の雨音が心地よく響いている。並んで歩く二人の間には、さっきより少しだけ近づいた距離感があった。


 昴は特に何も気にする様子もなく傘を取り出し、茉莉亜の歩調に合わせて歩く。一方の茉莉亜は、ふと昴の顔を横目で見ながら、心の中で小さな笑みを浮かべていた。


(こんな何気ない時間が、一番楽しいかもね。)


 図書室を後にする二人の背中に、雨音が優しく重なる。傘を差しながら一緒に歩く姿は、まるでどこかの小さな物語のようだった。



 ― ― ― ― ―


 良ければこちらもご覧ください。

 ・直さんは冷静な顔で、俺を殺しに来る

 https://kakuyomu.jp/works/16818093090481722534


 ・ハリネズミ女子飼育日記:僕と彼女の365日間

 https://kakuyomu.jp/works/16818093090591046846


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