第25話 その時生徒指導室では?

 放課後の教室。生徒たちのざわめきと笑い声が、日常の穏やかな空気を作り出している。

 昴はいつも通り、机に肘をついてぼんやりと外を眺めていた。特に何を考えているわけでもない。


 そのとき、教室のドアが控えめにノックされ、引き戸が開く音がした。


「空野 昴君、ちょっといいですか?」


 その声に、教室が一瞬、静まり返る。


「……ひより先生?」


 昴が顔を上げると、そこにはひより先生が立っていた。普段のひより先生は、どこか頼りなく、ふわふわとした雰囲気の教師だ。ちょっとしたことでも慌てる姿が、彼女の可愛らしい魅力でもある。


 しかし――今日のひより先生は違った。


 彼女は眉間にわずかに皺を寄せ、唇をきゅっと結んでいる。その姿は真剣そのもので、あの“ドジっ子先生”らしさは微塵も感じられない。

 彼女の表情と声色があまりにも“先生らしい”ため、生徒たちは驚きを隠せずに固まっていた。


「空野君……今すぐ、生徒指導室に来てもらえるかな?」


 真剣そのもののトーン。

 いつもならどこか抜けた笑顔で「あ、ちょっとお話があるんだ~」と告げるひより先生が、今日は違う。冗談ひとつない表情が、教室全体にピリッとした緊張感を生んだ。


「え? 生徒指導室……?」


 昴は面食らった顔をしながらも、反射的に立ち上がる。


 その瞬間――


 クラス中がザワついた。


「え、なんか昴やらかした?」

「マジで? 生徒指導室って……ガチで怒られてるやつじゃん!」

「まさか……停学とか?」


 ヒソヒソと囁きが飛び交い、心配や好奇心の入り混じった視線が昴に集中する。

 普段、目立つタイプではない昴が、こんな形で注目を集めるのは珍しい。


「いや、ちょ、なんで僕?なんかやっちゃいました?」


 昴は困惑の色を浮かべながらも、ひより先生の真剣な目に促され、しぶしぶ教室を出る。

 その後ろ姿を、クラス全員が見送った。



 ひより先生が真面目な顔で昴を連れ出したというだけで、教室は騒然としたまま、妙な緊迫感が残る。

 そんな中――


「……何よ、あれ。」


 椅子に座ったまま、千春が眉をひそめる。

 茉莉亜は心配そうに昴が去ったドアを見つめ、優翔は興味津々な表情で鼻を鳴らす。


「なあ、これ……ちょっと様子見に行かねぇ?」


 優翔が提案したその言葉に、茉莉亜と千春は顔を見合わせる。そして次の瞬間、3人はほぼ同時に席を立った――。



 廊下の隅にひっそりと集まる、優翔、茉莉亜、千春の3人。


「なあ、絶対これ、面白ぇことになってんだろ。」


 優翔が小声で言いながら、生徒指導室のドアを指さす。彼の表情は完全に楽しそうだ。まるで今からお祭りでも始まるかのように、期待に満ちた目をしている。


「優翔君、そんなこと言ってる場合じゃないよ! 昴君、なんか怒られてるのかも……どうしよう、停学とかだったらどうしよう……!」


 一方、茉莉亜は焦った様子でオロオロしている。手を胸の前でぎゅっと握り、今にも涙目になりそうな勢いだ。


「だ、だってひより先生、あんな真剣な顔してたよ? なんか……いつもと違ったし!」


「……うるさいわね、茉莉亜。そんな簡単に停学になるわけないでしょ。」


 冷静な声で窘める千春が、ため息をつきながら2人の間に立つ。彼女の表情はいつもの落ち着いたままだが、眉がわずかに動いているあたり、多少は興味があるようだ。


「ただ、生徒指導室っていうのは確かに引っかかるわね。昴君、何かやらかしたのかしら。」


「ほらな、千春だって気になってんじゃん。」


 優翔がニヤリと笑うが、千春はすぐにキッと睨み返す。


「別に気になってるわけじゃないわ。ただ、あなたたちがうるさいからついてきただけよ。」


「千春、もうちょっと優しくしてよ~……昴君が心配なんだよぉ。」


「はいはい。じゃあ静かにしなさい、茉莉亜。声が大きいわ。」


 ――そんなやり取りをしつつ、3人は生徒指導室のドアの外でピタリと立ち止まった。


「……なあ、ちょっと聞こえるんじゃね?」


 優翔がニヤつきながら、ドアに耳を寄せる。茉莉亜もつられて「ごめんね、昴君……!」と小さく呟きながら耳を傾ける。千春は呆れた顔をしながらも、結局2人と一緒に聞き耳を立ててしまう。



 生徒指導室の中は、いつもとは違う静かな空気が流れていた。窓から差し込む光がカーテン越しに揺れている。そんな中、ひより先生がデスクの向こうに立ち、真剣そのものの顔で昴に向き合っていた。


「空野君……この前は本当にごめんなさい!」


 ひより先生は深々と頭を下げる。いつものドジっ子で可愛らしい雰囲気とは違い、心の底から反省している様子だ。昴は思わず目を丸くした。


「いや、別に気にしてないですけど……」


 軽く手を振り、フォローする昴。


「でも!」


 ひより先生は顔を上げ、真剣な瞳で言葉を続ける。


「あんな酔っ払った姿を、生徒に見せるなんて……先生として本当に恥ずかしいことをしてしまいました。教師失格です……!」


「はあ……」


 昴は苦笑しつつ、椅子に座ったまま頭をかきながら返す。


「あの時、先生、めちゃくちゃ謝ってましたし……そんなに気にしなくてもいいと思いますけど。」


「ダメなんです!」


 ひより先生がテーブルに手をつき、勢いよく言い放つ。その真剣な迫力に昴が思わずビクッとする。


「先生として絶対にしてはいけないことをしてしまいました。あの時のことが、ずっと忘れられなくて……!」


「あ、あの時のことって……そこまでですか?」


 昴は少し引き気味に言いながらも、ひより先生の熱意に圧倒されてしまう。


「はい。……それに、あの時の私、本当に酷かったですし。でも……」


 ひより先生は頬を少し染めながら、どこか申し訳なさそうに、しかし真剣に言葉を紡ぐ。


「……『家に来てほしい』って言ったのは、本当だよ。それくらい空野君のご飯は美味しかったんです」


「――は?」


 昴の脳が一瞬停止した。ひより先生はそのまま続ける。


「でも、酔った勢いで言っちゃったから……本当にごめんね。もうお酒も控えます! 空野君に迷惑かけないように……。」


 そこまで言い切ると、ひより先生は再び頭を下げる。昴は目を泳がせながら、何とか言葉を絞り出す。


「いやいや、先生、そんな……。僕、別に迷惑とか思ってないんで。」


「本当?」


 ひより先生が少しだけ顔を上げ、心配そうに昴を見つめる。昴はその視線を受けて、仕方なさそうに苦笑する。


「まあ、先生も大変なんですね。」


 その言葉に、ひより先生は驚いたような顔をする。


「空野君……!」


「なんですか、その感動した顔は。」


 思わず呆れたように言う昴だったが、ひより先生は何だか嬉しそうに笑った。


「……ありがとう。」


 生徒指導室の中には、なんとなく穏やかな空気が戻っていた――。




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