第22話 放課後の特訓?

 一日の授業が終わり、教室には静けさが戻っていた。机に突っ伏していた昴は、ため息を一つ吐く。目を閉じれば、今日の体育の光景が頭の中に浮かんでくる。


 ――泥まみれで転ぶ自分。

 ――雷央の余裕たっぷりな笑顔。

 ――遠くから聞こえる女子の「やりすぎじゃない?」という囁きと、「スポーツだし、しょうがないよね」と笑う声。


「……情けないな。」


 小さく呟いて顔を上げる。窓の外では、もう夕方の気配が漂い始めていた。誰もいない教室に、机を引く小さな音が響く。


 ――運動は苦手。自分でもわかってる。

 これまでだって、体育の授業は「適当にやり過ごす」ことばかり考えてきた。走るのも遅いし、球技も下手。少し動けばすぐ息が切れる。だけど――今日の雷央のあの態度。


「お前なんか相手にならねぇよ。」


 そんな言葉が耳にこびりついて離れない。以前の自分なら、ふてくされて終わりだ。でも、今は違う。自分を変わろうと決意しているため、胸のどこかに、言葉にならない悔しさが残っている。


「……このままじゃダメだな。」


 昴は立ち上がり、拳を軽く握る。誰に見せるわけでもない、ちっぽけな決意。でも、このまま負けっぱなしのままで終わるのは、もうイヤだった。



 人気のない体育館裏。夕焼けに照らされた地面がオレンジに染まる中、昴は深呼吸をして走り出す。


「よし、まずは軽くランニングだ!」


 だが――


「はぁっ、はぁっ、ぜぇぜぇ……無理……」


 わずか数分で息が上がり、止まる。膝に手をついて、ぜぇぜぇと荒い呼吸をする昴。汗がじっとりと額を流れ、少し後悔が顔に滲む。


(……こんなんで、どうやって見返すんだ。)


 自分の体力のなさに呆れつつも、それでも昴は立ち上がる。ランニングだけじゃダメだと、次は柔軟を始めるものの――


「うっ、痛い! 足、伸びない! ……なんでこんなに固いんだよ……」


 足を開こうとしても、まるで鉄の棒のように固い体が言うことを聞かない。無理に伸ばそうとすれば痛みが走り、思わず顔をしかめる。


 夕方の静かな風が体育館裏を吹き抜ける中、昴は地面に座り込んだ。息を整えながら、空を見上げる。


 ――どうせ笑われる。それでもやるしかない。


 今のままじゃ、ずっと「負けっぱなし」だ。それだけは、どうしても許せなかった。


「……ちょっとずつでもいい。やってやる。」


 小さな声で呟き、昴は再び立ち上がる。遠くの校舎からは、部活の掛け声やボールが弾む音が聞こえてくる。誰もいない体育館裏で、昴の孤独な「特訓」が始まろうとしていた。



 昴の孤独な「特訓」が体育館裏で続いていた。ランニング、ストレッチ、腕立て伏せ――どれもまともにできているとは言い難いが、昴はそれでも必死だった。泥まみれで悔しがった昼間の自分を思い出し、歯を食いしばる。


「はぁ、はぁ……腕立て伏せってこんなキツいもんなのか……」


 プルプルと震える腕を見つめながら地面に突っ伏しそうになるその瞬間――


「昴くん、頑張ってるね」


 突如として、優しく声がかけられ、驚いて顔を上げると、そこには茉莉亜が立っていた。明るい笑顔、風になびく髪、そして手にはジュースを2本持っている。


「……茉莉亜さん?! なんでここに?」


「昴くんがこっそり体育館裏に行くから気になって。こっそり見てると運動してるから応援しに来たの」


 茉莉亜はジュースを昴に差し出しながら笑顔で話す。


「昴くんが頑張っているなら私も手伝ってあげる!」


「いや、いやいや、見ての通りたいしたことしてないから! 気にせず帰って!」


「何言ってるの! こんな頑張ってるところ見たからには、私も手伝うしかないでしょ!」


「手伝う!? ……いや、いいよ、大丈夫だから!」


 必死に断る昴をよそに、茉莉亜は勝手に「手伝うモード」に突入した。


「よーし! 私がコーチになるからね! 任せて!」


「ねえ、聞いて! 僕、そういうの求めてないから!」


「大丈夫大丈夫! 昴君を立派なスポーツ男子にしてみせるよ!」


 茉莉亜は腕まくりをし、意気揚々と昴の隣に立つ。そして指導(?)が始まった。


 ――まずはランニング。


「頑張れー! 昴君、いいペースだよー! その調子っ!」


「はぁ……はぁっ、いや、足が重いんだよ……」


「大丈夫、大丈夫! 気合いで乗り切れるって!」


 ――次にストレッチ。


「はい、体をぐーっと伸ばしてー! もっと前に倒してみて!」


「いや、これ以上は無理だって……」


 昴は座ったまま、前屈しようとするが、ガチガチに硬い体が言うことを聞かない。そんな様子を見た茉莉亜が、楽しそうに声を弾ませる。


「もう、全然曲がってないじゃん! ちょっと手伝うね!」


「手伝う!? いや、いいって!」


 焦る昴の背後に、茉莉亜が無邪気に回り込む。そして両手を昴の背中に当て、グッと押し始める。


「ほらほら、もっと倒れるはずだって!」


「む、無理! 無理だって、曲がらない!」


 茉莉亜は容赦なく力を込めるが、昴の体は一向に柔らかくならない。すると――


「ちょっと……手だけじゃ押せないなぁ。よし、全力でいくよ!」


「え!? ちょ、待っ――」


 次の瞬間、茉莉亜が体全体を使って昴を押し始める。自分の体重をかけるように、茉莉亜は昴の背中に覆いかぶさる形になった。


「ぐぅっ!? 近い、近いからっ!!」


 茉莉亜の胸が背中に当たり、焦りで顔が一気に真っ赤になる昴。


「え? 何? もっと力入れた方がいい?」


「いやいやいや! そうじゃないってば!」


 茉莉亜はまったく気にしていない様子で、楽しそうに押し続ける。その無邪気な笑顔と、背中越しに伝わる感触に、昴の心臓は異様な速さで跳ねる。


(やばい、心臓止まる……!)


「はい、あともうちょっと! 頑張れー!」


「だから近いっての!」


 ――体育館裏に響く昴の叫びと、茉莉亜の楽しそうな声。周囲には誰もいないはずなのに、妙に恥ずかしくなりながら、昴の「特訓」は続くのだった。

「ううん、ちゃんとできてるよ! 昴君、天才かも!」



「ちょっと、何してるのかと思えば……そのフォーム、ひどすぎるわね。」


 突如として冷ややかな声が飛び、茉莉亜と昴が同時に振り向いた。体育館裏に立っていたのは千春。制服のリボンをきっちりと締め、長い髪が風に揺れている。


「あ、千春! なんでここに?」


 茉莉亜が嬉しそうに声をかけるが、千春は腕を組んだまま昴を睨みつける。


「茉莉亜と昴くんの声が聞こえたからちょっと寄ってみたの。……それにしても昴くん、その運動……あまりにひどすぎるわ。」


「うっ……いいでしょ、別に。」


 顔を赤くする昴に、千春はズバリと言い放つ。


「そんな中途半端な特訓じゃ意味がないわ。きちんとしたフォーム、正しいやり方をしないと、効果なんて出ないんだから。」


「うっ……そこまで言う?」


「放っておけないわね。少しは私が教えてあげる。」


「いや、いいって! もう十分――」


「昴くんは頑張ってるんだよ! 千春、厳しすぎ!」


 茉莉亜が割って入るが、千春は引かない。


「甘やかしてどうするの? いい加減なやり方じゃ、本人のためにならないわ。」


「楽しくやるのが一番だって! 厳しくしすぎたらやる気なくしちゃうでしょ!」


「やる気なんて甘いことを言ってるから、結果が出ないのよ!」


「楽しく続けるほうが大事でしょ?」


 茉莉亜と千春が睨み合う。明るく前向きな茉莉亜と、ストイックな千春。二人の言い分は真っ向からぶつかり、昴はその間でオロオロする。


「……ね、ねえ、二人とも落ち着いて……」



 そして始まる、千春の本気指導。


「ランニングはかかとから着地しない! 足全体で着地するように!膝を柔らかく使って、リズムよく走りなさい。」


「はいはい、昴くん! 気合いだよ! 踏ん張って!」


「腕立て伏せは胸までしっかり下ろして。そんな中途半端な動きじゃ意味がない。」


「もうちょっと楽しくやろうよ~! 昴君、ファイトっ!」


 昴は必死に指示に従うが、体力はとうに限界を迎えていた。腕は震え、足はガクガク、顔は汗まみれ。


「もう無理……勘弁してください……」


 その場に崩れ落ちる昴。


「ほら、やっぱり厳しすぎるよ!」


「根性が足りないだけよ。」


 再び言い合う茉莉亜と千春。だが、倒れ込んだままの昴は、少しだけ笑っていた。


(……二人とも、面倒だけど、まぁ……ありがとな。)


 心の中でそう呟きながら、少しだけ前向きな気持ちになっている自分に気づく。


「……もう少しだけ、頑張ってみるか。」


 夕焼けの体育館裏。小さな決意と共に、昴の放課後特訓はこうして続いていくのだった。



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