第19話 月夜の優しさ

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多くの方に本作を読んでいただき本当にありがとうございます。

本作をこれからも楽しんでもらえるように頑張ります!



― ― ―


 日曜日の夜、空野家のリビングには静けさが広がっていた。


「痛てて……」


 ソファに横になりながら、昴は顔をしかめる。昨日の筋トレのせいで、全身がバキバキに痛む。少し動くだけで全身に鈍い痛みが走る。


 キッチンで片付けをしていた澪が、静かに昴の方に視線を向けた。


「昴、そんなにひどいの?」


「……ひどいに決まってんだろ。」


 澪は苦笑しながら、手を止めてリビングへやって来る。


「だから言ったじゃない。無理しないようにって。」


「……優翔のせいだ。」


 澪は息子の愚痴に軽く笑いながら、テーブルに座る。少しだけ真剣な顔で問いかけた。


「ねぇ、昴。最近、花音ちゃんと何かあったの?」


 昴は一瞬、動きを止めた。


「え?」


「だって……最近、花音ちゃんカフェに来なくなったでしょ?」


 澪の声は優しいが、どこか探るような響きがある。母親として、息子の変化に気づいているのだろう。


「……何もないよ。」


 昴は目をそらして、そう答える。しかし、澪は黙って見つめてくる。優しくて、けれど逃がさない母の眼差しだ。


「何もないわけないでしょ。」


 澪は腕を組みながら、どこか納得がいかない様子で息をついた。


「……今日だって、花音ちゃんじゃなくて別の女の子がカフェに来たでしょ?」


 昴の眉がピクリと動く。澪は、その様子を見逃さなかった。


 澪は、じっと昴を見つめる。


「ねぇ、本当のこと言いなさい。」


「……本当のことも何もないよ。花音は――」


 そこで言葉を切ると、昴は眉間に皺を寄せて唇を噛む。どうやら、自分でもまだ言いたくないことなのだろう。それでも、澪の眼差しは変わらない。優しさと真剣さが混ざった、母の目だ。


「昴。」


 その一言だけで、逃げ場を失う。昴は観念したように、深く息を吐いた。


「……分かったよ。全部話す。」


 リビングには、静寂が落ちた。夜の静けさが一層重く感じられる。


「……花音とは別れたんだ。」


 昴が吐き出したその一言は、思ったよりも小さく、弱々しいものだった。


 澪の表情がわずかに変わる。


「別れたって……どうして?」


 問いかけは静かだが、その裏には息子を気遣う母の心が見える。


 昴は、視線を落としながら唇を噛みしめる。その沈黙の時間が、何よりも言いにくさを物語っていた。親に恋愛の話をするなんて、普段から恥ずかしい。ましてや幼馴染であり、これまで近すぎるほど当たり前に一緒にいた花音との関係が壊れたことを伝えるのは、余計に辛い。


「……僕なりに、大事にしてたつもりだったんだ。」


 声がかすれ、昴は言葉を絞り出すように話し始めた。


「でもさ……花音は優しいだけでつまらないって言ったんだ。」


 澪の眉がピクリと動く。それでも、まだ口を挟まずに黙って息子の話を聞いている。


「それに……」


 昴の手がソファのクッションをぎゅっと握りしめる。指先に力が入り、その肩が少し震えていた。


「花音は浮気してたんだ。」


 途切れ途切れの声で告白する昴。その言葉は重く、部屋に沈んだまま静かに響く。


「浮気……?」


 澪の表情が変わった。静かな、けれど確かな怒りの色が浮かぶ。その瞬間、澪がまとう空気が、さっきまでとは一変する。


「……あぁ。他の男と一緒にいるのを見たんだよ。」


 昴の声には、苦しさと悔しさ、そして少しの自嘲が滲んでいた。目の前のリビングテーブルの端を見つめたまま、彼は動かない。言葉にすればするほど、自分の中の惨めさが溢れ出してしまうようで、耐えられなかった。


「――なんてこと。」


 低く、抑えた声が澪の口から漏れる。その瞬間、澪の瞳には、まるで氷のような冷たさが宿った。普段の温かく優しい母親の顔は、どこにもない。 澪はゆっくりとテーブルに置いていた手を握りしめる。白くなるほど力が入っているのがわかる。


「……花音ちゃん、カフェにはもう出入り禁止にするわ。」


「えっ……?」


 昴は思わず顔を上げる。


「待ってよ、母さん……それは――」


「当たり前でしょう?」


 澪は冷たく笑った。いつもの柔らかい笑みとは真逆の、不気味なほど静かな笑みだ。


「浮気なんてした挙げ句、昴を傷つけて……そんな子、もう二度と『プレアデス』には来させないわ。」


 澪の声は穏やかだが、どこか容赦がない。まるで凍てつく風のような冷たさを帯びている。


「出禁にした上で……あとどうしてくれようかしらね。」


 その言葉を最後に、澪の表情に浮かんだ笑みは、昴にとって少し怖いくらい冷たいものだった。息子を傷つけた相手への怒りを静かに燃やし、その処遇を楽しむかのような余裕すら感じさせる。


「……母さん、落ち着いて。」


 昴は、少し引きつった表情で澪に言う。冷静に見える母親が、こんな風に怒る姿を初めて見たのかもしれない。その凄みに、思わず怯える自分がいる。


「大丈夫よ、何もしないわ。――今のところは。」


 澪はサラリとそう言いながら、何事もなかったかのように立ち上がる。けれど、その背中からは確かな威圧感が漂っていた。


「……母さん、怖いよ。」


 小さく漏らした昴の言葉に、澪は振り向いて、ふわりと笑う。今度はいつもの穏やかな笑みだ。


「大丈夫よ、昴。母さんは、あなたを守るだけだから。」


 昴はソファに深く座り直し、ため息をつく。いつも穏やかな母が怒ると、ここまで怖いとは思わなかった。 花音に裏切られた痛みはまだ残るが、澪の怒りがどこか心強いものにも感じられて、少しだけ心が軽くなるのだった。


「昴。」


 優しい声に、昴は顔を上げる。


「あなたは、何も悪くないわ。」


 その一言に、昴の目が少しだけ揺れた。


「だって、あなたは優しさを持って彼女に接してきたのでしょう? それは何一つ、間違っていない。」


「でも――」


 昴が反論しようとするより早く、澪の言葉が重ねられる。


「つまらないと感じたのなら、それは花音ちゃんの問題よ。人の優しさを退屈だなんて言うのは、傲慢で幼稚だわ。」


 その声音は淡々としているのに、確かな怒りを含んでいる。澪の言葉の一つ一つが、まるで鋭いナイフのように昴の胸に突き刺さる。そして、母親が息子を想って怒っていることが、痛いほど伝わってくる。


「浮気なんて――そんなことをして、彼女は何も考えていないのね。」


「……いや、花音は……」


 言いかけて、昴はそれ以上言葉が続かなかった。花音の行動をどうフォローしようとしても、自分の中に湧き上がる痛みが邪魔をする。自分が否定されたという苦しさ、裏切られたという悔しさ――それが昴の中で渦を巻いていた。


 澪はゆっくりと息を吐くと、ソファに座る昴の隣に静かに腰を下ろした。


「ねぇ、昴。」


「……なんだよ。」


 澪の声は穏やかで慈愛に満ちていた。


「今は、無理に強がらなくていいのよ。悔しかったんでしょう?」


 昴は答えない。代わりに、目を伏せる。その瞳にうっすらと浮かぶ涙の気配を、澪は見逃さなかった。


「……僕はくだらないんだよ。」


「何がくだらないの?」


「大事にしてたつもりだったのにさ……全部、無駄だったみたいで。」


 澪はゆっくりと昴の頭に手を置く。そして、優しく髪を撫でる。まるで小さい頃、泣いた時にそうしたように。


「無駄なんかじゃないわよ、昴。」


「……」


「人を大切に思うことは、決して無駄にはならない。それがたとえ報われなくても、あなたの気持ちは間違っていなかった。」


 その言葉に、昴は少しだけ肩の力を抜く。涙を見せることはなかったが、目の奥に溜まっていた重たい何かが、少しだけ軽くなった気がした。


「……ありがと。」


 ぼそっとつぶやく昴に、澪は柔らかく微笑む。


「いいのよ。いつでも話しなさい。」


 昴は何も言わず、ただ目を閉じる。リビングには再び静けさが戻るが、それはさっきまでの重苦しいものではなく、少しだけ温かさを帯びていた。


 母としての静かな怒りを胸に、優しげな笑みを浮かべながら、澪はゆっくりとキッチンに戻るのだった。



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