第17話 揺れる視線 ー茉莉亜 & 花音視点ー

 ―茉莉亜視点―


 土曜日の昼下がり。茉莉亜は母の買い物につき合わされて、車の助手席に座っていた。窓の外をぼんやりと眺めながら、早く家に帰りたいなと小さくため息をつく。


「茉莉亜、ちょっとこの辺で待っててね。すぐ戻るから。」


 母の声に軽く頷き、彼女はひとり車の中に取り残された。エンジンが止まり、静寂が辺りを包む。ふと気づけば、外は土曜日らしい穏やかな光景で、歩道にはショッピングバッグを手に楽しそうに歩く人々が目に入る。


 ――そんなときだった。


 彼女の目が、不意にある二人の姿を捉えた。


「あれ……昴君?」


 車窓の向こう、交差点を渡っているのは見慣れた後ろ姿の少年だった。周りにはたくさんの人がいるのに、彼だけは一瞬で見分けがついた。茉莉亜は息を止め、そのまま目を凝らす。


 彼の隣には……千春の姿があった。


 彼女は軽やかなワンピース姿で、少し前を歩く昴に笑顔で何かを話しかけている。時折振り返って、昴がぶっきらぼうながらも照れたように返事をしている様子が、遠くからでも伝わってきた。


「……一緒に美容院に行くって、言ってたものね。」


 茉莉亜は最初、努めて平静を装い、小さな声でそうつぶやいた。千春が昴を美容院に連れて行く――その話は、金曜日に千春本人から聞いていた。だから、それほど驚くことでもない。千春のことは友達だし、彼女が面倒見の良い性格だということも知っている。


 けれど、今の二人の姿は――


 まるでデートみたいに見えた。


 髪を切って少し雰囲気が変わった昴。最初に目に入ったとき、その印象がいつもよりずっと「かっこいい」と感じてしまったことに、茉莉亜は自分でも驚いていた。けれど、それよりも今は隣にいる千春の存在が気になって仕方ない。


 二人は歩道を並んで歩いているだけなのに、妙に楽しそうに見える。千春が笑うと、昴は何だかんだ文句を言いながらも、少し頬を緩ませている。


「……なんか、いい雰囲気じゃない。」


 茉莉亜の胸に、チクリと小さな痛みが走る。


 ――違う。二人はただ友達として出かけているだけ。千春だって、きっと昴のことをそういう風には思っていない。茉莉亜はそう思い込もうとした。けれど、心のどこかで別の声が囁く。


「こんな姿、今まで見たことなかったのに……」


 千春は自然に昴の腕を軽く引っ張りながら、ショーウィンドウの前で立ち止まる。何か楽しそうに話して、昴が少し気恥ずかしそうに笑っている姿が見えた。


 ――まるで恋人同士みたい。


 気づけば、茉莉亜の手がぎゅっと膝の上で握られていた。


「……私、何やってるんだろ。」


 視線を落とし、心の中でそうつぶやく。別に、千春が悪いわけじゃない。彼女は明るくて、面倒見が良くて――誰からも好かれる。そんな千春だからこそ、昴とも自然にこうやって一緒に過ごせるのだろう。


 ――それに比べて、自分はどうだろう。


 茉莉亜は静かに目を伏せた。昴とはたまに学校で話す程度。幼馴染というほど昔からの繋がりがあるわけでもないし、共通の話題だってそれほど多くはない。ただ、茉莉亜にとって昴は――気になる存在。


「ああもう……」


 茉莉亜は思わず、シートにもたれかかり、天井を見つめた。


 ――こんな風に悩んでいたって、何も変わらないのに。


 もう一度窓の外を見ると、二人の姿はショッピングモールの方へと歩いて行っていた。


 その背中が少しずつ遠ざかっていくのを見ていると、急に焦燥感が込み上げてくる。


「……私ももっと積極的にならなきゃ。」


 そう呟いた自分の声が、予想以上に強い決意を含んでいたことに驚く。


 ――だって、このままじゃ……


「とられちゃう。」


 茉莉亜は心の中でそう続け、もう一度手をぎゅっと握りしめた。


 千春は何も悪くない。彼女は自然体で、誰に対しても優しい。それはわかっている。それでも、昴の隣に立つ千春の姿に、自分の中でモヤモヤとした気持ちが抑えられなくなる。


「次、私も……昴君を誘ってみようかな。」


 ――もし、千春が昴を誘えるなら。自分にだって、その権利はあるはずだ。


 窓の外はすっかり人波が途切れて、静かになっていた。茉莉亜はまっすぐ前を向くと、小さく息を吸い込んだ。


「……よし。」


 その瞬間、車のドアが開き、母が荷物を抱えて戻ってくる。


「茉莉亜、お待たせ! 遅くなっちゃったわね。」


「ううん、大丈夫。」


 茉莉亜はいつも通りの笑顔を浮かべる。けれど、その心の中にはさっきまでとは違う、小さな炎が灯っていた。


 ――次こそは、自分から。


 そう決意した茉莉亜は、遠く離れていく昴の後ろ姿をもう一度思い浮かべながら、少しだけ頬を赤らめた。


「……頑張ろう。」


 彼女の決意は、誰にも聞こえないほど小さな声だったけれど――その心には、確かな強さが宿っていた。



 ―花音視点―


 土曜日の夕方、花音は駅前の人混みの中を無言で歩いていた。隣には雷央がいて、相変わらず軽い口調で話しかけてくる。


「花音、腹減ったな。ちょっとあのカフェ寄ってくか?」


「あ、うん……別にいいよ。」


 適当に返事をする花音の声には、どうしても力が入らない。今日は、朝から雷央とのデートだった。映画を観て、その後はホテルで過ごした――そんな一日。


 もちろん、デートと言えばそれが普通なのかもしれない。だけど、最近のレオとの時間はどこか違う。


 彼はいつも自分のやりたいことを優先する。見たい映画、行きたい場所、食べたいもの。レオは悪びれることなくそれを言葉にし、花音はそれに合わせるだけだった。


 ――今日の映画だって、本当はあんまり興味がなかったのに。


 そんな不満が、胸の中でじわりと膨らんでいく。


「花音、今日の映画、最高だったよな! あのアクションシーン、やばかったわ。」


 雷央は満足げに笑いながら花音の肩を引き寄せる。その仕草に、彼女は反射的に身を引いた。


「あ……うん。すごかったね。」


「なんだよ、テンション低いな。次は俺んち寄ってくか?」


 彼の軽い口調に、花音は思わず顔を曇らせる。ホテルを出たばかりだというのに、またそういうことを言い出す彼に、内心ため息をつきたくなる。


 ――雷央は最近、私の気持ちなんて考えてくれてない。


 彼と付き合い始めた頃は、刺激的で楽しかった。昴との穏やかな関係に退屈していた花音にとって、雷央の情熱的なアプローチは新鮮だったからだ。


 だけど今は、どこか違う。


「……もう少し、私のしたいことにも付き合ってくれてもいいのに。」


 心の中でつぶやいて、唇をぎゅっと噛む。


 ――昴君なら、こんなことはなかった。


 ふと、頭の中に昔の記憶が浮かぶ。昴はいつだって花音を優先してくれた。デートの場所を決めるときも、食事をする店を選ぶときも、「花音が行きたいところでいいよ」と優しい笑顔で言ってくれた。


 その記憶が、今の雷央との時間と重なり、余計に心を乱す。


「……違う、そんなこと考えちゃだめ。」


 自分を振り払うように、花音は頭を軽く振った。昴とはもう別れたのだ。今さら過去に戻りたいわけじゃない。戻れるわけがない。


 それなのに――


「……ん?」


 ふと、目の前の人混みの中に、見覚えのある姿を見つけた。


 花音の足がぴたりと止まる。


「花音? どうした?」


 雷央が不思議そうに彼女の顔を覗き込むが、花音はそれどころではない。視線の先にいるのは――昴だった。


 「え……昴君?」


 彼は千春と一緒に歩いていた。いや、ただ歩いているだけなのに、何かが違う。


 ――髪が、短くなっている。


 花音は思わず息をのんだ。


 昴の髪はいつも伸びっぱなしで、どこか無頓着な印象があった。それが今は、見違えるほどさっぱりと整えられ、少し大人びた雰囲気を漂わせている。


 服装だって、いつもと違う。シンプルなシャツとジャケット――それだけなのに、驚くほど彼に似合っていた。


「……嘘、でしょ。」


 花音はその場で立ち尽くし、昴の姿を目で追い続けた。


 彼の隣には千春がいて、楽しそうに話しかけている。昴も、いつものぶっきらぼうな表情の中に、少し照れたような笑顔を見せていた。


 ――そんな顔、見たことない。


 長い間、幼馴染として過ごしてきた昴。花音は彼のことなら何でも知っているつもりでいた。


 だけど今、目の前にいる昴は、どこか別人のように見えた。


 ――昴君、変わった。


 思えば、BBQのときから何かが変わり始めていたのかもしれない。あのとき、彼が見せた意外な一面。茉莉亜や千春と笑い合う姿が、どこか遠くに感じた。


「花音? どうしたんだよ、急に黙って。」


 雷央が訝しげに彼女の顔を覗き込む。


「あ、ううん。何でもない。」


 花音は慌てて笑顔を作り、視線を戻す。


 ――違う。昴は私の過去。今は雷央がいる。


 そう自分に言い聞かせるけれど、胸の奥がざわつくのを止められない。


 彼が千春と笑いながらショッピングモールに入っていくのを見届けると、花音はそっとため息をついた。


 ――昴君、何だか遠くに行っちゃったみたい。


「花音、どうした? 体調悪いのか?」


 雷央が心配そうに聞いてくるが、花音は適当に「大丈夫」と答えた。


 雷央の隣にいても、心の中には違う人の姿が浮かんでしまう。


 ――私、また昴君に惹かれてる?


 その考えが浮かんだ瞬間、花音は慌てて首を横に振った。


「違う、そんなことない……。」


 でも、その否定の言葉はどこか空虚に響いた。


 遠くに行ってしまったように見える昴。けれど、本当は――彼に追いつけないのは自分の方かもしれない。


 花音はそんな自分に気づいて、そっと唇を噛んだ。


「花音? ほんとに大丈夫か?」


「うん、大丈夫。」


 雷央の隣を歩きながら、花音はもう一度遠くを見る。


 ――もっと私を優先してくれる人がいい。


 そう思って選んだはずのレオ。だけど、心の中でどうしても拭えない昴の存在が、花音の心を揺らし続けていた。



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