第15話 垢ぬけた横顔
土曜日の朝、ダイニングテーブルで朝食を取っていた昴は、いつも通り無言でパンをかじっていた。そんな彼に、母親の澪が明るい声で話しかける。
「昴、今日の予定は決まってるんでしょ?」
「……ああ。」
無愛想に答えながらも、昴は頭の隅で千春との約束を思い出す。そして、少し気まずそうに口を開いた。
「……ねぇ、今日美容院行くからさ。お金くれない?」
澪は一瞬「ん?」と目を丸くしたが、すぐに納得したようににっこりと微笑み、財布を取り出した。
「はい、昨日の報酬ね。これで美容院代も出しなさい。」
テーブルに千円札数枚を置く澪。昴は少し不満げに眉をひそめながら、それを受け取った。
「なんで僕が美容院なんだよ……。髪なんかどこで切っても一緒じゃないか」
ぼやく昴に、澪はピシャリと返す。
「うっとうしい前髪、切ってきなさい。不衛生。」
「……そこまで言うか。」
少し不機嫌に顔をそむけながらも、昴はそれ以上何も言わなかった。彼の前髪が伸び放題なのは事実で、確かに少し邪魔になり始めていたからだ。
満面の笑みでコーヒーを飲む澪に対して、昴は「……ったく、朝から人の扱い雑だよな」と小さくつぶやき、朝食を再開した。
土曜日の昼過ぎ、昴は少し気だるそうな顔で駅前の待ち合わせ場所に向かっていた。休日の駅前は人混みでごった返しているが、その賑やかな空気にどこか居心地の悪さを感じてしまう。
「……やっぱ人多いな。」
そう呟きながら周りを見渡していると、遠くでひときわ明るい声が聞こえた。
「昴くん! こっちこっちー!」
手を大きく振っているのは千春だ。彼女は鮮やかなイエローのワンピースに白いスニーカーを合わせていて、カジュアルながらもどこか華やかな印象を与えていた。軽やかに風に揺れるワンピースの裾と、肩に掛けたトートバッグが彼女のセンスの良さを引き立てている。
「昴くん、遅いよー! ほら、美容院行くよ!」
「いや、時間ぴったりだろ。」
昴は少し呆れた顔で時計を確認するが、千春は意に介さず、嬉しそうに昴の腕を引こうとする。
「今日こそ、ちゃんとカッコよくしてもらおうね!」
「……なんで僕が。」
文句を言いながらも、昴は観念したようにその場に立ち尽くす。しばらく千春を見つめた後、小さく息を吐き出した。
「まあ……どうせなら、変わるきっかけにするか。」
昴のその一言は、自分自身への小さな決意のようでもあった。昔から美容院が苦手だったのも、自分の見た目に無頓着だったのも、結局は周りからどう見られるかを気にしすぎていたからだ。それを千春に引っ張られる形ででも変えていけるなら――少しは前に進める気がした。
駅前を抜け、千春と昴は美容院に向かって歩いていた。千春は落ち着いた笑みを浮かべながら、昴の隣を歩いている。彼女の柔らかな雰囲気は、いつものことながら昴の心を妙に落ち着かせる。
「昴くん、髪伸びっぱなしだったから、今日はきれいにしようね。」
千春の言葉は優しいが、どこか決意に満ちている。昴は少し顔をしかめてため息をつく。
「……別に、いいでしょ。伸びてても。」
「良くないよ。昴くん、ちゃんと髪を切ったら、きっと素敵になるんだから。」
千春は柔らかい声で言いながら、歩調を崩さずに昴を見上げる。その自然な仕草に、昴は少し視線をそらして口を開いた。
「……美容院って落ち着かないんだよ。何を話せばいいかわからないし、流行りの髪型とかも興味ないし。」
「ふふ、昴くんらしいね。」
千春は小さく笑い、少し歩幅を合わせて昴の顔を覗き込む。
「でもね、きれいに整えるだけで、気分がちょっと変わるかもしれないよ。」
「……変わる、か。」
昴はぼそっと呟きながら、どこか不機嫌そうに前を向く。それでも千春の言葉が妙に引っかかり、少しだけ心が揺れるのを感じていた。
「美容院が苦手なのはわかるけど、大丈夫。私も一緒にいるから。」
千春の声は穏やかで優しい。強引に引っ張るわけでもなく、ただ隣に寄り添うようなその言葉に、昴は反論する気も失せてしまった。
「……別に怖がってるわけじゃないよ。」
「うん、知ってる。」
千春はにこっと笑い、歩く速度を少し緩める。
「でもね、昴くんがちゃんと髪を切ったら、もっと自信がつくと思うの。私も、そんな昴くんが見てみたいなって思って。」
「……僕なんか、そんな変わらないよ。」
「そんなことないよ。」
千春は言葉を重ねると、優しく笑いかける。その表情には押し付けがましさは一切なく、ただ昴を信じているかのような温かさがあった。
「昴くんって、ちゃんと見た目を整えたら、きっとすごく素敵になるから。」
昴はその言葉に少し戸惑い、顔をそらして小さく呟いた。
「……ま、せっかくだし、任せてみるか。」
その言葉を聞いた千春は、安心したように微笑んだ。
「うん、それでこそ昴くん。」
ゆったりとした時間の中で、千春の穏やかな言葉と笑顔が昴の心に少しずつ変化をもたらしていた。彼女の寄り添うような優しさに、昴は知らず知らずのうちに前向きな気持ちになっていく。
「……まったく、しょうがないな。」
ぼやきながらも、昴はどこか小さな期待を抱えつつ、美容院へと歩を進めていった。
おしゃれな外観の美容院が目の前に現れると、昴は思わず足を止めた。大きなガラス窓から中の明るい雰囲気が見え、店内には軽やかな音楽が流れている。
「……本当にここに入るの?」
昴は一歩後ずさりするが、千春が穏やかに微笑みながら、さりげなく背中を押す。
「大丈夫だよ。ここ、すごくいいお店だし、みんな優しいから。」
千春の落ち着いた声に促され、昴はしぶしぶドアを開ける。中に入ると、受付カウンターの向こうから明るい笑顔の美容師が顔を出した。
「いらっしゃいませ! 千春ちゃん、久しぶり~!」
その美容師は、千春の担当でもあるらしく、柔らかな雰囲気の明るい男性だった。
「あ、今日は予約の昴くんね。初めてかな? 緊張しなくて大丈夫だよ~。」
美容師の屈託ない笑顔に、昴は少し戸惑いながら小さくうなずく。
「……まあ、そんな感じです。」
千春は隣から一歩前に出て、美容師に軽く言葉を添えた。
「美容院慣れてないんで、似合う感じにしてやってください。」
千春の穏やかな一言に、美容師は親指を立ててにっこり笑う。
「任せて! さっぱりさせて、かっこよく仕上げるから安心して。」
昴はまだ少し緊張していたが、千春の柔らかい笑顔と美容師の明るさに、少しだけ肩の力が抜けていった。
カット用の椅子に座り、昴は鏡に映る自分を見つめる。ケープを巻かれると、なんとなく落ち着かず、ぎこちない姿勢になる。
「……なんか、妙に落ち着かないな。」
「ふふ、すぐ慣れるよ。」
千春が待合席から優しく笑いかける。美容師はハサミを持ちながら、気さくに話し始めた。
「髪質、すごくいいね。柔らかくてまとまりやすそうだよ。」
「あ、そうですか……?」
昴は少し戸惑いながらも、会話のテンポに少しずつ慣れていく。美容師の軽い冗談や世間話に、緊張も徐々に和らいでいった。
「せっかくだから、動きが出る感じで、爽やかに仕上げるね。これから新しい自分、って感じにしちゃおう。」
「……はい、お願いします。」
鏡越しに見える千春が、まるで我が事のように嬉しそうに微笑んでいる。
「いいじゃん、いいじゃん! 絶対かっこよくなるよ。」
「……言いすぎだよ。」
そう言いつつも、昴の口元はわずかにほころんでいた。ハサミの音とともに少しずつ髪が整えられ、鏡の中の自分が見慣れないほど変わっていく。
「どうかな?」
仕上げにワックスで軽くセットされると、鏡の中にはさっぱりと整った昴がいた。以前の重たい髪型が嘘のように軽やかで、顔立ちが一層引き立って見える。
「……なんか、思ってたより悪くないな。」
ぼそっと呟いた昴の言葉に、千春が嬉しそうに声を上げた。
「おおっ、別人みたいじゃん! ね、やっぱり整えると全然違う!」
千春の無邪気な笑顔に、昴は少し照れたように視線をそらす。
「言いすぎだって……。」
それでも、鏡の中の自分をもう一度見つめ、昴はどこか誇らしげな表情を浮かべた。髪型が変わっただけなのに、なんだか少しだけ自分に自信が持てる気がした。
千春はそんな昴を見て、穏やかに微笑む。
「ね? 髪を切るって、ちょっと気持ちも変わるでしょ。」
「……まあ、少しはな。」
昴はぼそっと答えながらも、心の中で千春の言葉に静かに頷いていた。
美容院を出たばかりの昴に、千春が明るい声で提案した。
「ねえ、このまま服も買いに行かない? せっかく髪型も変えたんだし、次は服だよ!」
「は? 服なんて別に――」
昴はあからさまに拒否の姿勢を見せるが、千春は穏やかな笑顔で「いいからいいから」と手を引いた。
「似合う服を選んであげるから、ちょっとだけ付き合って?」
その柔らかな言葉に押されて、昴はしぶしぶショッピングモールへ向かうことになった。
モールの店内に入ると、千春は早速店を見渡しながら服を選び始める。
「これとかどうかな? 絶対似合うと思う!」
彼女が選んだのはシンプルな白シャツと細身のパンツ。昴は手に取って渋い顔をする。
「こういうの、俺には似合わねぇって……」
「そんなことないよ。髪もすっきりしたんだし、試してみて?」
千春は柔らかく促し、試着室へと送り出す。
試着室のカーテンを開けると、千春が満面の笑みで拍手した。
「ほら、やっぱり似合うじゃん!」
昴は鏡の中の自分を見て、少し驚く。
「……意外と、こういうのもありかも。」
シャツ一枚で印象がガラリと変わり、髪型とも相まって垢抜けた雰囲気になっている。千春は得意げに笑う。
「ほらね、私の目に狂いはないでしょ?」
「……まあ、悪くはないな。」
昴は照れ隠しのように視線をそらしながらつぶやくが、どこか嬉しそうだ。
服を選び終わった後、二人はモール内のカフェで休憩することに。千春が楽しそうに笑いながらストローをくわえる。
「なんかさ、こうやって一緒に買い物するのって、ちょっとデートっぽくない?」
昴はその言葉に反応し、照れたように顔をそらし返す。
「……そうでもないでしょ。」
「ふふっ、照れてる?」
千春の穏やかな笑顔に、昴は少し言葉に詰まるが、コーヒーをすすって誤魔化す。
「……まあ、悪くないかな。」
その小さなつぶやきを聞いた千春は嬉しそうに微笑む。
夕方、外に出ると西日が二人の姿を長く伸ばしていた。
「今日はいい感じになったね、昴くん!」
千春が満足げに言うと、昴は軽く肩をすくめながらも悪くない表情で返す。
「あー、疲れた……」
そう言いつつも、昴の足取りはどこか軽やかだった。
ふとショーウィンドウに目をやると、そこには髪型も服装もすっかり垢抜けた自分が映っていた。昴は少しだけ立ち止まり、その姿を見つめる。
「……俺も、少しは変わったのかな。」
鏡越しに映る自分に、わずかな笑みを浮かべる昴。千春はそれに気づかないふりをしながら、穏やかな声で言った。
「次は何を変えようかな?」
「……もういいっての。」
そう言い合いながら二人は歩き出す。その後ろ姿は、どこか新しい一歩を踏み出したかのように見えた。
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今日もお読みいただきありがとうございます。
★★★評価、応援、コメントをお待ちしています。頂けたらとても励みになります。
まだの方がいましたら是非お力添えをお願いします!
皆様の応援が何よりの活力でございます。よろしくお願いします。
こんな小説も書いています。よければご覧ください。
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