第7話 新学期の始まり
春の陽射しが穏やかに降り注ぐ校舎前。掲示板の周りには、新しいクラス分けを確認しようとする生徒たちが集まり始めていた。昴はその少し離れた場所に立ち尽くしていた。
胸の内で、小さな戦いが繰り広げられている。
「何を怖がってるんだ……ただクラス分けを確認するだけじゃないか。」
自分を奮い立たせるように呟くが、足は簡単には動かない。新学期、どんなクラスメイトがいるのか。昨年のようにぼっちのままになるのではないか。そんな不安が頭をもたげるたびに、体が硬直する。
「……天音さんもいるし、大丈夫だよな。」
彼女のことを思い出すと、ほんの少しだけ勇気が湧く。自分を変えたい。そう思わせてくれた茉莉亜との約束を胸に、昴は掲示板に向かって歩き出した。
列の最後尾に並ぶと、目の前でざわざわと話し込む生徒たちの声が耳に入る。
「同じクラスだな、よろしく!」
「今年の担任誰だろうな?」
彼らの笑い声や親しげなやり取りを聞くたびに、昴は自分と彼らとの距離を痛感する。背中に汗がじわりと滲むのを感じながら、掲示板に目を向けた。
空野昴――2年3組。
自分の名前を指で追い、そこからゆっくりと周囲の名前を確認する。
「天音茉莉亜……天音さんも同じだ。」
ほっと胸を撫で下ろす。自分にとって、茉莉亜が同じクラスというだけで、この新学期が少しだけ明るいものに感じられる。
しかし、その安堵もつかの間、視線の先に別の名前が飛び込んでくる。
「雷央。……花音。」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
頭の中に、昨日の出来事がフラッシュバックする。雷央のあざ笑うような表情、花音の冷たい言葉。そして、自分が茉莉亜と新しい一歩を踏み出そうとしている今、この二人と同じクラスになる。
「……運命なのか。」
皮肉めいた言葉が心の中をよぎる。だが、それを深く考えないように頭を振った。過去は過去。茉莉亜が言っていた通り、変わるためには前を向かなくてはならない。
「よし……。」
深呼吸を一つ。そうして掲示板を離れた昴は、新しい教室に向かって歩き始めた。
彼女との約束がある。変わらなきゃいけない。
その思いだけが、今の昴を支えていた。
昴は教室の入り口に立ち止まり、クラス全体を見渡した。初日らしい慌ただしさが漂う中、目立つのは雷央を中心としたグループだった。彼らはまるで旧知の仲のように盛り上がり、教室の一角を完全に支配しているように見える。
一方で、教室の隅には茉莉亜の姿があった。彼女は黒髪の少女と静かに会話を交わしている。その黒髪の少女――
千春は茉莉亜に負けず劣らずの美貌を持ち、どこか凛とした品格がある。すらりとした姿勢と控えめな表情が相まって、周囲の騒がしさとは無縁の落ち着きを醸し出していた。
そんな千春と茉莉亜が並んでいる姿は、まるで完成された絵画のようだった。二人とも華やかな美しさを持ちながら、それをひけらかすこともなく、教室の片隅で穏やかな空気を共有している。その静けさは、雷央を中心とした賑やかなグループの喧騒とはまるで別世界のようだった。
彼女たちの美しさは自然と周囲の目を引きつけていたが、本人たちはそれを気にする様子もなく、ただ静かに言葉を交わしていた。
さらに視線を移すと、一人席に座って黙々と何かを食べている男子が目に入った。茶髪で筋肉質な体つきのその男子は、まるで周囲の存在を気にしていないかのようだった。その手にはエネルギーバーが握られており、ひたすら口を動かしている。
「天音さんとの約束……」
昴はふと思い出した。昨日の夜、茉莉亜に言われた言葉が胸に響く。
「新学期が始まったら、まずは自分から誰かに話しかけてみること。それが小さな一歩になるわ。」
簡単なことだと茉莉亜は言っていたが、昴にとっては簡単どころか険しい山のように感じていた。
その場から動けずにいると、心の中で別の声が囁く。
「できなかったら、約束のご褒美もらえないぞ……」
昨夜のやり取りが鮮明に蘇る。赤面しながら「どんなコスプレがいい?」と尋ねる茉莉亜の姿。自分の性癖が思わず漏れそうになったのを必死で抑えた記憶。それを思い出すと、なんとかしなければという焦りが彼を突き動かした。
「ここでやらなきゃ……!」
決意を固めた昴は、意を決して教室の中へと足を踏み出した。しかし、どこに向かえばいいのか分からず、視線は自然とエネルギーバーを食べる男子に向かう。
「相手が興味を持つ話題を振ると、話しやすくなる。」
茉莉亜のアドバイスが脳裏に浮かんだ。男子の手にあるエネルギーバー。それが唯一の手がかりだと判断し、昴は緊張で固くなった手を軽く握りしめながら一歩ずつ歩み寄った。
昴は何度も深呼吸し、心の中で「できる、やるんだ!」と自分を奮い立たせた。プロテインバーをもぐもぐしている男子生徒をちらちら見ながら、意を決して声をかける。
「えっと……それ、トレーニング用の食べ物?」
男子は一瞬驚いたように顔を上げると、口元を拭きながら答えた。「ああ、これ?プロテインバーだよ。筋トレするなら必需品だぜ。」
「そ、そうなんだ。ていうか、君……いい身体してるよね。」
その瞬間、男子は目を丸くし、急に腕を組みながらニヤリと笑う。
「おいおい、もしかして……俺の身体目当てか?」
「ち、違うから!」
昴は全力で首を振る。
「そういう意味じゃなくて、なんていうか……その、筋肉がすごいなって思って!」
「筋肉がすごい?」
男子は片腕を曲げて力こぶを作りながら得意げに笑う。
「まぁな!見てみろ、この二頭筋!あとこの三角筋!最高だろ?」
「いや、そこまで見てないから!」
昴は顔を真っ赤にして慌てた。
男子はそんな昴の様子を見てさらにニヤニヤする。
「お前さ、筋肉に興味あるってことは……筋肉フェチか?」
「ちがうってば!」
昴は思わず声を上げる。
「ただ、すごいなって思っただけで……。」
「思っただけ?」
男子は目を細める。
「おい、それってつまり“見るだけで満足”タイプか?」
「お前どんな解釈してんだよ!」
昴は頭を抱えつつ、つい笑ってしまう。
昴はふと、茉莉亜のアドバイスを思い出した。「相手が興味を持ちそうな話題を振ると、話が弾みやすくなる」――よし、次だ。
「えっと、どんなトレーニングしてるの?」
昴は恐る恐る尋ねる。
「お、いい質問だな!」
男子はうれしそうに腕を組み直した。
「基本はウェイトトレーニングと有酸素運動だな。あと、体幹トレーニングも欠かせない!」
「体幹?」
「そう!例えばプランクとか。毎日やれば姿勢も良くなるし、身体の軸が整うぞ。」
「へぇ……。俺でもできるかな?」
「もちろんできるさ!むしろ初心者にはピッタリだ。お前も筋トレ始めてみたら?なかなか楽しいぞ!」
昴は少しだけ勇気を出して笑った。「考えてみるよ。」
男子は満足そうに笑い、
「いいじゃん!俺、
「俺は空野昴。よろしく。」
その手を握り返すと、昴は小さく笑った。新しい一歩を踏み出した実感が、ほんの少しだけ彼の心を軽くした。
昴と優翔の会話が弾む様子を、茉莉亜は教室の隅から見つめていた。千春と話をしているふりをしながら、視線はちらちらと昴の方へ向けられている。
昴がぎこちなくも自分から声をかけ、少しずつ会話を広げていく様子に、茉莉亜の口元が自然と緩んだ。昨日までの彼とは違う。その小さな一歩が愛おしい。
「……何見てるの?」
不意に千春が小首をかしげながら尋ねてきた。彼女の視線を感じ、茉莉亜は驚いたように肩を揺らした。
「え、えっと……何でもないわ。」
慌てて視線を戻し、微笑んで取り繕う。千春は不思議そうな顔をしながらもそれ以上突っ込むことはなかった。
しかし茉莉亜の心は落ち着かないままだった。胸の中には、昴が誰かと笑顔で話している姿を見られた安堵と、自分も昴と話したいというわずかな嫉妬が交錯していた。
「頑張ってるわね、空野くん」
そう心の中で呟き、茉莉亜は再び千春との会話に集中しようと努めたが、時折昴の方を盗み見る自分を止められなかった。
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