第3話 女神との約束

 昴は、公園のベンチに座り込んだまま、何も言わずにぼんやりと空を見上げていた。目の前に広がる青空は、晴れ渡っているはずなのに、昴の胸の中には重たい雲が渦巻いていた。花音と雷央の姿が、どうしても頭から離れない。彼の心の中では、何もかもが崩れ去っていた。


「……こんなことになるなんて、思ってもみなかった。」


 昴は、自分の声がどこか虚ろであることに気づく。何もかも、無駄に感じていた。花音との思い出、笑顔、そして共に過ごした時間すべてが、ただの幻想だったのかもしれないと、急に冷徹な気持ちが心に湧き上がってきた。


 その時、ふと隣から声がかかった。


「空野くん。」


 昴は、驚いて横を見ると、そこには茉莉亜が座っていた。彼女の長い金髪が風に揺れて、まるで天使のような光景だった。茉莉亜は、いつものように穏やかな表情で、昴のことを見つめていた。


 ――天音茉莉亜。

 彼女は学校で1、2を争う美少女として有名だった。男子たちの間で密かに「高嶺の花」と称される存在だ。その理由は一目見れば分かる。整った顔立ちに、腰まで伸びた艶やかな金髪。透き通るような白い肌と、その涼しげな瞳。どこを切り取っても完璧で、まるで異世界の住人のようだった。

 けれど、その美貌以上に彼女を特別な存在にしているのは、その立ち振る舞いだった。茉莉亜はいつもクールで、男子とはほとんど話さない。時折交わされる声や表情は冷ややかで、近寄りがたい雰囲気を纏っていた。実際、彼女に直接声をかけられる男子などほとんどいない。

 それだけではない。茉莉亜の家は地元でも有名なお金持ちで、彼女自身もどこか気品を感じさせる言動をしていた。そのせいか、彼女は同年代の男子にとって「高嶺の花」どころか、もはや「別世界の存在」とさえ思われていた。


「天音さん……?」


 そんな彼女が、自分に話しかけているという事実に昴は完全に面食らっていた。

 昴は、茉莉亜を見て一瞬、目をそらした。茉莉亜は、花音との関係を知っているのだろうか?それでも、彼女はこうしてそばにいてくれる。昴は胸が苦しくなるのを感じながらも、茉莉亜に視線を戻す。ただ、今の自分の苦しさを昴は誰かに共有したかった。


「俺、少し頭を整理したいんだ。」


 昴は、そっと息をつきながら話し始める。幼馴染の花音と高校に入学したころに付き合いだしたこと、しかし最近関係が上手くいっていないと感じていたこと、今日浮気の現場を見てしまったこと、全てを打ち明けた。茉莉亜は穏やかに、黙ってすべてを聞いてくれた。二人はしばらく沈黙のままで座っていたが、その静寂が、逆に昴を落ち着かせてくれた。


「……天音さん、どうして俺にこんなに優しくしてくれるんだ?」


 昴が、ぽつりと尋ねる。茉莉亜は微笑みながら、目を優しく細めた。


「だって、空野くん。私はあなたのことを大切に思っているから。」


 その言葉に、昴は胸の奥で何かが温かくなるのを感じた。だが、その気持ちを持っても、彼の心はまだ痛んでいた。花音の裏切りが、どうしても消えないのだ。


「でも、どうして俺だけがこんな思いをしなきゃいけないんだろう?花音は、雷央のことが好きだって言ってた。俺が何をしても、結局はその気持ちには勝てないんだ。」


 昴は、声を震わせながら言った。茉莉亜は黙って昴の話を聴いている。その優しい表情に、昴は少しだけ心が軽くなった気がした。


「空野くん、あなたは本当に素直な人ね。」


 茉莉亜は、少し笑いながら言った。昴は不思議そうに彼女を見つめる。


「でも、私はね、空野くんに伝えたいことがあるの。」


「伝えたいこと……?」


「うん。私、空野くんに提案があるの。もし、よければ、私の話を聴いてほしい。」


 茉莉亜は、ゆっくりと昴を見つめながら言った。昴は少し驚いた表情を浮かべる。


「提案って……なんだ?」


 茉莉亜は、昴の目をじっと見つめると、ゆっくりと口を開いた。


「空野くん、見返してみたくはない?」


 昴は、茉莉亜の言葉に驚いた。その問いかけに、どう反応すればいいのか分からなかった。


「見返すって……?」


「うん。神宮司さんや天道くんを見返してやるんだよ。」


 茉莉亜の言葉には、どこか強い意志が感じられた。


「あなたは、もっと自信を持って生きるべきだと思う。」


「でも、どうしてそんなことを?」


 昴は首をかしげながら尋ねた。茉莉亜は優しく笑みを浮かべて言った。


「だって、空野くんにはその力があると思うから。」


 昴はその言葉に戸惑いながらも、心の中で何かが少しずつ変わり始めるのを感じた。


「見返す……。でも、どうすればいいんだろう?」


 昴は、まだ不安げに言った。茉莉亜は、彼の言葉を真剣に聴きながら、ゆっくりと答えた。


「まずは、自分を変えることから始めよう。自分を信じることから始めるんだ。」


 その言葉に、昴は少し考え込みながらも、うなずいた。茉莉亜は優しく微笑みながら、昴を見守っている。


「私は、空野くんが変わる姿を見てみたい。そして、そんな空野くんを、みんなに見せつけてやってほしい。」


 その瞬間、昴の心の中に何かが芽生えた。それは、ただの好奇心や期待ではなかった。茉莉亜の言葉が、昴にとって一つの道しるべとなる予感がした。


「天音さん、ありがとう。俺、やってみるよ。」


 昴の言葉には、少しだけ力強さが込められていた。茉莉亜は、にっこりと笑った。


「いいえ、空野くん。あなたが本気で自分を変えたいと思ったとき、私はずっと応援するよ。」


 その言葉に、昴は少し照れくさそうに笑った。少しだけ前を向けたような気がしていた。


「でもね、空野くん。今日、約束してほしいことがあるんだ。」


「約束?」


「うん。これからは、私と一緒に自分を変えていこうね。君が輝く姿を、私は楽しみにしているから。」


 その言葉に、昴は胸の奥で小さな決意を抱いた。自分を変えるために、どうしても必要な一歩を踏み出すべきだと感じた。自分が変われば、花音や雷央に対して、何かを証明できるかもしれない。


「約束だね、天音さん。」


 昴は、少しだけ微笑んで答えた。茉莉亜も、優しく微笑みながら、うなずいた。

 昴は決意を新たに、茉莉亜と共に新たな一歩を踏み出す決心を固めた。


 その後、しばらくの沈黙が続いた後、茉莉亜が、今度は少し恥ずかしそうに言った。


「それじゃあ、空野くん。あの、もし良ければ……私にしてほしいことはない?」


 昴は、再び驚きの表情を浮かべる。


「え?してほしいこと……?」


 茉莉亜は、うなずきながら微笑んだ。


「変わろうと努力した結果が出たらご褒美をあげないと。見返りがあれば、よりやる気も出るでしょ?空野くんがお願いしたいこと、私に言ってくれたら、ちゃんと答えるから。」


 昴は茉莉亜の優しい笑顔に、心の中で何度も自問自答を繰り返していた。この場面で、自分がどうすればいいのか、どうするべきなのか。何もかもがわからなくなり、思わず目の前の茉莉亜に顔を背けた。


「でも、天音さんが言ってくれたから……」


 昴は、困惑しながらつぶやく。茉莉亜が微笑んで、彼に言葉をかけてきた。


「じゃあ、空野くん。何かお願いしてみて?」


 昴は思わず言葉を詰まらせた。彼女がそんなふうに言ってくれるのは嬉しい反面、どうしていいかわからない自分に焦っていた。何を頼めばいいのか、全く見当がつかない。


「え、えっと……その……」


 しばらくの沈黙が続いた。昴の心の中では、「どうしよう?」という声がこだましている。しかし、ふと一つの思いが頭に浮かんだ。それは、あまりにも自分の恥ずかしい欲望を、思い切って口に出してしまいたくなるような衝動だった。


「コスプレ……してほしい。」


 昴はそうぽろっと言ってしまった。その瞬間、自分でも驚いてしまい、顔が真っ赤になっていくのがわかる。急に顔が熱くなり、視線を茉莉亜から逸らすことしかできなかった。


 茉莉亜は一瞬目を見開いた後、驚きと興味の入り混じった表情を浮かべた。


「コスプレ……?コスプレって、何?」


 昴は再び顔をあげて、茉莉亜の質問を受けて、少し考え込む。やっぱり、こうして聞かれると恥ずかしくなったが、せっかく言ってしまったからにはしっかり説明しなければならない。昴は頑張って言葉を絞り出した。


「う、うーん、コスプレって……例えば、アニメとかゲームのキャラクターの服を着ることだよ。」


「アニメやゲームのキャラクターの服を?」

 茉莉亜は少し首をかしげ、よく理解できていない様子だった。昴は、どうにかして説明を続けた。


「うん、そうだね。例えば、魔法少女とか、忍者とか、戦士とか、色々なキャラクターがいて、そのキャラの服を着るんだ。」


 昴は少し恥ずかしさを感じながら続ける。自分の中で、コスプレという言葉が何となく恥ずかしくて、どうしても上手く説明できなかった。


「えーっと……それで、そのコスプレって……なんで私にしてほしいの?」


 茉莉亜は少し真剣な表情で質問してきた。昴は目を泳がせながら、再度、恥ずかしさを堪えて答える。


「いや、だってさ……天音さんが言ってくれたから。俺、あんまりこういうこと言えないから……」


「ふーん。」


 茉莉亜は頷きながら、さらに続けて質問を投げかけた。


「じゃあ、空野くんが言ってるコスプレって、どういうキャラがいいの?」


 昴は、その言葉に驚いた。これまで自分の好みをあまり口にしたことがないので、どう答えればいいのかすぐには思いつかなかった。しかし、どうしても言いたくなってしまった。


「例えば……メイド服とか、ウェイトレスの制服とか……、そういうの?」


 昴は、言葉をつけ加えることでさらに顔を真っ赤にしていった。思っていたよりも素直に言ってしまった自分に、恥ずかしさを感じていた。


 茉莉亜は少し考えるように黙り込むと、やがて笑みを浮かべながら言った。


「へぇ、空野くん、結構わかりやすいね。」


 その言葉に、昴はさらに顔を赤くし、心の中で「どうしてこんなことになってしまったんだろう?」と嘆きたくなった。


「でも、もし空野君が自分を変えれたら、頑張ってやってみるね。」


 茉莉亜は、心から楽しそうに微笑んだ。


 昴はその笑顔を見て、少しだけ安心した。これから自分のお願いが実現するのかと思うと、恥ずかしさよりも、少しだけ胸の奥でワクワクする気持ちが湧いてきた。


「ほんとに?じゃあ、コスプレ……お願いしてもいい?」


「うん、頑張ってみるよ。」


 その返事を聞いて、昴は少しホッとした。その笑顔がまた自分に勇気を与えてくれた。あの時、彼女にコスプレを頼んだことが、ただの恥ずかしさから来たものだったとは思えなかった。


 昴は、茉莉亜の優しさを感じながら、心の中で少しだけ新たな希望が湧いてきたのを感じた。そして、次に自分がすべきことは、自分自身を変えることだと心に決めたのだった。


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