第12話 train of thought その5

不気味な声の正体が分からないまま、蘭子さんの乗った阪急電車は動き出した。


「さっきの声…なんやったんやろ…」


あれは誰の声だったのだろう。それともただの空耳だったのだろうか。

幻の1553番。その時の蘭子さんにはその意味がわからなかった。


ひょっとしたら自分はとんでもない罰当たりなことをしたのではないか…。

冷静になるにつれ、そんな漠然とした不安が蘭子さんを襲ってきた。

それでも、今からこのレコードを返しに行くという選択肢だけは有り得なかったそうだ。


車内を見るとまばらだが他にも乗客がいて、蘭子さんはそれだけでホッとした。

両腕にしっかりとレコードを携え、ドア近くの空いた座席に座る。そしてレコードを優しく抱きしめた。


「これでまだ死なんくて済む…」


蘭子さん自身にもよく分からないが、その時は何故か心の底からそう思ったそうだ。


それからしばらくして。


突然、神戸三宮駅に停まった。

蘭子さんの記憶では事前に次の停車駅を知らせる車内アナウンスもなかったらしい。

というより、あの体を押されるような電車が止まる時の慣性も感じなかった。


いつもの見慣れたホームでドアが開く。


不意に、あの不気味な叫び声が脳裏に蘇った。


背筋に悪寒が走る。


気味が悪くなった蘭子さんは本来降りるべき駅(王子公園駅)を待たず、その駅に逃げるように駆け降りた。


けど、蘭子さんを本当に驚かせたのは下車した後だった。


降りてすぐ何かに引かれるように振り返ると、車内の明かりはすべて消えていて、そこには誰一人として乗っていなかったのだ。

もちろん他の乗客が彼女と一緒に降りたわけでもない。

ただ、真っ暗なドアの硝子に蘭子さんの顔だけがぼんやりと幽霊のように映っていた。


驚きのあまり呆然とする蘭子さんの目の前でドアが閉まり、小豆色の車両がまた動き出す。

電車が走り去ってホームを振り返った時、蘭子さんはまた心臓を冷たい手でギュッと掴まれた気がした。


神戸三宮駅は屋根のある地上3階の駅で、ふたつのホームに三本の線路が並走する。

その両方のホームに自分の他に誰もいなかったのだ。

ありえないことだった。

ここは神戸の中心駅のひとつだ。たとえ終電前でもそんなことあるはずがない。


またおかしなことが起きている。


そう思った時。

耳のすぐそばで電車の急ブレーキのような甲高い音が鳴った。

蘭子さんは反射的にビクッと震える。と同時に、自分の周りに人のざわめきや雑踏の音が現れるのを感じた。


咄嗟に周囲を見回す。

するとさきほどの光景が嘘のように、蘭子さんは大勢でごった返すホームに立っていたそうだ。


「何がどうなってるんやろ…」


蘭子さんは夢でも見ていたように思った。

けれど。

その腕の中にはあのレコードが確かに存在した。

いったん外に出ようとエスカレーターで2階に下り、東改札口を抜けた所でスマホを取り出した。


「いま何時やろ」


時刻を確認すると22時38分。

自分の目を疑う。あの駅に降りてすぐ確認した時は22時42分だったはずだ。

時計もおかしいが、大阪梅田から阪急に乗ってからまだ30分程しか経っていなかった。


30分というと、阪急で大阪から神戸にかかる時間とほとんど変わらない。

どこかで下車したなら、そんなことはありえないはずだった。


蘭子さんはその日はもう電車に乗る気になれず、三宮駅の前のロータリーでタクシーを拾って帰宅したそうだ。


これが私が凛子さんから聞いた、蘭子さんがそのレコードを手に入れるに至った経緯だ。

ちなみにそのレコードの音楽を実際に聴いたのは蘭子さんだけ。凛子さんも聴いていない。

聴かせてもらう約束をしていたのだが、その約束の前日に蘭子さんが失踪してしまった。


蘭子さんには悪いけど、私はちょっと信じられなかった。

だって、そもそも阪急の神戸三宮駅より西側にそんな駅なんてない。


神戸三宮駅の次は私もよく使う花隈駅、その次が高速神戸駅で次が終点の新開地駅。たったの3駅だ。

蘭子さんの言うような駅はない。


正直、凛子さんに対して何か都合悪いことがあって嘘をついてるんじゃないかと思う。

それにお金を置いてきたとはいえ、あの蘭子さんが無断でお店からレコードを持ち出したという話もちょっと信じられない。


でも。

あの蘭子さんがそんな非現実的な嘘をつくとも思えない。


もしこの話が本当だとしたら…蘭子さんにそこまでさせる音楽ってどんなものなんだろう…


というか、どっちにしろ蘭子さんが失踪したことには何も変わりない。一体何がどうなってるんだろう。何が本当の事で何がフェイクなんだろう。


「あーもー!」


あれこれ考えすぎて頭が変になりそうだ。

私は他に誰もいない自分の部屋で叫ぶと、床を蹴ってイスを立ってベッドに向かう。

ベッド脇の楽器スタンドにいつも立てかけてあるギターを引っ掴んでストラップを肩にかけ、床に落ちていたピックを拾い、立ったまま思いっきり弦を掻き鳴らした。


コード進行もチューニングも何も無視して気の済むまで感情のまま弾き倒す。

めちゃくちゃに速いストローク。

聴くに耐えない汚いカッティング奏法だ。

でも今の私にはそれでいい。


ギターを掻き鳴らしている時だけは面倒なことも嫌なことも何もかも、真っ白に忘れることが出来る。

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