第6話 失踪とコメダ珈琲 その2

一瞬の静寂がふたたび喧騒を取り戻す。


ピアノの音は大勢の話し声の中に埋もれた。

凛子さんがテーブルに右肘を突き、少しだけ斜めになって身を乗り出す。

利き手の左手に持ったフォークを落ち着きなく振りながら続けた。


「ブルーノートの名前は聞いたことあるよな?」

私は頷く。音階の名前だ。

「たしかブルースで使う音階ですよね。ギターで弾いたことあります」

「そっちのブルーノートじゃない。アメリカの音楽会社のほうのブルーノート」

「音楽会社の? 」


凛子さんみたいな音楽マニアでない私は心当たりがなかった。


「正確にはジャズ専門のレコード会社の名前。聞いたことない?」

「さすがにジャズはわかんないですって」

「まあそのブルーノートってレコード会社があるんだよ。名前の由来は春香が言ったブルースの音階から来てる」


凛子さんはコーヒーで喉を潤す。

私もぬるくなったホットコーヒーを一口飲んだ。


「それで…そのブルーノートのアルバムが蘭子さんの失踪とどう関係あるんですか?」

「蘭子がその未発見アルバムのレコードを見つけたんだよ。いや…本人がそう言ってるだけで本当にそうなのかは私にも分からない」


いつもの凛子さんと違いモヤモヤする話し方だ。

誰に対しても空気を読まない葵さんとはまた違う意味で、キッパリと言い切るのが凛子さんだ。


「何なんですか、はっきり教えてくださいよ。今日の凛子さんちょっと変ですよ」

すると凛子さんはガシガシと頭を搔いて、

「わかってる。ただ…私だって混乱してるし信じられないんだよ」


その時私は当たり前のことに気付く。

そうだ。

凛子さんだって同じ大学の友達で、同じバンドのメンバーが1人失踪して平静でいられるわけない。

大人といってもまだ20歳で、私と3歳しか変わらないのだ。


「すみません。そうですよね、蘭子さんが失踪して冷静でいられるわけ…」

「ブルーノートの幻の未発見アルバムが見つかるなんて信じられない。しかも日本でなんて」

両手の平を見つめ小刻みに震える凛子さん。


えっ?

蘭子さんの心配してたんじゃないの??

嘘でしょ???


「最ッ低です」

「えっ?」

キョトンとする凛子さん。

このひと…やっぱり少し変人だ。

まあ知ってるけど。

私はため息を吐き話を戻した。

「で、どうしてその未発見アルバムのレコードが蘭子さんの失踪に繋がるんですか」

「ああ。それなんだけどな」


凛子さんが説明した。


「ブルーノートには1500番台って呼ばれるアルバムが99枚ある。

1501番から1600番までの品番が振られたジャズアルバム。

なんで100枚じゃなくて99枚かって言うと『1553番』が欠番になってるんだ。それが未だに発見されてない」

「蘭子さんが…それを見つけたんですか?」

「本人はそう言ってる。でも私は研究者じゃないから何とも言えない」

「それが…どうして失踪する理由になるんです?」


そう聞くと凛子さんは眉間にシワを寄せて険しい顔をした。


「あいつ、スランプだったんだよ」

「蘭子さんがですか?!」


また思わず大きな声を出してしまう。

左右や背後から視線が刺さるのが分かり私は声を潜めた。


「でも蘭子さん…この前も新曲作ってきてくれたじゃないですか。私も凛子さんも気に入って次のライヴでやろうって決めたじゃないですか」

「本人は出来に納得してなかったんだ。気が付かなかったか?」


私は言葉に詰まる。

気付くどころか、蘭子さんにスランプなんて絶対にないと思っていた。

どんな演奏でも完璧にこなし、どんなテイストの楽曲でもすぐに作れてしまう天性の音楽家。

こういう人がプロになるのだと、いつもそう思って蘭子さんを眺めていた。


「蘭子はブルーノートの幻の『1553番』を見つけたことで何かが弾けたんだ。

スランプの中でまだ誰も聴いたことの無い圧倒的な傑作に出会った。それが多分、失踪の理由だ」


凛子さんはそう言うと、もう冷めきってしまったナポリタンをフォークに絡ませた。

塊になったパスタに食らいつく。


「私には…分からないです」

しばらくして、私はようやくそう呟いた。

「私だってわかんねーよ」

ナポリタンを豪快に口に押し込みながら、そう凛子さん。

「そうじゃなくて蘭子さんみたいな凄い人がスランプになる理由です!」

「だから私だって同じ気持ちだよ。なんであいつがスランプになったり行方くらましたりすんだって…私たちに心配かけてどうすんだよ」

「あっ」


凛子さんのことだからてっきり例のアルバムの話だと思い込んでいた。

やっぱり凛子さんも蘭子さんのことが気が気ではないのだ。


「すみません」

「なんで春香が謝るんだよ」

「いえ、ごめんなさい」

「変なやつだな。まあ前からそうだけど」


凛子さんは怪訝な様子でそう言い、ナポリタンを食べ終えるとおしぼりで口元をグイッと拭った。

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