第14話 料理の写真集


 

 ジホがこの店に通うようになる前は料理の本が並ぶ本棚の前の席が私の定番席だった。ただそこに座って美しく並ぶ本の背表紙を眺め、本の内容を頭の中だけで巡らせる時間は私にとっての至福の時だ。


 私にとってはそれは暖炉の火を眺める行為のように自身を無心にさせて私を永遠にその場所から動けなくさせる。

 ひとつひとつの本が懸命に自己主張して私に手を伸ばさせたがっているように感じるのだ。

 この棚の本の全てに濃い思い入れがある。本屋で初めてその本を手にした時の興奮や手触り、その重みをそのすべての本について鮮明に思い出すことができた。


 ジホはその本棚の隅の隠れた隙間からから料理の写真集を見つけ出した。 

 その本は私がイギリスにいたころに趣味で作った料理の本だ。

 料理に興味のないジホが指先で丁寧に1ページずつめくって眼を通している姿が嬉しくてその姿を眺めながらワインを飲んだ。



「その本は処分しようと思っていた物だから欲しいのならジホさんにあげるわ。」



ジホは本から目をあげて意地悪な顔でこちらを見た。



「捨てるつもりだったなんて嘘つくなよ。志穂さんが大事にしている本は客の目の届かない場所に隠していることくらいもうとっくにわかってるよ。

 だけど気に入ったからもらっていくよ。大事にする。ありがとう。」



 ジホはこの店に通うようになって本を読むようになったと言った。小説やビジネス書よりは写真集のような物を好んでいるようで旅の写真や建造物、山岳や美術品など写真集を中心に読み漁っていた。

 この店の本は寄付が多いのだが写真集と料理本はほとんどが私の私物だ。

 

 料理を作って写真を撮る事を一時期、趣味にしていた。その料理本はレシピブックではなく料理の写真と料理の仕事をしていた時に書き溜めた作業日誌を見返して書いた料理エッセイだった。文章は日本語と英語で書き、日本とイギリスの両方で出版した。その本は私の気持ちを正直に赤裸々に表現できるように自分の名前では出版しなかった。


 料理の仕事は好きだったがレストランのキッチンで料理するという仕事はいつも私に気持ちの悪い虚しさを感じさせた。手をかけて作り上げられた作品がほんの一瞬だけ存在し、人の手と口で簡単に破壊される。そんな感情を毎日繰り返し感じているとその小さなストレスは少しずつでも確実に溜まっていく。


 その葛藤を軽減させるために作ったのがその料理本で、人に見てもらう事以上に自分が癒される為の物だった。美しく作られた作品がそのままの姿でいつまでも残しておけれることが私を心から喜ばせた。自分の創作したもので自分自身をこれほど喜ばすことができるのは私にとって今はこの料理の写真集だけだった。


 ジホのワイングラスが空になったのでワインを注いであげた。自分のグラスにも入れようとした時、ボトルを傾けすぎてワインの雫が数滴テーブルの上に飛び散った。

 テーブルサイドからナプキンを一枚取り、テーブルのワインの雫を慎重に拭き取る。少しでも残っていると白いシャツにワインの染みが付くからだ。


 その時、ジホが私の左手を掴んだ。それはその瞬間をずっと狙っていたかのように俊敏で一瞬の隙を突いた。



「手だけ握らせて。それ以上は絶対にしないって約束するから。」



 ジホのこの物言いにジホがそれ以上も望んでいることを知った。彼は私が前に言った事をきちんと理解したうえで、それでもなお、私に甘えてくる。こういうことが何度も続くと私もだんだんと情に流されるんではないだろうか。


 昔は人の意見を一切受け入れなかった。自分と真反対の意見は不正解だとも思っていたほど頑固だったし自信家だった。だけど今の私は挫折を経験し、前ほどの強い信念が持てなくなってきている。だからこの事ひとつとってもジホに流されかかっているのだ。


 若い頃は利発で活発、コミュニケーション能力も統率力もあって周りにちやほやされて自分の才能を過信していた。しかしその抜群の身体能力や人の絶対的な信頼を得るコミュニケーション能力が使われなくなると次第に衰えていくという事は知らなかった。

 そしてその力が完全に自分の中で消えてしまった時にやっと失った事に気付いた。 

 自分の中からその能力が消えたとわかった時、愕然として自分の気力と体力の限界を知った。


 失ったものも多かったが得た物もあった。何かに夢中になると突然その能力が開花する。その新しい能力は料理や子育て、写真、音楽だったのだと思う。

 しかし私はその能力がどうなれば失われるかという事をもう知っていた。

 

 好奇心がなくなればそこで終わりなのだ。


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