第12話 左手


 

 いつもの週末でジホとは少し離れた場所で本を物色していると

 


「門倉さんですよね。ご無沙汰しております。」



と突然声をかけられた。名前は出てこなかったが顔は思い出せた。高校時代の剣道部の後輩だった。


 彼は私より2年後輩で一緒に練習をした期間は短かったが明るく人懐っこい性格で女子部員にも男子部員にもかわいがられていた。

 剣道部自体は男子も女子も弱小チームだったが運動神経がずば抜けてよかった私だけがいつも大会で好成績を残し、そんなことから一部の女子生徒から写真を撮られたり誕生日にプレゼントを渡されて得意になっていた時期があった。


 その頃は男であろうと大のおとなであろうと全く負ける気がしなかった。

 男たちはいつも自分より力の強い者にはそれがたとえ女であろうと否応なしに特別な敬意を示し、従った。

 そんな中で男子部員たちからも一目置かれる存在であり、またそれを当然と思って過ごしていた生意気な時期だった。


 彼は私の卒業後の事なども全部知っているようでその事をこの場で話されることに心地悪さを感じた。彼の方も立ち話が苦しくなったのか



「よかったら隣のカフェでお茶をご馳走したいのですが一緒に行ってもらえませんか。」


と誘われた。その誘い方は以前の彼とは違い、自信に満ち溢れていて洗練されていた。周りにジホがいないことを確かめてから



「ごめんなさい。今、友だちと一緒に来てるんです。また今度お話ししましょう。」と言ってその場を立ち去った。



 昔の私を知っている人に会うのは苦痛以外の何物でもなかった。それは以前に仲の良かった人でも親切にされた人でも同じだった。

 書店に来てそれほど時間は経っていなかったが今日はもうゆっくり本を見る気になれない。ジホに黙って自分の店に向かった。

 


 今日の献立は八宝菜だ。ウズラ卵100個近くを慎重に丁寧に殻をむくのは根気のいる作業だが座って音楽を聴きながらすると楽しめる。

 この店では和洋中、エスニックと気まぐれに何でも試した。無口な常連客は当然何も言わないのだが食べ残しはほとんどなかった。


 ジホは週末の定食の常連なので8時に店に来た。いつもの彼のお気に入りの窓際の席は埋まっており、仕方なくカウンターに近いテーブル席に腰を下ろした。

 手には今日書店で買ったと思われる小説を持っており、食事ができるまでそれをランプの下で読んでいる。

 最初はこの店で浮いた存在に見えたジホだったが、こうして見ているとだいぶん店の雰囲気に溶け込んで見えるようになっていた。

 今ではジホが店にいる事が普通の日常になっている。


 8時半になるとジホ以外の全ての客が帰った。その最後の客が帰ってすぐにジホは自分からネオンサインを店内に入れてドアに鍵をかけた。まるで母親の店の手伝いをしている子供ようで微笑ましかった。

 


 その夜は2人でワインを飲みながら映画を観た。

 目ざといジホは昼間の事を何か言ってくるかと思ったが書店は広いし、人も多かったのでどうやら気付かなったようだ。

 映画は見続けるのが辛くなるくらい退屈だったがジホは画面を食入るように観ている。たまらなくなって新しいワインボトルを取りに行こうと立ち上がろうとした時、ジホがいきなり左手首を掴んだ。



「どうしたの?」



「左手は貸してくれるんだろう。」



 まっすぐ私の眼を見てそう言った。有無を言わさぬ高圧的な眼と強引で強いるような態度に一瞬、怒りに似た感情がよぎった。しかしその先、ジホがどのような態度に出るのかを知りたいとも思った。


 ジホは立ち上がった私の腕を乱暴に強く引いてもう一度座らせた。そして私の一つ一つの行動を注意深く察しようとしていることが指先の神経から直に伝わった。


 最初は私の左手を痛いくらいに強く堅く握ったが私が大きく反発しない事がわかると今度は私の左手を包むように優しく握り直した。

 その行動すべてに息苦しさとあきらめを感じていた。そしてその行為は私に気持ち悪い罪悪感と同時に重たい満足感も与えた。


 正直な話、ときどきジホの首筋の動きや眼の輝きに引き寄せられ、自分の意識が持って行かれるような感覚を味わう事は確かにあった。だからとっさにこの手を乱暴に払いのける事も出来なかった。


 しかしその彼に感じる感情は男女の感情とは少し違う気がした。どちらもが自分で自分の責任を取れる年齢の大人なのだがどこかそれは自分の中の倫理に反しているような気持ち悪さをつねに感じていた。

 私は今まで本能に従って生きてきたが計算ができないわけではなかった。

 そして時々見せるジホの強引で身勝手な男の部分に言葉にできないちぐはぐとした居心地の悪さとひりひりとした危機感を感じた。


 そして私には決定権がないかのように扱うジホのその態度に苛ついた。

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