第9話 アイスクリーム
ずっとしたかったこと、できなかったことをする時が来た。
午前中の仕事の合間に紗英に電話をかけた。子供を幼稚園に送り届けた後のひとりの時間だということは頭に入っていた。
今まで絶対に言えないだろうと思っていた言葉が嘘のように口からすらすらと出てきた。自分の今まで紗英に対して持っていた感情が別れの言葉にうまく乗らないように感じた。
紗英との出来事は他人が主人公のドラマの中で理不尽にも感傷的な役割を押し付けられ、それを言われるままに忠実に演じて退出していく時のように感じた。
紗英の電話の声は動揺しているように聞こえた。しかし、それの声を聞いてもやっぱり感情が上手く乗ってこない。
「もう終わりにしたい。もうここには来るな。電話もかけるな。」
最後にそう言って電話を切った後、番号を消した。長い呪縛から解き放された。
これでやっと自分で選択のできる未来が見えた気がした。
仕事から戻ってカップラーメンを食べた後、無性に部屋の掃除がしたくなった。
捨てたい物はたくさんあった。それを片っ端から黒いごみ袋に入れて表のごみ捨て場に放り込み、乱暴に扉を閉めた。
彼女は純粋でかわいくていつも掴み切れないほど儚かった。
最初の頃はいつかおれのところに来るはずだと確信をもって愛情を注いだ。
だけどしばらく経つと彼女の人生に足りないものを自分が満たしてやっているという立場が分かってきた。
そうするうちに自分が犠牲者にでもなったかような振る舞いをするようになり、その感情が紗英と自分を苦しめた。
志穂の言う通りだ。紗英の人生の責任は紗英がとるべき物で自分の人生の責任も自分だけのものだ。お互いに擦り付けるものではないと分かった。
今まで誰にもこんな話をしてこなかった事で感情と思考が絡み合い、頭のなかで堂々巡りをしていた。紗英本人ともうまく話すことができなかったこの長年のうっ憤が志穂の言葉で一瞬にして晴れたことが嬉しかった。
彼女との関係はもどかしくて常に不満を持っていたがそれは彼女のせいではない事は分かっていた。紗英はおれといる時間はおれの事を大事に思ってくれたし、優しかった。
だけどその優しさはおれに対しての後ろめたさからくるものだと思うと素直に喜べなかったし、それを受け入れる自分をぶざまだと恥じた。
こういう形で別れが来る事が見えていたらもう少し紗英に優しくできたような気もする。
志穂が言うように彼女のために自分を犠牲にしていたわけじゃない。おれも人の温かさに飢えていて紗英との関係に救われた。
あの時のおれは右を向いても左を向いても不満だらけで、怒りと無気力の中を彷徨っていた。紗英は自分の貞操を犠牲にしておれの精気を満たしてくれていたのだと今は思う。
そして紗英の夫と同じくらい恐ろしい存在が彼女の娘だった。3年の紗英との付き合いで一度も会ったことのないその娘の存在を紗英の夫と同じくらい憎んでいた。
紗英の夫には堂々とぶつけることができそうな憎しみをその娘にぶつけるにはあまりにも理不尽でそして娘が気の毒だった。だけどこの娘さえいなければといつも考えた。
紗英を好きだったが紗英の人生をすべて背負う覚悟は絶対に持てなかった。他人の子供を紗英と一緒に育てると言う事は考えただけで腹立たしかった。
おれが夢見た紗英との未来は紗英が自分の娘を紗英の夫に押し付けて、身一つでおれのもとに来る事だった。
おれがもし紗英の娘まで受け入れるほど成熟していたならもっと違う関係になっていたかもしれない。
志穂がおれの過去を聞かないでいてくれることが助かった。人に自分の事を話すことが嫌だった。
自分の人生はずっと後ろめたい事や恥ずかしいことだらけですべて記憶から消したいと思っていた。
なのに志穂の事はいろいろ知りたかった。志穂はああは言うが自分の今まで歩んできた過去に自信があるのだと思う。少なくとも後悔することはないはずだ。
だからなんのためらいもなくおれの聞いたことに正直に答えられる。身近にそういう成功体験を持つ者がいると人生のいい勉強になった。
部屋のごみを片付けてすっきりすると部屋の埃が目立ったが、これ以上は頑張る気にはなれずにベットに倒れこんだ。携帯で時間を見ると8時半だった。
こんな大きな決断をした日でも行くところがあるから全く感傷的にならずに済む。
むしろ重荷が取れて身が軽くなったような気すらしている。
志穂のためにコンビニでアイスクリームでも買っていこうと思った。
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