第8話 不倫
今日の献立は海老フライのカレーだ。私は海老フライが大好きでエビフライ定食、エビフライ丼、エビフライカレーなど頻繁にメニューに登場させる。
海老の尻尾を押さえて殻を丁寧に取る。背ワタと尻尾の根元の尖りを取り、海老の背中と腹に包丁で切れ目を入れてまっすぐに伸ばそうとすると指先に筋の切れる心地よい感覚が伝わった。
海老を大きく見栄え良く見せるために衣を二重に付け、軽く握って形を整えてバットに並べていく。
余分に作ってジホが来たらおつまみにして出そうと思った。来なかったら私が彼の分は食べてしまおう。来なくてもがっかりすることはない。
期待していなかったのにジホは9時きっかりに現れ、他の客がいないことを確認して店に入った。昨日あんな事があったにもかかわらず来てくれたことに安堵した。
だけどジホの目を見ればわかる。言いたいことが言い出せない目だ。
黙ってワイングラスとエビフライを乗せたお皿をジホの前に置いたがジホはワインにも食事にも手を付けずにただ黙って座っていた。
この人はいつもそうだ。私に何か話をしに来たことは確かなはずなのにただ黙って特別な威圧感だけをこちらに与える。
それは慣れないと煩わしく感じる態度でしかないのだが今では彼のその不器用な行動や必死で虚勢を張っている姿勢にほだされるような愛着を持つようになってきている。
こちらから話しかけるのも何か違うと思い、パソコンで自分の仕事を始めた。
昨日の気まずい出来事の後でも変わらずにこの店に来てくれて私の前に座ってくれているだけでよかった。
一緒にお酒を飲んでくれる友人がいるというだけで私のささくれた感情に温かい潤いを与えてくれてるのだから。
話なんて特にしたいわけじゃない。まあ話をしてくれると嬉しいとは思うけど。
窓ガラスに映ったパソコンの青白い光はこのお店の雰囲気にそぐわないなと考えながらお店の帳簿を付けていた。
「付き合ってはいないけどときどき会う女がいる。」
ジホは小さな声で言った。だけどなんとなく目を合わせられず黙ってパソコンの画面を見続けた。
悪い事をして打ち明ける時の子供のように小さく頼りない声だった。
「そいつは5歳年下で結婚していて神戸に住んでいてもう3年くらい経つ。」
一気に言ってしまえという感じのしゃべり方だった。
ちょっと意地悪な気持ちになり、そのままパソコンを見続けた。
私の沈黙に耐え切れなくなったジホはテーブルの上のシュガーポットの蓋を開けたり閉めたりし始めた。
「がっかりした?」
無言でパソコンを見続けることにもう我慢できなくなり、パソコンから目を上げてジホを見た。
何もおもしろい事は言ってないのに無理やり笑おうと努力している顔だった。
「がっかりするような内容じゃないわ。いろんな恋愛があって当たり前よ。」
「経験が豊富な奴の意見だな。」
今日のジホは誰かに甘えたいようでもあるし、それでいてそういう自分に照れ臭くなりわざと突っかかってくるような態度でもある。
話すことがなくなったので私もまたパソコンに目を戻したがもう仕事する気にはならなかった。
「あんな誘い方してごめんな。」
自分でも思いがけず大きなため息をついてしまった。
そしてそれをごまかすように
「別に誘うのは自由だし断るのも自由だわ。」っと言って笑って余裕を見せた。
「それに恥ずかしがることじゃないわ。堂々としてるべきよ。その彼女だってルールに反してると分かっていながらもそれでもあなたを必要としているわけでしょ。3年もそんな彼女を支えてきたことを誇りに思うべきだわ。」
「人が聞いたらびっくりするようなことを平気で言うんだな。」
「人って誰?世間の常識に従って行動すれば正しい道に導いてくれるとでも思ってるの?そんな不確かなものに自分の大切な人生の選択や責任を押し付けるつもりなの?
人の意見に流されずに自分の頭できちんと考えて行動してすべての責任を自分で取るべきだわ。
あなただってその女性のために自分の人生を犠牲にしているなんて思いあがってるわけじゃないでしょ。あなたが心から切実にその女性を望んでいるから今に至るわけでしょ。
堂々としていなさい。もしそれで慰謝料を請求されるようなことになったらかっこよくまとめてきっちり払ってやりなさいよ。そこまで完璧に出来たらほめてあげるわ。」
口から言葉がどんどん出てきた。この言葉が相手を肯定する言葉じゃなくて攻撃する言葉だとジホ自身も理解したはずだった。こんな意地悪な言い方をする自分を呪った。
黙って打ちひしがれてしまったジホは初めてワインのグラスに手を伸ばした。ジホがしっかり酔えるようにワインをグラスに並々と注ぐ。
ジホはワイングラス半分ほど一気に飲むとそのままグラスを手にしたままテーブルにうつぶせになった。今の顔を私に見られたくないんだなと理解した。
彼を苦しめているものが得体のしれない大きな塊で、無口なジホはその葛藤をその女性ともうまく分かち合うことができず、一人で苦しみに向き合ってきたのだろう。
ジホの過去のいろんな事情が彼の自信と未来を奪い、その劣等感から周りに必要以上の虚勢を張って必死で生きてきたのかと思ったら居たたまれなくなった。
しばらくうつぶせのまま動かなかったジホが私の左手を掴んだ。
「左手だけかしてあげる。他には触れないでね。」
私の左手を包むジホの掌は想像通り大きくてごつっとした手なのだけれどその手から伝わる温度はまるでこちらが慰められているかのように心地よくて安心した。
左手が使えないので右手だけで仕事をする。今、急いでしなければならない仕事ではなかったけど長い間、左手を掴まれていると手持ち無沙汰になるからやっているだけだ。
うつ伏せになったジホの背中の線が呼吸に合わせてゆっくりと動く。
シャツから透けて見える肩から腰にかけての盛り上がりは普段見ているジホからは想像できないくらい逞しく見えた。
こんなに立派な背中を持つ男が5歳下の若い女性に振り回されて苦しんでいるのだ。堅い筋肉質の背中の奥に柔らかくて傷つきやすい心臓を持っている。
その背中の動きをずっと見ていると感情の柔らかい部分にエロスを感じた。
仕事が一通り終わってもジホは手を放してくれなかった。どうやらそのまま眠ったらしい。手をそのまま動かさずにパソコンを充電して映画を観た。
途中ジホが起きてきて何を観てるのか聞いた。画面をジホに見えやすいように向けてやるとしばらくぼーっと観ていたがそのうちまた眠り込んでしまった。
その間もずっと手を放してくれなかった。
気付いた時には辺りは明るくなり始めていてジホは椅子にしっかりと座りなおし、薄暗い空を見上げていた。
その表情は昨日とは違ってはっきりとした意思を持った目だった。
これでもう大丈夫だと安心したと同時に昨夜、初めて見せた気弱なジホとはお別れなのだと思うとそれが少し残念だった。
トイレの洗面台で簡単に身だしを整えてコーヒーを淹れ、オムレツとトーストを準備してテーブルに運ぶ。
ジホはそれをあっという間に平らげてコーヒーの残りを流し込み、そしてそのまま黙って店を去って行った。
ジホのために何かできた気がして今の自分を少し誇らしく思った。
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