第7話 名前



 週末の昼は書店に行くとかならずジホがいた。書店内ではなんとなくお互い距離を取っていて、別々に来て別々に帰って行くのだからはたから見れば完全に他人だった。


 しかしその日はめずらしくジホは私の隣でタウン誌や男性誌を物色していた。

 パラパラと料理雑誌を見ていると 志穂さん?と話しかけられた。

 その女性は以前、私がこの土地に住んでいた時の知り合いで子供が小さかった時にお互いの子供同士を遊ばせたことがあった。


 とっさにジホの方に目を向けるとジホもこちらを見ていた。



「あれー。もしかして息子さん?大きくなったのね。やっぱり若くに子供を産むっていいわね。こうやってデートできるから。」



 そして彼女はしばらく自分の家族のことや共通の知人の名前を出し、その近況を口早に教えてくれて立ち去った。


 ジホは8時過ぎに店に現れた。いつものように定食を注文してどかっと席に着く。今日の献立はマカロニグラタンとパンとグリーンサラダだった。

 オーブン料理は提供するまでに少し時間がかかる。ジホの料理が出来上がる前に全ての客が帰っていた。なので今日はジホに料理とワインをゆっくり味わってもらおうとグラタンに合うワインを真剣に選んだ。


 料理とワインをテーブルに並べるといつもの店なのにどこか知らないレストランのようにも見える。

 ジホは熱々の食べ物を食べるのが不得意のようだ。ゆっくりと慎重に食べるその姿を眺めながらお酒を飲んだ。いつもよりだいぶん時間をかけて味わって食べてくれたことに満足だった。



「ついに名前を知られてしまったわね。まあこれくらい親密になれば時間の問題だったわね。」


 ジホのグラスにワインを注ぎ足し、照れ隠しのためにわざと面白おかしく話を切り出したが返ってきた答えは意外だった。



「知ってたよ。」



「どうやって知ることができたの?」



「志穂さんってやっぱりバカなんだな。取引先なんだから会社で名簿を見ればすぐにわかるよ。」



 そういう可能性を全く考えていなかった。あえて自分の名前を隠していたことがなんだかとても子供っぽい行動に感じた。


 ジホは食事を終えたところで



「子供の写真見せてよ。」



と珍しくやさしい笑顔で催促した。


 

 手帳に挟めていた一枚の古い写真をテーブルのスタンドの下に置いた。

 それは子供たちがまだ小さかった時の一枚で上の長男が5歳、長女が4歳、次男が2歳の時に3人で一緒に写した写真で私のお気に入りだった。



「これって平成の写真?かなり古い時代の物に見えるけど。」



「もちろん平成よ。私の年を考えればわかりそうなものでしょ。」



「歳は教えてもらってないよ。だからめちゃくちゃ若作りの可能性だってある。」



その言い方にどこか責められているような感覚になった。



「子供たちとはいつから会ってないの?」



「ここ一年くらいは会えていないけどよく連絡してくれるわ。子供たちがみんな大きくなってから離婚したの。」



「こんな古い写真を大事にしているから生き別れなのかと思ったよ。」



「人はそう思う物なのね。知らなかったわ。携帯電話を持っていないから最近の写真は持ちあわせていないだけよ。

 ただこの一枚は気に入っているからいつも手元に置いてるの。確かに子どもの写真を見せてと言われてこの写真一枚だけ出したら訳ありと思うかもれないわね。

 この写真を見てわかるように裕福な生活ではなかったけれど楽しい思い出もたくさんあるし、子供たちは私から見ればみんな健全にみえるわよ。」

 


 めずらしく饒舌になって子供たちの事をしゃべってしまった。そしてジホは写真を手に取りながら嬉しそうに話を聞いた。



「いい家族なんだろうな。この兄弟の中で育ちたかったな。」


 いつもと違った棘のないやわらかい声色で優しく言った。その声がなぜかジホ自身から発せられた言葉ではないような切実で温かい響きがした。

 なぜか突然、その場の感情に耐えきれなくなってワインのボトルをカウンターに戻すふりをしてその場を離れた。


 心を落ち着かせてジホの目の前に戻るとその写真を手帳にしまった。

 話題を変えたくなって手帳を広げて


「ジホさんの名前の漢字を教えて。」


 と手帳とボールペンを差し出した。ジホの字は見た目からは想像できないくらいきれいで正確な筆運びだった。そして驚いたことに漢字まで私と同じだった。

 ジホに私の名前を丁寧に書いてもらったような気になり、意味もなくうれしくなった。しかしジホにはその感情を読まれたくなくてなるべく平然を装った。



「日本ではこの名前は女の子に付けることが普通なんだけどコリアでは男の子の名前なのね。」



「おれたちの国ではジホという名前は男でも女でも使うよ。だけどこの字のジホはあまりないんだ。」


 そう言って大切そうに手帳を私に渡した。

 今日はなぜだか感情を揺さぶられる話題が多い。そのすべてに平然を装っていたがやっぱり完全に感情を抑えることはできず、自分でも顔が少し熱い事が分かる。 

 その酔いを悟られないように帰る前にトイレの洗面台で頬を少し濡らした。

 外に出ると風が心地よく頬を冷やしてくれた。


 今夜はいつもより夜道の人通りが多かった。どうやら近くの神社で春祭りをしているらしく、光る風船やりんご飴を持って浮かれている若者たちとすれ違った。その陽気に誘われて少しだけ歩きたくなり、いつもと違う道を選んだらジホは黙ってついてきた。



「息子なんて言われてなんで嘘ついたの?」



「嘘?嘘なんてつかなかったわよ。ただ何も言わなかっただけよ。私、嘘は嫌いなの。」



「あの女性が本当の事を知れば嘘つかれたと思うはずだよ。」



「人がどう思うかという事は本来、大切な事ではないのよ。本当に大事なのは自分が自分の発した言葉に正々堂々としていられるかという事よ。だからあれはあの人の勘違いであってそれによって私自身の意識は一つも変わらないわ。」



「理屈だね。」



「少しはバカじゃないところを見せられたかしら。」



 この人とこうやってただ歩いているだけなのに自分の気持ちが若かりし頃に戻った感覚になるのはなぜだろうか。彼の横にいる時の自分は今の自分の立場や経験、過去の記憶をすべてリセットして拭い去り、過剰な自信と明るい未来への絶対的な信頼を持っていたあの頃の昔の自分だった。


 人はそれを若返ると言うのだろうけどその行為は年甲斐もない、はしたない事のようにも思えるし、女性が持つ本能的な欲求のようにも思える。ジホといる時の自分は今までの自分とは切り離された別の人生を選択してきたもう一人の自分のようだった。

 


「ここがおれの家だよ。寄っていきたい?」



 そこはうちから40分ほど歩いたところにある小さなアパートだった。

 

 それはこれまでの付き合いでジホが初めて見せた男の顔だった。そのジホの言葉に先ほどまで感じていた自分の浮ついた感情がいかに恥ずかしくて浅はかな考えなのかに気付き突然水を浴びせられたように我に返った。



「いいえ。今日は帰るわ。ここで別れましょう。」

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