第5話 本屋
それからジホは2日と空けず、店に通うようになった。いつも9時前に店を訪れて食事を取るときもあればコーヒーだけの時もある。
そして毎回閉店後に2時間ほど一緒に酒を飲む。私が本を読んだりパソコンで仕事をしたりしているとジホは自分で本棚から本を持ってきて勝手に隣で静かに読んだ。
「仕事以外の時間は何してるの?」
本を読んでいる所で不意に話しかけられた。昨日から読み始めた歴史小説がクライマックスに差し掛かっており、それに夢中になっていたせいでとっさにジホが何を言ったのか理解できずに聞き返した。
彼はいつも何の脈略もなく唐突に話かけて、そして突然黙る。そして自分自身の事は一切話さずいつも私にばかりしゃべらせた。
「残念なことに本当に何もすることがないのよ。毎朝7時ごろに起きるんだけど家事や父の食事の準備をして、書店で時間をつぶしてから出勤するの。この生活をこの一年間、毎日休まず続けているけど休みたいと思ったこともないし、それ以外にしたいことも思いつかないの。最近は人と会うことにも億劫になってしまってこの店の営業を理由に断ってるわ。」
「よく誘われたりするの?」
「そりゃあ地元だもの。ここで育ってきたから離婚して帰ってきた当初は誰もが気を使って誘ってくれたりしたけどそのすべてを断ってたらそのうち誰も誘ってこなくなった。申し訳ないけど今はそれがとてもありがたいのよ。」
しばらく黙って宙を見つめていたがそれ以上話を続ける意思がないのか、彼も本に目を戻してまた黙り込んだ。
父の事を話したことに少し後悔していた。あまり触れられたくない話題なのにむしろ自分から話してしまったからだった。父は病を患っていた。その事も離婚して地元に帰ってきた理由の一つだった。
もう一度小説に意識を戻そうとしたがなんとなく今、話してしまった事が気になって最初のように本に没頭する事ができなくなった。
次の日の朝は急いで家の事を済ませてからいつもより少し早い時間に書店に向かった。どうしても手に入れたい新刊があったからだ。
書店の新刊コーナーの前に立つと目当ての本はたくさんの手書きのポップの横にかなりのスペースを取って平積みされていた。
積まれた本の間から誰にも触れられていない特別な一冊を取り出す。
いつも思うのだが刷られたばかりの本というのは手触りが違う。細かい紙の繊維のそば立ちがどこか小動物を思わせる触り心地で古本になるにつれてその感覚を失っていく。その大事な一冊を手に抱えて雑誌の棚に移動した。
いつもこの料理雑誌のコーナーから店の料理のヒントを得ている。きれいな料理の写真を見ているだけで想像力を掻き立てられ、料理に対する好奇心を刺激される。この時間も仕事に対してのモチベーションを高めるための大切な時間だった。
喫茶店の雰囲気に合わせた料理ばかりではなく、時には大胆な挑戦もした。外国の料理であったり、この辺りではあまり知られていない有名店のレシピを試すこともあった。それは客の反応よりも自分自身の好奇心を満足させるための行為だった。
しばらく雑誌の記事に見入っていたが、ふと隣の男性の足元が気になり、その靴を視線だけ動かして注視した。自分がこの位置に立ってからしばらくこの場所にとどまっている足元だった。
なんとなく居心地が悪くなり前髪で目もとを隠し、ダウンジャケットの高めの襟にあごを深くうずめて目線を上げずにその男と反対の方に歩き出した。
目線を下げたまま背後に神経を集中させて気配を探ると明らかに誰かが後ろから一定の距離を置いて付いてきている。
気持ちが悪いので買おうと思っていた本を平積みの小説の上に適当に置いて速足で店を出ようとしたその時、誰かに思いっきりジャケットの肘の当たりを掴まれた。
咄嗟のその勢いで視線が上がり、その顔を確認した。それは見慣れた顔だった。
「おもしろい事をするわね。」
ジホは少し意地悪そうな顔で笑って
「ちゃんと本買えよ。」
と言って、そのまま店を出て行った。
その夜は週末なのにジホは店を訪れなかった。
平日はこない日もあったが週末は必ず来て定食を注文していたので、一人分だけ取って置いたのだがそれが無駄になってしまった。
そしてその次の日も来なかった。なんだか一方的に振られたような気になってなんとなく不愉快だった。
月曜日にいつもと同じ時間にジホが配達に来た。しかしいつものように黙って荷物を置き、伝票を置いてそそくさと出て行く。
夜9時を過ぎて店を閉め、店の奥の席でワインを飲みながらパソコンで映画を見ていると誰かがガラス窓をノックした。ジホだった。
店のドアの鍵を開けて招き入れるとジホはいつもの窓際の席ではなく先ほどまで私が映画を見ていたパソコンのある席に座った。
「飲むでしょ。」
グラスをカウンターに取りに行き、新しいボトルを開けた。
「週末は充実していたようね。」
話をけしかけてみた。ジホはそれに対してしばらく黙ってワインに口を付けていたが
「デートしてた。」
と小さい声で言った。
なんとなくつまらなくなってヘッドフォンを付け直してまた映画の続きを観た。
しばらく映画に見入っているとジホが突然ヘッドフォンのプラグを抜いた。
「何観てるの。」
ヘッドフォンからステレオに切り替わると思いのほか音量が大きかったので急いで音量を操作してかすかに聞こえる程度まで下げる。
「そこの棚に青い背表紙の小説があるでしょ。それが映画になったから観てたの。
自分の思い描いたイメージと人の感性がどう違うのか見るのが面白いのよ。背景や人物像がまるで違っていて別のお話みたいに感じるわ。」
「がっかりとかしない?」
「しないわね。私の思い描いていたイメージと違ったものを見ても作品から最初に受けた印象が変わるわけじゃないから。だけど映画の方を先に見てから本を読む時は完全に映画のイメージに支配されてしまうのよ。」
ふたりでパソコンを傾けて小さな音量のまま映画の続きを観た。ヘッドフォンじゃないと映画の世界に入り込めなかった。ただ動くスクリーンの中の登場人物を目で追っていた。
「自意識過剰だな。」
「この女性が?」
「いや。あんたが。」
いつも唐突に始まる会話の脈略がつかめない。思い当たる節をしばらく探っていると書店でのことに思い当たった。
「あなたは知らないかもしれないけどああゆう場所での痴漢行為って意外と多いのよ。本に集中していると周りが見えなくなるし、読んでいる本を知らない人に隣から覗かれてるなんて考えを見透かされているようでぞっとするわ。」
「じゃああんな場所に行かなければいい。本なんてネットで買えるんだし。」
「私の唯一の気晴らしだって言ったでしょ。やめれるわけがないわ。」
ジホはまた黙ってしまったのでスクリーンに目を戻した。
いつもジホから唐突に話しかけられるから今度はこっちから仕掛けてみようと少し意地悪な気持ちになった。
「彼女がいたのね。」
しばらく返事を待ったが返答がなかった。あからさまに無視されてしまった。
ジホはそういう男だった。こちらにはいろいろ話をさせるが自分の事は一切言わない。こちらだけが一方的に身ぐるみを剝がされるようだった。そして私の話をたいして楽しんで聞いているようにも見えなかった。
ただ真顔で淡々と私の話すことを聞く。
映画が終わってもなんとなくそのままエンドロールを見続ける。
結局、映画に集中することができなかった。今度またジホがいない時にもう一度見直そうと思ってパソコンを閉じた。
グラスを洗って水が切れるように立てかけ、電気を切り二人で表に出た。セキュリティーシステムの確認をしていつものように別れようとした時、いつも反対方向に歩いていくジホが自分の後ろから付いてきた。
「なに?」
「送る。」
誰かに家まで送られた経験がなかった。その行為は自分とは全く関係のない行為に思えたが初めての事でそれが新鮮に感じた。
ゆっくり歩いても20分足らずで家に着く。家の前で立ち止まると何も言わずに黙ってそのまま行ってしまった。
「これで家まで知られてしまったわね。」
なんとなく愉快になって一人で声に出して言ってみた。
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