第4話 ワイン



 いつも通りの配達時間に昨日の男が現れた。その態度は前回とかわらず厚かましいほど堂々としていて、それが逆に気を遣わせなくて助かった。

 前と同じように何も言わず伝票を配達の食材の上にのせてプラスチック製の箱を折り畳んで黙って出て行った。その態度が数日間ずっと頭を悩ませたことを全て払拭してくれ、なんの憂いもなく仕事に集中させてくれることになった。


 今日の定食はハンバーグだ。しっかり手で捏ねてからきれいに形を整えてバットに並べ、冷蔵庫で冷やしておく。注文が来ればフライパンで表面に焦げ目をつけて鉄板にニンジンとスパゲティを盛り付けてオーブンに入れ、アツアツの鉄板のままサービスする。ご飯かパンのどちらかを選ぶことができてコンソメスープを添えて提供している。


 7時を過ぎたあたりから急に雨が降り出してきた。仕事帰りの男性が数人まとまって訪れて一時的に店が混雑したがこんな日は誰もが食べた後すぐに店を後にした。

 店内には熱い鉄板に熱されたハンバーグの甘いソースの匂いが立ち込めて外気の重たい湿気と混ざり合ってまったりと濃い空気を作った。


 8時を過ぎた頃、またあの男が一人でやってきた。それとほぼ同時にサラリーマン風の男性も入ってきた。男は周りの客が食べている定食に目をやり、もう一人の男性の注文の仕方を見てからカウンターまで来た。

 「定食で」と一言言って自分の席に戻り、また宙を眺めて待っていた。


 2人がほぼ同時に注文してくれたので手間が省けて助かった。いつもの調子で素早く2人分仕上げてカウンターに置いた所でこの店の勝手がわかる常連客の方はすぐに取りに来てくれたが、そのことを知らない男は自分の席で前と同じように宙を見つめてひたすら待っている。

 男の外見やひりつくような空気感は明らかにこの店の客とは異なっていてどうしても目に付く。


 この店に料理が目当てで来てくれる客は一時期頻繁に通い詰めてくれるがこの店の暗く重苦しい空気感に馴染むことが出来ず、その内ぱたりと来なくなる。

 この店は他の店と違って人の雑踏が感じられず、それが人によっては息詰まって感じられるらしかった。

 この男がこの店を訪れる真意がわからなかった。仕事での責任を感じて顧客の機嫌を取るのために店を訪れるような男ではないはずだ。あきらかにこの場に不釣り合いに見えるこの男はこの空間を居心地悪く感じていないのだろうか。


 カウンターを出てテーブルまで配膳してやると男は目も合わせずに食事に手を付け始めた。若いだけあって同時に食べ始めた男性がまだ半分も食べ終わらないうちに食べ終え、他の客を見習って食器をカウンターに戻し、設置されたお茶のポットから自分で湯飲みにお茶を入れ、カウンターのアーモンドタルトをもって自分の席に戻った。


 雨の日の夜は誰もがいつもよりも早い時間に帰宅する。今日は9時前には店内はあの男だけになった。そのタイミングを見計らって男のテーブルに近付いた。

 話すことがないような気もしたがなんとなく話しかけてみたくなったのだ。


「ワインを飲んでるんだけど一緒にどう?」


男はしばらくこちらの表情を覗き見て静かに小さくうなずいた。


 二人で向き合ってワインを飲んだが特別話す言葉は浮かんでこなかった。男の素性を知りたいとも思わない。ただ前と同じで彼の手に興味を持った。その風貌に似合わない大きくて力強い手の形を気付かれないように盗み見る。

 どちらも口を開かなかったがお互い緊張を感じる事もなく、無言であることが自然と思える空気感だった。2人ともただ黙って静かに窓ガラスに当たる水滴を眺めながらワインを飲み続けた。

 男のグラスが空になったのでカウンターの奥からボトルごと持ち出して男のグラスに注いでやった。



「あの時、俺の事を箒で殴ろうとしたの?」


男がいきなり話を切り出した。



「少しでも動いたら突いてやろうと思ったの。」


男はまっすぐこっちを見て言った。



「もしおれがあの場でなにか行動を起こしてたら逃げずに向かって来たってことか。すごいな。」



「男でも女でも戦うべきところで逃げ出す奴が大嫌いなの。」



「おれはあの時、あんたにおれの事を殴って欲しいと思ったよ。」



 男はまっすぐに私の瞳を見て、その言葉に自分の気持ちを乗せるかのようにしっかりとその言葉を伝えてきた。


 なんだか今日はいつもよりワインの香りが甘く感じた。ワインのラベルをライトスタンドの下で読み込んだ。何かワインの味に関して特別な情報が得られないかと思ったからだ。

 しかしラベルにはいつもと同じような事しか書いてなくて何のヒントも得られなかった。



「殴って欲しかったら今ここにワインのボトルがあるけどどうする?」


 男は出会って初めて険しい表情を崩した。表情を崩したのはその一瞬だけだった。



「私たち案外、気が合いそうね。友達になりましょう。名前は何?」



「アン・ジホ。ジホでいいよ。」



「門倉よ。」



「下の名前は何?」



「もう少し親しくなったら教えるわ。」



「歳は?」



「あなたよりはずっと年上よ。」



「なんか友達というわりには偉そうな態度なんだな。」



「そうよね。多分まだあなたの事を警戒しているからだわ。あと友達ってどうやって作るものだったのか思い出せないでいるのよ。」



ワインの瓶がすぐに空いてしまった。いつも一人で飲むことに慣れていたのでその速さに驚いた。店のカウンターの奥からもう一本出してきてゆっくりとコルクを回す。



「門倉さんはアル中なの?仕事中に飲むなんて考えられないね。」



「悪い事じゃないわよ。この店は年中無休でやってるんだからこの時間にお酒を飲む事ができなければ一年中ずっとお酒を飲むチャンスがないの。そのかわり家ではほとんど飲まないし、お店でも8時より前には飲まないって決めてるの。」



「偉そうに言うなよ。毎晩これだけ飲んでたらある程度はアル中だよ。」

 

 話してみると不思議と話しやすかった。ざっと見たところ歳は10近く離れてそうだったがその遠慮のない口調は歳の差を感じさせなかったし、だれかの大胆で

正直な意見も久々でそれが心地よく感じた。


 こんなコンセプトの喫茶店を経営しているだけあって人との会話が苦痛でいつも話をしてる途中で会話に疲れてしまって別の事を考えたりした。ある時から当たり障りのない何でもない会話からその奥に潜む悪意みたいなものが透けて見えるようになり、人と真剣に向き合って話すことが怖くなって自然と人との距離を取るようになっていった。


 昔は友達を作るという事を意識したことがなかった。私の周りには自然と私の事を理解してくれる人が集まったし、その人たちが私を居心地悪くさせる事はなかった。

 この無口な男は最初から印象が悪かった。しかし彼の話す言葉と内面に差がないように見えた。それは男がまだ若いからなのかもしれない。

 

 最初に友達になりましょうと言ってはみたものの、全くの社交辞令ではないにしろ、あまり本気ではなかったが会話の速度も話と話の間に長い間が生じることも気まずくなるどころかむしろ親しみを感じた。そんな感覚はこの土地に戻って初めての事だと思った。ただそのことが不思議ではあったがあまり深く考えないでおいた。


 人間関係なんてものはいつでも突然に自分や他人の都合で途絶えたり、煩わしく感じるようになったりするものだ。この男にしてもある日いきなり話がつまらなく聞こえたりするかもしれない。人というのはいつも身勝手で自分においてはそれに輪をかけてわがままだった。



「本が好きなの?」



「そうね。本が好きだし本に囲まれているこの環境が好きなの。好きな本に囲まれて好きな音楽を聴きながら好きな料理だけを作るこんなお店が私の長年の理想だったのよ。だから年中無休でもまったく苦にならないし、むしろ今の生活を贅沢に感じてるわ。」



「俺にはここは寂しい場所に見えるよ。」



「寂しい人たちが堂々と寂しいと言えるお店だからそう思うのよ。」

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夕立ち はじめ次郎 @JHajime

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